新たなる道 1
有馬義治が空手の稽古を再開したのは、翌日からだった。
これまでの無機質な避難所生活は退屈なのだった。しかし空手という一つの生き甲斐を得た彼の瞳は、目に見えるほど燃えていた。明るく、熱く、燃えたぎっていた。
これまでは道場で正拳や前蹴りなど、基本の反復練習やミット打ち、組手稽古を行ってきた。しかし今は組手相手がいないため、まともな思考であれば必然的に形稽古がメインとなるだろう。
しかし、ここは被災地。言ってしまえば無法地帯だ。
警察の目が届かないところで犯罪が横行するのは当然のことである。そして何より、彼らには言葉などというものは通用しない。だからこそ、彼らの凶暴さを利用するのも悪くはない。
そう思った義治は、確実に強くなれる稽古法を編み出した。
「こんガキャぁ……ぶち殺されてえのか!?」
未だ震災直後から変わらない、瓦礫の山に囲まれた路上。
人の目を盗み、火事場泥棒を働いていた窃盗団の男たちが義治を取り囲んでいる。
「おいおい拳法少年かよ。笑わせてくれるぜ!」
「オメーらまとめて得物でかかれッ!」
凶器を持った男たちは、数メートルという距離をたやすく詰めて、最も義治から近く、そして背後にいたスキンヘッドの男は逆手に持った短刀を振り上げる。瞬間、義治はいったん蹲るようにしてから、右手で敵の手首を払い、振り向きざまに左拳で顎を突く。
敵が倒れる姿を見ながら、背後から感じる殺気に、反射的に右手を引く。
「お、ォあ…………ッ」
男のうめき声と、ビール瓶の割れる音が響き渡る。
「なんだこのガキ……ッ!?」
「怖気づくな! 相手は一人、しかも素手だろ!」
両手を開いて前羽の構えを作った義治に、革ジャンの男が率先して肉薄する。男の手にはナイフが握られていたが、男はあっけなくそれを落としてしまう。左手でナイフが握られたほうの腕を取った義治は、下三十度からの掌底を放つ。
顎を打たれた男は軽い脳震盪を起こしたのか、目の焦点が合っておらず、ふらつきながら倒れた。
瞬間、義治は右へ避難する。その瞬間、空を切った鉄パイプの風圧を感じ、それを合図に右脚を軸に、左の足刀を突き刺すように出した。
その足刀はまさに足の刀にして弓矢。鈍い激突音でありながら、鋭く脳を捉えて、射抜くように衝撃が男を襲った。
「つあ、ら──ゴッ!?」
倒れた男を跨ぐように跳躍した男の斬撃は空を切って、それと同時に義治は顔面を蹴り込んだ。
足は、手の三倍から五倍の筋力があると言われている。そして足は手よりもリーチが長く、相手を一撃で倒したい場合、より強力かつ長射程で、一撃で相手を沈められる可能性を秘める足技が理想。しかし、足は手のように器用には動かないから、空手家はそれを体現するために日々の稽古を怠らない。
義治の蹴りは、正拳突きのように鋭く、かつ正拳以上の威力を持っていた。
一閃、また一閃。前、横、後ろ、上段、中段、下段。選り取り見取りの蹴り技。加えて、正拳、裏拳、手刀、背手など、鍛練によって武器化された拳足が容赦なく男たちの急所を破壊した。
「くそっ、覚えてやがれっ!」
勝てない。そう判断した男たちは、つんのめりそうになりながらも必死で義治から離れようと走る。
そんな彼らを、義治はただ、無機質かつ光の無い目で見つめながら、思った。
(あの程度の相手を喰らった程度じゃ、なんの鍛練にもならん……この街にはもっと強い人間はいないのか?)
道場で習った実戦空手は、いわゆる試合用のスポーツ空手とは違うもの。実戦を見据えた修行の果てに得た空手技は、酒や煙草で体を壊し放題の暴漢が振るう攻撃を受け、そして突くには十分すぎる精度を誇っていた。
しかし、義治は満足できなかった。
組手稽古を重点的にやってきた彼にとって、技とは実戦で使えなければ意味がないもの。そして技は本気で使わなければ修得できないものであった。
そう、つまり暴漢相手では不十分。
(強いヤツ……もっと強いヤツと戦いたい)
だからこそ義治は、強くなるために強者を求めた。
◇ ◆ ◇
さらに翌日。
莉央のことも気になったが、義治は再び避難所を後にして、震災の被害から逃れた地域の裏道を歩いていた。
ここ石巻市は県内第二の人口を擁する市であるから、義治が通っていた空手道場以外にもいくつかの空手道場があったが、とても道場破りをできる雰囲気ではなかった。
戦ってみたくなるような強者は、ここ石巻にはいない。
そう彼が思い始めていた時のことだった。
「義治!」
背中のほうから女の声が聞こえた。
「……莉央?」
そういえば、彼女が今世話になっている小森家はこの近くだったと義治は納得する。しかし予想外だと思ったことが一つだけあった。
それは彼女の白い服。
手首までの長さの袖。裾に縫い付けられ、そして結ばれた紐。左の胸元に刻まれた誠心館の文字。くるぶしまでの長さに揃えられた下履き。きつく締められた黒帯。それは誰が見ても分かる、伝統派空手の道着であった。
「佳恵さんから噂を聞いたんだよね」
「噂って?」
「最近、空手を使う少年が窃盗団や暴漢を相手に暴れまわっているっていう噂をね」
心当たりがありすぎて、ぴく、義治はと動きを止めてしまう。
「やっぱり義治だったんだ……」
「いや、俺は……っ」
「正義の味方……ってわけでもなさそうだよね。ということは、やっぱり目的はコレだよね?」
そう言いながら、莉央はその場から左手をあばらの下まで引いて、握った右拳を突きだした。
力はあまり入っていないようだった。もちろん、脱力というのは空手の基本ではあるが、義治が知っている脱力法とはまた訳が違う、不思議な突きであった。
しかし華麗で、素早く、そして鋭い、魅了される突きであった。
(華麗で、鋭い突きだ……この子、思っていたより強いかもしれない)
技を見て、始めて義治はそう思った。
暴漢に不覚を取ったことと、その形振りから、あくまで空手ができる女の子程度にしか捉えていなかった義治だったが、彼は今の正拳突きで確信したのだった。成瀬莉央という自分と同い年の女の子は、不覚さえ取らなければ街の荒くれ者どもよりも遥かに強いことを。
「まさか莉央、そのために道着を着てきたって言うのか……?」
莉央の意図を理解した義治は、確認のために問いかける。
「きっと前の義治は憂さ晴らしになっていたんだろうけど……今は違うよね?」
「…………」
その質問に無言を貫くが、莉央は構わず話し続ける。
「稽古相手になりうる強い人を探している」
「──ッ!?」
やはり全て見透かされていたようだった。
「それで……莉央は俺の稽古相手になろうとしているのか?」
「そう。確かにこの前は不覚を取ったけど、それでも義治が今まで相手にしていた連中よりはマシなハズだよ」
そういうセリフを吐く者は大抵の場合、思い上がった素人の妄言だったりするのだが、莉央の場合は違った。彼女の場合、本当に実力が伴っている。義治は先程の正拳突きから察するに、津波に流された道場の通っていた者の中でも、茶帯クラスなら勝てない可能性があると感じた。
確かに彼女は女の子だが、強いことは強い。
実戦経験は恐らくないだろうが、空手家として組手をした場合、手応えはチンピラ以上であることは間違いない。
何よりうれしかった。
震災で孤独の身となった自分に、一緒に稽古をしてやると言ってくれる相手がいることが。
「……ありがとう」
「気にしなくていいんだよ。助けてもらったのはあたしのほうなんだし」
義治は数秒俯いて、少し考えてから莉央の顔を見た。
幸い、震災のあった日は学校から道場に直接行く予定だった。
だから空手着は彼が所持していたため、津波に巻き込まれず、現在は避難所に置いてある。
決心はもうついた。
「俺も着替えてくるから、家で待っててくれないか?」
空手一筋に生きると決めて二日目。
ようやく空手着に袖を通す日がやってきた。