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第十話 宴会と輝くひと

 愛媛県の方言において、


『きょろさく』


 というと、慌て者とか、バカ、あるいはマヌケ程度の意味合いがあるが、前世の秀孝はよく母方の祖父母に『きょろさく!』と怒られていた。

 理由はお察し願う。

 ただ、


「へ~、そうなんだ! 許婚はおえいさんっていうの? お団子が好きなんだ、ボクも好き!」


 きょろさくの良いところは人見知りしないところではあるのだ。


 那古野の館城である。

 古くは那古野今川氏の居城だったというが、織田信秀の策略によって奪取され、幼少の信長のお城となったところであった。


「三郎殿の住まいというのは、みやこふうだな」


 と、森三左衛門尉可成が、会話の合間、独りごちた。


 要するに、室町時代で主流の館のつくり、ということで、短くいうと封建領主の日常の場である。前面に受付といえる広場、後方に政庁たる主殿しゅでん、西隣して来客用の会所かいしょ、北西に現代でいう駐車場の馬屋、会所と接した西側に憩いの場として庭園まである。


 秀孝らがきゃいきゃいと会話に興じているのは、庭園を眺められる会所であった。

 みんなで信長を出迎え、信長のほうも次郎(仮)と可成の主従に興味を持ち――その正体に気づき――こうして館城にお通ししている、というわけだ。


 お相手は秀孝。信長は宴会の準備があるから、名代として同腹の弟をあてがうのは、それなりに妥当だろう。


 次郎(仮)が縁側にあぐらをかいて、ピンと張った背筋の先から、ほう、と溜息をつき、給仕役の小姓から自然な動作で白湯をもらいつつ、言うのだ。


越前えちぜんを思い出す――朝倉あさくら殿のお住まいも、このようなみやびなところであった」


 と、くぴ、と白湯を呑む。そして、うまい、ありがとう、的な謝辞を小姓に伝えた。


 信長の小姓であるのに、小姓は口元をゆるませ、瞳を輝かせた。この場合、小姓の浮気症(?)を咎めるべきか、次郎(仮)のふるまいの丁寧さを褒めるべきか、それは判断が分かれる。なんにせよ、この次郎(仮)、これでなかなか『たらし』であった。


 次郎(仮)は貴種らしい横顔で庭園を見回し、微笑んだ。典雅である。秀孝はそういう次郎(仮)の風情に、一瞬、我を忘れたような顔をした。そうしてから、


「桜です!」


 と、いわでもがななことを言った。


 秀孝の言う通り、庭園は季節の葉桜が生い茂っている。葉桜とは桜の若葉のことで、花は散った後であるが、これはこれで風情があった。夕陽のなかで葉桜の影が深まる。歌を詠むにはなかなかの題材だ。池には蓮がつぼみをつけており、もう少しすれば花が咲くはずだ。


 かがり火の準備もされている。宴会はすぐだろう。

 次郎(仮)が、ふと秀孝のほうを見て、やさしい微笑みを浮かべた。秀孝はその視線を受け止めて、ちょっと首を傾げた。さっきの会話をいまごろ不思議がるのだ。

 秀孝は言う。


「越前ってどこですか、次郎さん?」

「北国です、喜六殿」


 次郎(仮)は応じ、手を馬屋の方角にかざした。武骨な手である。傷痕もあった。その手を秀孝はジッと見て、次いで、次郎(仮)の顔を見た。


 秀孝は思う。とうてい戦なんかしてなさそうな顔をしてるのに。


 不思議であった。どこかの大学生みたいなひとであった。このひとが戦を経験しているのだろうか。それをいうなら、今生のお父さんは大工の棟梁みたいだけど。もちろん、秀孝なりの見方をいうならだ。


 次郎(仮)が、気品はあるが、顔立ち自体はそこらの兄ちゃんっぽい横顔を馬屋の方角に向けて、遠くを見るように目を細めた。その表情、ますます大学生っぽい。遠方の学生さんがふとした頃合いに故郷を想うような――秀孝がそう思うのと、次郎(仮)が口を開くのは同時であった。


「母が朝倉家の所縁だったので。何度か、往来を重ねました」

「へぇ~!」


 秀孝は、珍しく思考中だったせいか、声量調整を間違え、やや大きな声を出してしまった。次郎(仮)が驚いたように秀孝を見る。あっ、とバツが悪い秀孝は、えへへ、と笑ってごまかしつつ、前世、実家の喫茶店でトレイと注文票を胸にしていたように、今生の幼い胸に両手をあて、こうと言うのだ。


「福井県かなぁ? ボク行ったことないですっ!」

「ふくい?」

「県です!」


 ニッコリと言う秀孝に、次郎(仮)主従は面食らい、しかし、頷くほかない。すげえ可愛い笑顔だからだ。


「お、おお、さようか。ふくい、けん、か……分かるか、三左?」

「それがしにはさっぱり……尾張の方言でしょうか?」

「カニがおいしいところですよね、確か!」


 炸裂する秀孝流のトーク術だが、こんなに可愛い男の娘が言うなら、かえって頷かないと申し訳ないレベルである。

 次郎(仮)は呆れつつも、秀孝、という存在に感心し、


「なんというか……喜六殿は荘子そうしのふうがあるようですな」


 と、教養人らしい物言いで『なに言ってるか分からないが、なんとなくありがたくはある』と秀孝を形容した時だ。


「お待たせいたした」


 裏の台所のほうから出て来たのは、誰あろう織田三郎信長である。


 膳を持っていた。


 元来、圧倒的なヤンキーの眼光を持つ信長である。『もしや毒では?』と膳の中身を疑いかねないが、別に毒は持ってきてない。


 男は台所に立つものではない、という近代から昭和にかけての風習がなんでできたのかはちょっと調べてもよく分からなかったが、戦国時代では主人自ら料理を振舞うのが良いとされた時代らしい。少なくとも、この世界線はそうである。


 なので、当然、信長は堂々としているし、客の次郎(仮)主従のほうも落ち着いたものである。もっとも、膳を持つ信長の眼光に、ギョッとしたのは否定しえなかったが、そこは『ガンをつけられた』旨で刃傷沙汰に及んでないぶん、戦国時代の武家的には礼儀のあるスマートな対応であった。


「おう、これは」

「粗末なものではありますが、心づくしの膳です」


 この場合の心づくしの膳は特定伊達家が危惧しそうな毒成分入りの山鳥とかではないので留意すべきである。


「うわぁ、良い匂い!」


 とたん、秀孝がはしゃぐような声を発した。信長はその眼光で、メッ! とばかりに秀孝を睨み伏せ、一気に青い顔をした秀孝に対して、言うのだ。


「少し落ち着け。お客人の前であるぞ、喜六――」

「いや、子どもは元気なほうがよろしい。のう、三左!?」

「さ、さよう。男の料理じゃあ! 三郎殿、ちいと早いだろうが、無礼講ということでよいではありませぬか!」


 と、次郎(仮)主従のナイスフォロー!


 といって、別に信長は怒ってたりはしない。当然、誰も斬り殺さないのだが、秀孝を恐がらせ、客人から制止を受けたのは信長も分かる。

 ムスッとした表情は生来のものなのだ。信長は後にルイス・フロイスが『日本史』のなかで記述したような、ちょっと陰鬱アンニュイな表情を浮かべつつ、ジットリと秀孝を見てから、こころよく頷いた。


「お二方がそう仰られるのであれば――では、どうぞ」


 信長が信長なりにあっさり秀孝の不作法を許し、次郎(仮)の前に膳を置いた。秀孝の恐慌状態が解け、ホ~ッと座り込む。例え話だが、久しぶりに会った兄ちゃんがリーゼント決めて、ケンカを覚えて眼光が三割増しくらいに鋭くなってたら、実の弟でもびっくりするだろう。致し方なかった。


 次いで、信長の後ろから、小姓たちが人数分の膳を運んできた。


 人数分、というのは、今晩は信長の初陣の祝勝会も兼ねているから、小姓衆(お世話役)や馬廻うままわり衆(護衛役)のほか、奉行ぶぎょう衆(部局長)など信長の側近もチラホラ参加しているからである。いちおう主賓は次郎(仮)と可成であるが、人数となると、それなりの規模にはなるわけだ。


「あ、あの、じゃあ……ごちそう、食べて良い!?」


 と、許されたと見るや、急に元気になる現金な秀孝であった。辛抱たまらない! とばかりに自分の席につく。秀孝の座り方は正座であった。そのさまがいろいろとおかしく、珍しく、信長がフッと笑った。

久方ぶりの愛弟の姿は昔日と変わらない。多少、背丈が伸びたかな? と想える程度だ。


 信長が信長なりに嬉しげな表情をした。秀孝は視界の端で、信長の変化を捉え、すっかり恐慌状態は抜けたのか……なにを言うでもなかった。笑うのだ。にへら、と。すごく愛らしくだ。


 ここが宴会場でなければ、信長は秀孝の頭を撫でくり回してたところであった。うちの弟、可愛い。すごい可愛い。ああ、初陣の疲れが癒されていく……――信長は軽くトリップした。


 秀孝の動きに合わせて、場が整えられた。

 庭園に面して次郎(仮)と信長が並び、それぞれの横に可成と秀孝が座っている。ほか、信長の側近衆が奥まったところで膳を並べて、自分の席を埋めた。酒も出ている。信長と秀孝は呑めないので、かたちばかりだ。

 さて料理のほうは?


「ほう? これは……どういう?」

「サバの味噌煮だぁ~!」


 と、次郎(仮)が目を丸くし、秀孝が興奮するのは、メインディッシュのサバの味噌煮である。次郎(仮)と同じく、こういう料理を知らない可成が、うかがうように身を乗り出して、やんわりと信長に問うのだ。


「三郎殿、次郎さまとそれがしにご説明を頼めますかな?」

「むろん」


 と、信長のシェフならぬ、信長がシェフ、今晩その腕前を披露してくれる、ムッシュ信長が得意げに解説するには、


「これなるは旬の食材を取りそろえ、おつくりした料理の数々。まず、ご飯のほうは今年の麦飯にござる。平皿に尾張の赤味噌で煮立てた、サバの煮込み。これはニンニクで臭みを取り、濃厚な味付けでこしらえました」


 なお、麦飯ではなく白米を用意するとなると去年のお米になるので、旬づくしの料理となると、やはり麦飯だろう。サバは元々が信長の初陣の祝勝会用のものなので、今朝水揚げされたものである。


 また、当然のようにこの手の料理は秀孝発案のものであったが、重ね重ね、今宵のディナーをつくったのは――少なくとも、主賓のぶんは――信長、いやさ、戦国時代版料理の鉄人、アイアンシェフ・ムッシュ信長だ。


 次郎(仮)が頷き、信長の隣でさっそく箸を手にとっている秀孝に問うのだ。


「なるほど、サバの味噌煮、か。喜六殿は、これがお好きか?」

「好き~!」


 と、万歳をして喜ぶ秀孝は、さっそくサバの味噌煮をつつき、やわらかく切り取られたかけらを、パクリ! と頬張って、むきゅむきゅと味わう。なお、主賓より先に食べるのは無礼では? という見解には、先述の毒うんぬんの話を蒸し返せば、さにあらず、必ずしも先に食べるのは無礼にあたらない、と補足できた。


 さて、お味はどうか。

 次郎(仮)と可成が、そろって、首を伸びやかして見守ると、


「んん~!」


 と、秀孝が急に悶え、こくり……とその喉が動く。すると、秀孝は溜息とともにトロ顔になるのだ。


「「ああ……」」


 次郎(仮)と可成がそろって吐息をもらし、生唾を呑んだ。自分の膳のサバの味噌煮に視線が向かうのは止められない。だが、切なきかな、まだ食べるわけにはいかない。主催者の信長の解説がまだである。次郎(仮)と可成は、どこか急くように信長を見た。


 二人のまなざしを受けた信長は、やや背筋を反らして、まあまあ、という感じで片手を上げ、膳に扇子を向ける。その顔がちょっと自慢げにゆるんでいるのは、個人の腕を認められた、シェフとしての嬉しさだろう。


 信長は、木皿二つと、壺と呼ばれる容器、そして漬物用の小皿をさっと指してゆき、その都度、それぞれの解説を行うのだ。


「一の木皿はソラマメの豆腐。かかっているのは近頃、尾張でつくられている、すみ醤油でござる。二の木皿はアシタバ(セリ科の葉っぱ)にころもをつけてツバキ油で揚げ、その上から、あんをかけたもの」


「ソラマメ豆腐は食べやすいよ。んでね、アシタバの揚げものはね、天ぷらっていうんだよ」


 と、秀孝がニコニコと合いの手を入れる。その口には麦飯が詰まっている。そして、ごっくん、とした。それから、ソラマメ豆腐を食べては、ん~、なめらか~、と頬を手で押さえ、アシタバの天ぷらをサクッと食べては、んん~、ぜっぴんだよぉ~、などとトロ顔を深めている。


 信長の解説と秀孝のコメントに、いちいち次郎(仮)は頷いているものの、どこか気もそぞろ、そわそわと食膳のほうを見ている。なにげにイラついているのは、根っこが貴種だからか。我慢は我慢できても我慢させられるのは我慢できない! とか、そーいうノリであった。

 可成は可成で遠い目をして、腕を組み、庭園のほうを凝視していた。


 両者ともに口元のよだれは隠しようもない。


 信長が無慈悲な解説を続ける。


「壺はタケノコのおひたしに、すみ醤油に漬け込んだ葉ワサビを添えたもの。最後に、香の物はアク抜きした夏ワラビを塩で軽く揉んだ浅漬けにござる。なお、食後に甘味も用意しているので、それは後ほど――」


 信長が言葉を切ると同時に、次郎(仮)の呼吸がわずかに荒くなった。別に病気ではない。おあずけされた犬がよくこんな呼吸をしている。可成が遠いところから、信長のほうへゆっくりと視線を移し、呟いた。


「では――」


 可成のかすれたような呟きに応じ、信長が両手を差し出すようにして、膳を勧め、言うのだ。


「ご賞味あれ!」


 その時、風のような速さで箸を持った次郎(仮)の手を押さえたのは、なお神速の御業で箸を持った可成の右手であった。すると次の瞬間には、やおら次郎(仮)の膳からソラマメ豆腐を切り取って、可成は自らの口に運ぶのだ。

 次郎(仮)が当然の抗議の声を上げる。


「な、なんとする、三左! 謀反か!?」

「あいや待たれい、次郎さま。ここは毒見の出番。今宵はこの三左が毒見役をつかまつりまするぞ! お、おおっ、うまい! なんだこれは!?」


「おのれ三左、乱心したか!? よく考えてみよ! 三郎殿の心づくしの膳なのに、毒が入っていたらそれこそ信用の問題であろうが! 私も食べる! ああっ、天ぷら……とやらまで!?」

「おおっ、なんだ……なんだ!? うまいっ!」

「そんなに食べたら私のがないではないか! ええい、そなたのを寄越せ! 私も食べるぞぉ~ッ!」


 と、ここで信長からのお報せである。


「……――あえて申すまでもないが、今宵は杯盤狼籍の宴ぞ。次郎さまと三左衛門尉殿を見よ。まことに宴会の真髄をお示しである。みなも楽しめ。えい、えいッ!」


 応! と元気があり余ってる馬廻衆が先んじて応じ、次いで、お、応! と、こちらは若く、礼儀の仕込まれた小姓衆が続き、年配の奉行衆が微笑ましさを隠さず、応! と最後に返事をした。

 杯盤狼籍の宴が始まった。


「一番、岩室長門。殿の仰せに従い、じゃんじゃん呑みます!」

「お~し、この服部小平太はっとりこへいた! 長門殿に続くぜぇ~ッ!」

「納豆はないのかな、新助しんすけ殿?」

「む、村井むらい殿……私にはちょっと……」

「……言っておくが、おまえは呑むなよ、清十郎?」

「え~? 先輩ケチンボ~!」


 もちろん、まだまだ会話している人物はいる。が、大事な反応はただ一つなのだ。


「おいし~い!」


 秀孝の楽しげな感想が、この宴の本質であった。


 ◇


 もちろん宴会は終わる。


 杯盤狼藉の宴の後には『呑み食いの証拠』があらゆるかたちで残され、およそ常軌を逸した惨状となる。おもしろうてやがてかなしき、というとアレだが、宴会終盤まで呑んでるのは一部の酒豪くらい。家庭のあるものは途中で帰宅し、そうでないものは情け容赦なくダウンするか、させられるほかなかった。


 例外は主催者側と貴賓である。


「馳走になった」


 ご苦労さま、という調子で言う次郎(仮)である。あっさりと言える辺りが身分の良さなのだろう。

館城の門のところであった。


 泊まっていけばいいのに、寄宿しているお寺のひとが心配するから、と次郎(仮)主従は夜のうちに帰るらしい。幸い月明かりがある。戦国時代の夜は暗闇しかないが、天候の加護ある限り夜歩きも平気である。もちろん、道の先から歩いてくる誰かには要注意であるが。


「大したもてなしもできず、心苦しい限りです、次郎殿」

「いや、三郎殿。今宵のような宴は、この次郎、初めてでした。それに――」


 月明りのなか、次郎(仮)が夜空を仰いで、足元の影を濃くした。


「そなたらにはこれから助けてもらう。天与の機会があるとするのなら、帰郷の前に、織田弾正忠家の若者と親しくする機会を得たことだ」

「これから」

「私は、無能である」


 次郎(仮)が信長を見据え、はきと言った。そして、やや笑って、


「だが、無能なりに見えるものはあるぞ。おのが誇るべきものが、亡き父と残された母に対する孝心くらいしかなくても、見る目は別じゃ。おのが生き方を改めるのも、な。三郎殿。私と組んで、損はさせぬぞ」

「まことに?」

「大局に立てばな。短い目で見れば……苦労しかかけぬと思う。だが、人間のかかわりなど、たいていそうであろうが」


 言われて、信長は隣で、立ったまま、うつらうつらと船をこぎ始めている弟・秀孝を見た。


 父の信秀が半泣きで仕事している、と家老の平手政秀からは聴いていた。原因はいろいろあるが、大きなものは秀孝のせいだという。ならば秀孝に説教してやればよいのに、と信長は政秀に言ったが、政秀はこう返すだけだった。したい苦労もあると。そして、そのための努力も。

 信長は次郎(仮)に問うた。


「父はなんと?」

「どうとも。しかし、かん違いなさっては困るぞ、三郎殿。そもそも、私が尾張に逃れてきたのは、そなたの父が私の母を言いくるめたからだ。母のほうも、あえて言いくるめられたところはあった。いわば、利害の一致じゃな。昨日、今日の話ではない。私が北美濃から逃れた時、すでに逃げ場があった時点でお察しじゃ」


「ならば、ご母堂は賢者ですか」

「そうでもない。いくつかある道を、必死で選んだだけであろう。誰もがそうなのだ。敗けて、敗けて、敗けて……見えるものはできた。この世はな、途方もないと。であればこそ、であればこそじゃと」


 次郎(仮)は信長の両肩を叩いて、また月夜を見上げた。瞳が、表情が、きらきらとしていた。輝く人間はいるのだ、と信長は思った。父の信秀がそうであるし、弟の秀孝もそうだ。

 自分はどうだろう、と信長は思った。余人から見て、自分は輝いているのか。もし輝いていないのなら、どうすれば輝けるのか。


 次郎(仮)の輝く瞳が、信長を射抜いてきた。次郎(仮)が言う。


「今日が、明日をつくる。例え、今日、私が死んでも、それによって、明日は決まるに違いない。虚無と思うな。これはな、途方もない話なのだ」

「だから、へこたれないと? 日々の積み重ねが大事であるから――」

「そうだが、ちょっと違う」


 次郎(仮)は苦笑して、信長の肩をまた叩き、離れた。片方の手のひらで秀孝を示し、やさしげな表情と声で、弟に諭すようなことを言う。


「案外と、喜六殿は分かっているかもな。これはな、呆れるくらい簡単な話だから」

「ご教示願えますか、次郎殿?」

「いいとも」


 次郎(仮)が頷き、右手で天空を指し、左手で地面を指して、言った。


「ここには人間じぶんしかいない。いつも通りなど存在しない。だから、うまくいかないのなら、変わるしかない。世の中も、人間もだ。どうすればいい? 決まっている。努力なくして生きるに値する自分は獲得しえない。だって、そうしないと、自分が自分で納得できないから!」

「変わるしかない。常に――自分が自分であるために」

「そう」


 次郎(仮)は、降り注ぐ月明りのなかで、ニッコリと笑った。


「すべて人間じぶん次第なのだ。へこたれず、うまくいくまで、人間じぶんのやり方を変える。簡単だろ?」


 ◇


 秀孝がハッと目覚めた時、すでに朝日は昇っていた。いつの間に眠ったのか、館城のなかで布団に寝かせられていた。


 知らない部屋である。が、遠くで飽くなき酒盛の声が聴こえるところをみると、那古野城の一室ではあるのだろう。のんべえは朝がきても呑んでいるので、もし宴会未経験者がいたら留意しとくべきである。うわばみというやつだ。夜中には寝るだろう、と思ってたら寝ないのである。


「客人は帰ったぞ」


 一瞬、誰かと思った。縁側であぐらをかき、若者が朝日を浴びている。吸い寄せられるようなオーラがあった。いったいどこの芸能人だろう、と秀孝は思った。よく見たら信長であった。

 秀孝はちょっと惚けてから、また、いまさら不思議がった。


「次郎さんと三左さん? ……そういえば、次郎さんってどこのおうちのひとだったの、三郎のお兄ちゃん?」

「知らなかったのか、キサマ……」


 信長が呆れた顔を向け、ため息をついた。秀孝が首を傾げていると、ああ、もう、しょうがねえなぁ、という感じで信長は顔をしかめ、障子の角を背もたれにして、片膝を立てた。右手をヒラヒラさせて、めんどくさそうに、しかし、律儀に教えてくれた。


土岐次郎頼充ときじろうよりみつ殿だ。三左殿は分かるだろう。次郎殿の家来だ、家来。次郎殿は美濃国主・土岐頼芸ときよりあきの甥御。頼芸と国主の座を争っている御仁だな。が……」

「が?」

「面白き御仁であった」


 うつむきがちに信長が言う。その口元は微笑んでいた。やっぱり、信長の肌からオーラが溢れているような気がする。オーラは燐光のようであった。要は、全身が輝いて見えるのだ。


 秀孝は見惚れた。やっぱり、街角で見かけた芸能人みたいだと。ううん、三郎のお兄ちゃんは、それより、もっとずっと、強い――ぽ~っとした半トロ顔でいる秀孝に気づき、信長があごを上げて、怪訝に問うた。


「どうした、喜六?」

「ん~ん。あのね――あのね!?」


 秀孝はハッとして、次いで、バンバンと手で板敷を叩くように身を乗り出し、興奮したように言った。


「すごく輝いてるよ、いまっ。三郎のお兄ちゃん!」


 信長は口をあんぐりと開けた。そして自分のラフな肌着をペタペタと触り、なにかに気づいたように天井のほうを見た。その瞳は途方もなく遠くを見ていた。今日の積み重ねの果てのどこか。今日がつくるどこか。

 信長はふっと秀孝のほうに向き直り、男くさく笑った。そして言うのだ。


「で――あるか」


 天文十六年(1547年)、初夏。

 美濃と尾張の戦雲が、近かった。

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