第十八話 初陣と縁談
織田喜六郎秀孝はしょげている。やりたくもないこと――戦のあとだから。
赤塚の戦い。後世そう呼ばれているその戦いは、この世界線の場合はあっけなく終わった。
現代だと、ため池の釣り堀と古墳の山裾のほか、日本中のどこでも見られるコンクリートの街路と住宅地で固められている、そこは……この時代だと、三の山(山王山)とアシの群生する湿地帯のはざまにあった。ため池も、コンクリもない。あるのは赤土の古墳の山と、洪水の時の水が溜まっている湿地だった。
春雨が降った。
小氷河期のそれは身に凍える。
さほど音もなく降る雨のなかで、あるものは喜び合い、あるものは傷の手当てをし、あるものは念仏を唱えている……秀孝の場合は呆然としていた。
早く撤収しないと増援がくる――兄であり、総大将である、上総介信長からお達しがきている以上、手柄の確認は手早く済ませるべきだった。だからこそ、だろう。
「……これは逆賊の首です、若さま。いえ、殿」
元・小姓頭――いまは編成中の秀孝家中の側近に収まっている、藤浪忠左――元服して、忠左衛門尉秀鑑と名乗っている、顔色の悪い長身のかれが、生首を持って述べた。
秀孝はその生首を呆然と見ている――山口九郎次郎教吉の首。敵将であった。まだ若い。数えの二十歳――現代だと十九歳。その年齢の意味を考えざるをえない……まだ大人ですらないのに。
そして、また、山口教吉という若い武将は……秀孝ら、織田弾正忠家(勝幡織田氏)の元・味方だった。
秀鑑が言う。
「……ここいら、尾張南東部の領主家である、かの山口家は、いまや駿河の今川義元の走狗となりおおせました。隣国の三河国は今川領国となって日が浅く、だからこそ、これを放棄するという手は今川方にはございませぬ――なにをどう思案したところで、今川方の事情が求める次なる一手はこの尾張国への侵出なのです」
このころ、織田信長は鳴海や星崎の国衆・山口家の謀反を叩かねばならなかった。顔見知り同士である。ほかならない、お家の新当主として、信長が出馬せねば収まりがつかなかった。
まったく苦労だ。信長はそう言って笑っていたが――当主になってから一ヶ月ほどしか経ってない時期での謀反である。むしろ、だからだ、という敵方の意図は読めるが……信長の心労いかばかりだろう。
この時、秀孝の傍らでは、初陣で息の上がった牧清十郎――こちらも元服して秀盈と名乗っている――が濡れた地面に座り込み、イケメンな横顔に万感の想いのようなものを滲ませていた。
笑っているから、さほど悪いことではないのだろう。秀孝を守り切れた、ということが嬉しいに違いなかった。
先の戦い――開戦後、信長の鉄砲衆の何度目かの射撃でだいたい敵を崩せたが、だからこそ、敵が信長へ向かって突撃をかけた。しゃにむに突撃し、混戦に持ち込むことで、事態の巻き返しを図ったのだろう。それは正しかった。
だが、そこへ、事前の計画に従って、敵勢の横合いへ移動していた秀孝勢が、ここぞとばかりに突っ込んだ。
今生の兄が危ない! その時の秀孝の判断は、兄を守ることでいっぱいだった……そして勝った。
でも、イヤなことはそのあとで分かった。戦の最中では気づかなかったこと――誰かのために戦うことは、ほかの誰かを傷つけ、場合によってはその命を奪うことにほかならない――ということが、重く胸に沈んだのだ。
遠くでは、秀孝の足軽衆三百人ばかしを率いる、井伊刑部大輔直元が、ケガをした足軽を見回っていた。本来なら秀孝もそれをすべきなのだが……。
秀孝はぎこちない笑顔で藤浪秀鑑を見た。無理をしているのが一目で分かる。秀鑑が瞑目し、なにかに気づいた牧秀盈が秀孝を見上げてくる。
秀孝は戦が嫌いだ。
命のやり取りが嫌い。
争いごとなんてしたくない――みんなで笑っていたい。
けれど、この場において――自分の愛すべきなにもかもの味方であろうとする限り――秀孝は往古の名将にならなければいけなかった。いま、そうはなれないにしても……そうなれるように、一分、一秒、刹那の努力が必要だった。
だって、そうしなきゃ、大事な誰かがもっと傷つく――だから、秀孝はたどたどしく言った。
「帰ろう、那古野へ。ご褒美(恩賞)は、そこで決めよう――」
そこでうつむく。肩が震えた。こんなの言いたくない。ひとの命のやり取りを良いこととして、ご褒美を考えるのなんてイヤだ。
その時、肩に手が置かれた。
秀孝がハッと顔を上げると、信長がいた。頷かれる。
なにか心に響くものがあって、秀孝は視界が滲んだ。もう一度、うつむき、息を吐く。そして、その愛らしい顔に、この時だけ――往古の名将たちもかくや、という、キリリとしたものを覗かせた。
藤浪秀鑑が信長と秀孝に頭を下げていて、牧秀盈が表情を一転して、物憂げな様子になっていた。
遠くで、足軽衆が見ている。
足軽大将(傭兵隊長)の井伊直元――かれは秀孝らの教官役でもあった――が、内心はともかく、厳しいまなざしで秀孝を見ている。秀孝はなにもかも分かっていた。弱音は吐けない。たとえ内心がどんなにひどいありさまでも……大事なひとが傍にいるのなら、そのためにこそ、しなきゃいけないことがあるから。
秀孝は今度こそ、ニッコリと笑って、両手を振って自分の位置を示し、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。注目。そして、みんなに聴こえる声で言った。
「みんなお疲れさま~! 帰るよ~っ!」
あとでご褒美も出すよ~、と。
天文二十一年(1552)四月下旬――。
冷たい雨の降る初陣であった。
◇
さて、大将首を取って秀孝の地位も上がるか、というと、現段階の情勢下では難しい面がある。藤浪秀鑑はこう言う。
「……いま、殿の地位を上げることは、大殿(信長)の自殺行為なのですよ」
尾張国西部の蜂須賀村。元々の織田弾正忠家の本拠・勝幡や津島から北東にちょっと歩いたところ。
尾張国は意外と、丘陵や河川で風景が細かく切り替わる。特に東部に行くにつれて坂道が増えたり急流渓谷が増えたりするが、西部のほうの蜂須賀の辺りは平地が広がって見晴らしがよい(これは那古野の辺りもそうだが)。
さらに西に行くと険しい山なので、無限の平地でこそないが、見晴らしがよいというのは爽快なものだ(ただし、天気が悪い時の平野部の空は見晴らしがよいぶん雲、雲、雲、なので、ちょっとげんなりするのだが)。
最近の秀孝は信長とカルガモの親子な面がある。
元服してからこっち、本来なら、もっとゆっくり武家の運営を学ぶところを、応急的に学習せねばならないから、とりあえず当主の働きぶりを見ていなさい、という感じで信長が連れ回し、秀孝もそれを望んでいるのだ(混乱期だと応急の勉強だけさせて現場に放り込む方法はよくありはする)。
蜂須賀屋敷の庭。この辺りの領主――というべきか、山賊? あるいはざっくり自営業というべきかも知れない、地元のボス――の敷地内であった。
周囲に空堀と逆茂木を巡らせているほかは野盗の隠れ家のような一軒家がデーンと構えている、そこは――史実はどうか知らないが、この世界線の――信長がよく相談にくる家であった。
美濃と尾張をよく往来しているのが、この家の人間だからだ。
メッセンジャー的な仕事のほか、交渉や農業、水運と陸上運送、戦の手伝いと、やってる仕事が多岐にわたるため、仕事を訊かれてもよく分からないわけだ(たぶん当人らも自分の職業がなんなのか分からないに違いない。強いていえば、なんでも屋か)。
現在の当主(というか、頭目)は蜂須賀小六正勝という漢である。荒事と交渉に強いやつ。この小六――数えの二十七歳――と、信長が屋敷内で話をしている。秀孝らは、外で待っておれ、と庭で待機状態であった。
ともあれ、その小六屋敷の、庭の木の下。
秀孝が、コテンと首を傾げてオウム返しした。
「じさつこうい?」
「……さようです――」
秀鑑が応じよう、とした時だ。
「お、弟さま、弟さま、弟さまっ! それ、それ、それ、アレですよ。あ、あ、あなたに領地を上げてしまうと、そこが『バカ』に……ああいえ、弟さまのことじゃなくて、土地が、土地が、土地がね? 『バカ』になるのですっ!」
誰かがどもりつつ言った。
すわなにやつぞ、と藤浪秀鑑と牧秀盈が得物を取って立つ。下手人というかなんというか、発言者――声質は女の子だった――の姿を探し、庭の木の上にぽつねんと座っているのを見つける。目元にくまがあって、帳面と筆を持っていた。
秀孝が何歩か前へ出て、木の上の女の子を見る――とても変わった格好をしていた。別に、着物の一つ、一つは変ではないのだが、コーディネートが変であった。ありていにいえば『上着と半パン』である。
木綿の小袖と羽織、半袴を着て、不健康そうな白すぎる肌をしている。垂れ髪はボサボサでまとまりがなく――よくいえばウェーブがかかっているが――重ね重ね……一つ、一つはふつうなのだが、組み合わさることで『変なこと』になっていた。
「キミは誰?」
と、秀孝。
年頃は似たようなものだろう。数えの十二歳かそこら。女の子は、おどおどとしたまなざしで秀孝らを見下ろし、足袋を着用している脚をきゅっと縮こまらせている。帳面をたたんで、あたふたと懐にしまい、女の子が下を覗き込むようにして、こっそりと言う。
「墨、です……!」
「ああ、アレ、うちの妹でござる」
屋敷から大男が顔だけ出して言った。小六である。
ボサボサの総髪とマゲ、あごに無精ヒゲを生やした、ふうていの悪い漢なのだが、声色が温厚で、妙に落ち着く。交渉事に強いのも、この手のぼやっとした声の持ち主だからだろう(性格の粘り強さももちろんあるが)。
秀孝ら、小六に頭を下げる。あ、どうも~、という感じ。小六もにこやかに頭を下げ、一転、木の上のお墨をギロリと睨み、
「おおい、お墨! お客人になんかあったらタダじゃおかねえぞッ!?」
と、叱りつけてのち、引っ込んでしまった。まだ話の続きだったようだ。秀孝らが木の上に視線を移すと、お墨がいない。あれっ? と周囲を見渡すと、木の裏側の辺りをセミかなんかのような姿勢でズリッ……ズリッ……と這い降りてくるところだった。多少、身体が震えているのは兄の怒声のせいだろうか。
「お、おおお、恐れ入ります(?)」
最後はパッと手を放して、よろけながら降り立った。秀孝が――木を降りるお墨をハラハラしながら見守ったせいか――がんばったね……! 的な、やさしい表情であたたかい拍手を送った。すると、お墨は照れ、もじもじしつつ、
「……うひひ」
と、短く笑った。
ここで藤浪秀鑑、前へ出る。いつものまなざし――秀孝以外の誰かに対しての極悪なまでの愛想のなさでもって、立った。お墨、怯える。秀孝がなにか言おうとするのを秀鑑が制し、言うのだ。
「……続けて」
珍しい反応である。秀孝と牧秀盈が顔を見合わせ、秀盈が、
「今日は槍が降るな」
と言ったところで、お墨が応じた。
「よ、よよ、要は、引き、引き、ヒキッ――引き継ぎ、の、問題、ででで、ですから」
「お墨ちゃん、深呼吸だよ!」
「墨っち、吸って、吐いてー!」
「スヒィスヒィスヒィ……ヒィ~ッ!」
「吸ってる! お墨ちゃん、それぜんぶ吸ってる~!?」
「……ややこしいから殿と清十郎は下がって!」
と、ごちゃごちゃやりつつ、お墨が言い切るのだ。
「つ、つまり……弟さまっ、に、領地を、ま、任せてしまえば、ですね、領地のどこに、な、なにがあるのか、把握するので忙しく、その……領地からの諸税と……しょ、諸役も、ですね、滞る、の、のの……のです!」
「……その通り」
秀鑑がお墨のぐだぐだな言葉を引き取って、秀孝に丁寧に教えた。
「……つまり、お墨殿の申される通りに、管理の前任者との交代をすると、しばらくは場が混乱するのですね」
「よい娘であろう」
その時、信長が庭に出てきて、言った。
後ろに小六もついてきている……が、その小六、なにやらニヤッとした笑みを秀孝に向けてくる。秀孝はキョトンとした。信長がお墨の前に立ち、ジロジロと眺めて、秀孝のほうを見る。信長が言った。
「奥の管理に向いている。まだ候補の話だが……室(嫁)にどうだ?」
◇
一方、その頃、尾張東部の雲興寺では――。
「喜六殿が初陣を! ほう! うむ? うむむ……まあのう、いろいろあると思うのう、喜六殿はおやさしいから――ワシならばお家のためと割り切れるところでも、きっと気にされることであろうのう……――」
山というほど山ではないが、それなりに山である雲興寺の辺りは谷のような形状になっている。東に行くほど山深くなる、山々の入り口の山というか、山なのは確かだが、まあ山といってもいろいろだ(西部に向かって視界が開けているので、山なんだけど、そんな山深くないな、という風景である)。
この時代、お寺は産業拠点や、その出資者の地位にある。座(組合)の元締めがお寺である場合も多い。史実上の雲興寺の経済基盤がなんだったのかは知らないが、この世界線の場合は牛馬の飼育でお堂や敷地の管理維持費をまかなっている。もちろん、織田弾正忠家の出資もあるのだが(このお寺は曹洞宗、織田弾正忠家の宗旨も曹洞宗である)。
井伊次郎法師直虎。数えの十七歳。きつい猫目が切なげに上がり、牛舎の屋根を見ている。男装というか、すぐ動ける軽装だが、目鼻立ちが整っていて、雰囲気が鋭い。髪を後ろでまとめて、首にかからない感じで流していた。
彼女を見るものはハッと背筋を整えたくなるだろう。凛として清らか。武芸者の持つ緊張感が見るものの肌に伝わる。おそらく同性にモテる。なにぶん集団のなかに放り込むと目立つ子であろうし、なにより、キリリとしながら、他人の気持ちになれるところがあった。
ともあれ、ここは牛舎。牛がウロウロしつつ、モーウモーウと重く鳴き、世話役の子どもがエサをやったり、棒で牛をつついて奥のほうにやりながら、地面の掃除をしている(牛はでかいので近づかれると恐いのだ)。
「申し訳ないが……ここの臭いは、私にはちょっとなぁ……」
と、牛舎の臭いを嫌がっているのは、直虎の大叔父の井伊直元である。立場は先述しているので、来歴はこう。お家の問題で又姪(甥の娘)を連れ立って、旧縁を頼って尾張国へ亡命、いろいろあって織田弾正忠家に仕えている。
要は井伊家が内外の危機に際して、一族の分散を図り、お家の保持ではなく、再興や存続を狙った、ということだ。それだけ井伊家の内部と外圧の強さに問題がある、ということでもある。
内部では家老の小野氏の専横、外部では今川家の権力拡大が続いていたし、その両者が連携を取っているのだから、危機も危機だった。
「牛はくさいものじゃ、大叔父上」
「偉くなったな、次郎。昔なら、井伊家の惣領娘が牛の世話など……と申しそうであったが、なにやら物言いがこう……まあ、よいか」
直元が笑い、奥のほうでウロウロし続けている牛を見た。直元は鼻をうごめかせ、身震いする。馬は平気でも、牛の臭いはやっぱりダメのようだ。苦労人はいつもなんらかの我慢をしているタチなだけに、どうしてもダメなものはとことんダメだったりする。
直虎が片眉を上げる。しょうがないなぁ、という感じ。気を利かせて、ほかの牛の世話役の子どもに声をかけて、すまんが、少し休憩を頂くぞ、と断って、は~い、という声を背中に、外へ出た(本来、牛の世話はかれらの仕事なので、直虎が抜けても困らない。むしろ、日頃から手伝ってもらって、助かっているくらいだった)。
外の空気を吸うと、直元があからさまにホッとしたようだ。直虎が井戸水で手を洗い、手ぬぐいで適当に身だしなみを整えたところで、向き直った。
直元の目を見て、言うのだ。
「なにか言いにくいことがおありか?」
とたん、直元が目を見張った。それから、バツが悪そうに後頭部をかき、苦笑した。
「やっぱり、成長したのかな、次郎は? お父上の物言いに似てきた」
「ワシは近頃、母上に似てきたのう、と自分では思いまするが……」
「それもあるかも知れん。おなごは知りたがるからこそ鋭い……ああ、いや、このような話をしにきたのではないのだ」
直元はもう一度、苦笑し、深呼吸した。背筋を伸ばし、言った。
「嫁を頂戴することになった」
「というと、織田弾正忠家から?」
「うむ。殿(秀孝)の姉君、大殿(信長)の妹君にあたられる。どうも私を殿の家老格にしたいらしい」
「それはよい話じゃ!」
「まあ、そうなのだが、聴け。織田家庶流の津田の名乗りと、出雲守の受領名も頂いた。さすがに、井伊の名を捨てるのは忍びないので、文書に署名をすることがあれば、ぜひ、ということにさせてもらったが」
「おう、つまり、日頃は井伊刑部を名乗る、公式の場では津田出雲守と名乗る。そういうことですな、大叔父上? いやはや、大変じゃのう、ワハハ!」
「笑いごとではないぞ、次郎! ここからは、おまえにも、かかわりがある話になる――聴く用意はできたか?」
「用意もなにも……大叔父上は、織田弾正忠家に仕えてから、ちいとせわしなくなっておらぬか?」
「おまえはのんきになったと思う。まあ聴け、まあ聴け……縁談だ」
「誰に?」
「おまえに――」
言われて、直虎は嘆息した。あまり嬉しそうではない。故郷にいたころは許婚もいたが、親の取り決めなど箸の上げ下げと同じ、しつけに近い。強いていえば似たような年齢の稽古相手がいる、くらいに受け取っていた直虎だ(関係は自然解消されるかたちになっていた)。
なので、
「いつかくる、とは思っておりました――」
「嬉しくはないのか、次郎?」
「どこの誰とも知らない御仁とですじゃ。嬉しい、という気持ちになど、なれるはずがございませぬ」
「ああ、そうか。おまえな――」
「あいや、お待ちあれ、大叔父上!」
くっ、となにかを耐えるような表情で直虎は待ったをかけた。急に走って、どこかへ行く。待て、と言われたので、じっと待った直元のところへ、直虎が駆け戻った。手元にはお手紙の山があった……なんだろう。
「これは、次郎?」
「よくぞ訊いてくれましたな、大叔父上。喜六殿のお手紙じゃ」
「ああ、そういうやり取りをしていたな。気の利くというか、気の利かせ方がおなごのような方だな、と……ああいや、バカにしているわけではなく、むしろありがたい、と思ったものだが」
「さようです。ワシもありがたかった……喜六殿は数年来、ワシのことを気にかけてくれて、月に一度は便りをくれたものですじゃ。喜六殿は人気者じゃのう。お手紙から、それとなく察しがつくのじゃ……ワシもお返事を書いたが、なにぶん筆下手でのう……カチコチのお返事になっていたと思うが、喜六殿はワシに付き合って、何度もお手紙や、折に触れてお手製のお菓子を……」
直虎がそこで、急にか細い声を出した。
「されば、この次郎法師直虎、誰ぞの室になる、という時に……なぜか、このお手紙のことが思い出されて……」
「ああ、うん……」
「ああ、うん、って……よいのですじゃ。どうせ大叔父上はワシの気持ちなんて分からぬに決まっておる。ワシだって分からない……なにゆえこのような気持ちになるのか」
「心苦しいのか?」
「苦しい? ああ、そうやも知れませぬ……なにゆえ苦しいのか――」
「胸が締め付けられる思い?」
「さようです! えっ、なんで? まあよいのですじゃ。大叔父上もひとの子、きっとワシの知らぬ苦労も……どうかおっしゃってくだされ、大叔父上。ワシは……ワシは、なんぞの病気でしょうか?」
「まあ病気と言えば病気かも知れぬが――」
「ああ――」
直虎はその場で座り込んでしまった。立つ気力がないらしい。もはや身も世もない、という表情で直元を見上げ、うるんだ瞳をした。苦しげに言う。
「ならば、この次郎は死ぬのでございましょうか?」
「死にはしないと思うが……えぇ、どうだろう? 死ぬのかも知れん」
そこで、直元は急にめんどくさくなった。ぞんざいな口調で言う。
「次郎、おまえは源氏物語を読んだことがあったかな?」
「ないですじゃ」
「ああ、うん……分かった。ああ~、そうか~、うっかりしてたな~。そういう落とし穴があったか~……――」
どう伝えたらいいのだろう。直元はそう思って、頭を抱えた。要は不憫な子ではあるのだ……心の動きなんて、誰かから教えられなきゃ知らない。心のとある動きが、ある、と言えるのは、それを教えられているからこそ……教えられてなかったら、考えを及ぼすこともできない。想像がつかないのだろう。
逆をいえば、教えてしまえばよい、ということではある。
かといって、いまさら直元が教えてやる、というのも、なんか違う気がした。どうせなら――すべての台風の目が懇切丁寧に教えてあげればよい。直元はそんな感じのことを考えたので、この又姪の――井伊直虎の、最大最悪の(あるいは最高の)かん違いだけを是正してやった。
「縁談は武家の奥方が取り仕切るもの。この点において、末盛城の土田御前さまの肝いりである。また、室は一人とは限らん。公家や主家の姫でも迎えるのでなければ、奥の管理はできるものがする。私はそのご縁の紹介にあずからせて頂いている――まあ、しがない大叔父ということだ。よいな、次郎」
直元はもったいぶり、怪訝に愁眉を深めた直虎を眼下に見据えて……大叔父としての笑顔を浮かべた。いいか、次郎、おまえの縁談の相手は……直虎が聴き、怪訝な表情から、キョトンとし、次いで――。
四月下旬。寒気と暖気が交互にやってきながら――それでも、あたたかいほうに向かっている季節であった。




