第十四話 加納口の戦い(四)
織田弾正忠信秀は喜びをかみしめていた。
自分の戦下手は分かっている。
だからこそ、自陣営の誇る戦上手を各所に配置し、お金をばらまき、諸将のケツを叩いて、自らにできる最善の努力をした。
すると、どうだ。斎藤道三は尾張衆の勢いに圧されて、手も足も出ない、という報告であった。
殿さまはご機嫌だ、と信秀の馬廻衆はささやき合った。かれら馬廻衆とて、自慢げな顔をしている。
確かに、勝っているのだ。たかだか圧しているだけ、と言うなかれ。敵は斎藤道三。美濃国における常勝将軍が相手なのだ。
小さな勝利の積み重ねは、それが最終的な勝利のかけらにすぎないとしても、兵らに夢を見る権利を与える。やる気の出る夢を。それは信秀とて例外ではない。
「順調だな」
信秀は本陣の陣幕前で、腕を組んで立ちつつ、誰ともなく言った。陣幕前に立っているのは、なるたけ前へ出ていたほうが報告を受け取りやすいためだ。時刻はとっくにお昼をすぎ、夕方の色合いが濃くなり始めていた。
信秀の声を聴いた、周囲の馬廻衆(直接護衛戦力)・二百騎ばかしの顔は力強い笑顔。それを見た、信秀はやにわに笑みほころんだ。こういう裏表のない笑顔を本気で浮かべられるから信秀は人気だった。
こうあれかしという笑顔。馬廻衆は信秀の笑顔に照らされてそこにいるようなものだった。
少なくとも、かれらには後ろ盾となる光が必要だった。武家の次男、三男や、没落した家の子という自らの生い立ちを知っているのなら、生き残るための居場所は、できうるのなら、陽の光のなかで孤児の表情を捨て去れる場所がよかった。
(こいつらもオレの子みたいなもんだ)
信秀は馬廻衆を見渡しながら思った。照れくさいので口には出さない。が、たぶん信秀の空気は馬廻衆に伝わっているだろう。
「逸るな。オレらの出番があるような戦じゃねえぞ」
信秀は周囲の馬廻衆がなんか急にやる気をみなぎらせたのを感じ取り、落ち着いた声で抑えた。誰しもすべてが分かるわけではない。
「伝令~っ!」
伝令が駆けてきた。信秀の姿を視認するや、ハッとして馬から飛び降り、駆け寄って片膝をつき、申し上げます、と早口に言った。
「内藤勝介さまより伝令! すでに夕暮れが近く、陽のあるうちに斎藤勢と距離を取りたい。殿さまのご意向はいかに、と!」
問われて、信秀は夕暮れの空を見上げた。少し浮かれていたな、と自嘲した。ほんの一瞬のことだ。信秀は伝令の肩に手をやり、軽く叩きながら、しっかと応じた。
「許す! 勝介に『よく気を遣った』と言ってくれ。苦労!」
「かたじけなし!」
伝令がこういう表情を浮かべるのか、と誰しも思うほど明るい表情で顔を上げ、信秀に一礼して馬を駆り、去って行った。上から一言あるだけで気分が違う。信秀は気を引き締めた顔をした。
「おい、伝令を飛ばすぞ! 五人組、井ノ口を攻めている与三や与次郎のところへ行ってくれ!」
青山与三右衛門信昌や、弟の織田与次郎信康のところへ行ってくれと言っている。戦闘中のところなので、部隊の最小単位でだ。すぐに役割の騎馬武者たちが前へ出てきた。信秀は相手の目を見て内容を伝え、やはり相手の身体の一部を叩きつつ、
「頼んだ!」
と、一人、一人の顔を見て、申し伝えた。信秀の将領の意気に対し、ハッ! と元気よく応じた騎馬武者たちが北へ向かって駆け去って行く。
信秀は見送ったあとで、陣幕をくぐった。これ以上なにか命令することはない。信秀がそのように手配りしたからではあるが、前線と本陣には距離があった。
何重にも張り巡らされた陣幕の口を通って、奥の床几に座る。とたん、ため息がもれた。なんのため息かは自分でも分からなかった。昔から、戦陣には慣れなかったような気がしている。
信秀は目を瞑った。鎧兜の汗臭さと、自分の呼吸音だけがしている。
『伝令~ッ!』
いくらかの時がすぎた。陣幕の外で伝令の声が上がり、信秀は瞑っていた目を開け、報告を待った。陣幕の口を走り抜けて、伝令が信秀の眼前で片膝をつき、言った。その声色はどこか興奮していた。
「内藤勝介さまより伝令! 加納口、道三の旗印を確認! 殿さまにおかれましては、迎え撃つゆえ、ご案じ召されるな、と!」
「道三」
信秀は自分の声色が緊張するのが分かった。このまま返事をすれば、声が震えるのが分かり切っているため、一度だけ、深呼吸をした。
だいじょうぶなのか、とは問わなかった。信秀の足軽衆を率いる、内藤勝介である。おそらくは後備の部隊と連絡し合って後退運動に入ったところだろうから、狭い加納口正面からは半ば自由になれているはず。正面全体で四千の兵力。敵の総数が分からないが、迎撃はできる、悪くない数のはずだった。
そうだとも。信秀は思った。徹底された訓練を行った部隊と熟練の大将の組み合わせは、いかなる時であれ強力であるはずであった――道三側もそうである、という点に目を瞑れば。
「苦労!」
信秀は将領の勇気でもって声の震えを抑えた。それでも、返事が常と比べて短くなるのは避けられなかった。伝令は気づかなかった。いつもの信秀の対応が丁寧すぎ、たいていの将領のところでは手ぶりだけで返されるのも常だったから。
ハッ、と儀礼的な応答を返し、伝令が駆け去った。その背中が陣幕に覆われて見えなくなってから、信秀は将領としての勇気の奥の自分を発した。唇が震え、手が震える。ほんのわずかの間に抑えた。
勝てるはずだ。一度だけ、信秀は心中で唱えた。予備兵力たる本陣の手勢は三千ばかしだが、馬廻衆(随行の足軽も含めて)の千二百を除けば、国衆たちの差し出した侍とその兵らが大半であった。
ほか、兵站用の兵らが四千八百ほどいるが、これは指揮官を除けば、ほとんど民間の運送業者で成り立っているので、戦闘力に数えない(戦えないこともないが、連携が仕込まれてないので、一時的に暴れておしまいになるだろう。人命の浪費でしかないので、兵站任務さえ果たしたあとなら逃げていいぜ、と言い含めてある。契約金ないし租税免除のぶんは働いてもらうしかないが)。
戦闘要員だけ数えれば、尾張衆の総数は前に述べたように、一万二千そこそこ。信康勢二千五百、信昌勢三千、勝介勢その他四千、本陣三千ほどの内幕だ。信康と信昌が威力偵察ののち、可能ならば助攻、勝介その他が主攻の段取りであった。もちろん現場の判断を優先するように、と部隊指揮権の干犯の愚は避けているが。
手持ちの足軽衆は内藤勝介に預けてある。
いわば――嫡男の信長の抱える足軽衆や、現在編制中の勘十郎(のちの信行)や喜六郎(のちの秀孝)の足軽衆未満をのぞけば――手持ちの最精鋭は戦闘正面に投入しているのだから、負けるはずがなかった。
(そうだ。負けるはずがねえ)
信秀はまなじりをキッと上げて、思った。無事に後退してきてくれれば、この本陣の予備兵力と連携して、道三を料理できる。むしろ好機じゃねえか。そう信念した。そこでやっと、信秀は将領の顔を取り戻し、部下を呼んで、言った。
「おい。すぐに戦えるようにしておけよ」
信秀が自他に命じられたのは、それくらいだ。
戦いにきたのだ。国元のために、家族を残して、斎藤道三を倒し、美濃に新政権を打ち建てるために。やることがハッキリしているのなら、迷いは禁物であった。
薄闇が辺りを覆い始めている。秋の終わりは近い。
◇
実際には、勝介の伝令が信秀の本陣を訪れている時、勝介その他の将領の率いる加納口正面の総勢四千のうち、二千ばかしの尾張衆は戦闘状態に入り、その右翼が崩れかけていた。
「抜けぇ~ッ!」
内藤勝介が声をからして叫び、襲いかかってくる獰猛な斎藤勢へ槍衆の打擲攻撃の雨を降らせた。頭や肩を槍で砕かれ、敵兵が奇怪な呻きをもらして倒れ伏す。幾人かが負傷する間に、後ろからぞろりと別の敵兵が出てくる。切りがなかった。
(数が多い!)
勝介は内心で悲鳴を上げた。勝介の担当する左翼こそ味方四千人中、最大の千五百人を率いているから、まだ保っているようなもので、右翼を支える千人ほどは、斎藤勢の攻勢を支えきれず、ほとんど潰走状態に陥っているのが見て取れた。
中央はない。千人規模の兵らが三列も並べるほどの広さはないからだ。
その、加納口の土塁正面からすればいくらか後退し、多少は広くなったそこで、湧き出てくるような敵兵を叩き伏し、切り倒しても、後ろからぞろぞろと隊列を補填されるのでは、斎藤勢の攻勢はまったく支えられるものではなかった。
勝介に斎藤勢と同じ用兵はできない。千五百人の範囲ならば可能だ。つまりはそれが物事の答えであった。
あんな悪夢じみた用兵ができるとしたら、全体の指揮権を握る総大将か、その立場にいる総大将代行だけ――つまりは尾張衆なら、織田信秀。斎藤勢なら? 畜生、決まっている! 勝介は必死で敵勢を押しとどめようとしながら、思った。なにもかもの符号が一致するようであった。
赤坂の辺りで友軍の朝倉勢に撃破されたあと、その動向が不明の敵。いなくなった百姓連中。道三かも知れない正面の敵将。つくりかけとはいえ、えらくあっさり土塁の突破を許したらしい中河原の敵兵たち……。
(数が多い――ッ!)
何度目かの悲鳴を心中でもらしたところで、いきなり、勝介は落馬した。飛来した弓矢が馬の額に当たり、馬が即死したからだ。斎藤勢の狂気じみた攻勢を支えていた勝介の部下たちにとり、信頼する大将の落馬――かれらにとっての英雄の姿の消失――は持てる勇気を喪失するに充分な理由となりえた。
誰かが奇妙な悲鳴を上げた。隣の兵が気づき、そちらに振り向いた時、さらに別の方向で複数の兵らが同じ悲鳴を上げて、武器を投げ捨てて走り始めていた。残った兵――かれの耳に組頭の怒声が届く。
「待て、待て! 『退くな』! 待て!」
ふと気づけば、かれの正面から一本の槍が襲いかかり、かれの額を砕いた。そのさまを見たかれの同僚は――それも複数が――より大きな悲鳴を上げ、誰よりも早くその場から離れようと、武器を投げ捨てて逃げ出し始めた。
加納口正面の尾張衆で最強の勝介勢が潰走に陥った時、正面全体の四千もまた崩れていた。
本陣において報告を聴き、『後詰(予備兵力)を率いて、オレ自らが出る!』と血走った眼で喚いた信秀が、必死の馬廻衆に説得され、兜を脱ぎ捨てた頭をかきむしりながら戦場からの離脱を決断したのは、戦線崩壊から半刻も経たない頃合いであった。




