瓦礫の山を突きぬける正拳 4
さんたを元の場所に戻した後、莉央に連れてこられた場所は、避難所ではなく、市街地北東部にある市営の団地だった。
白い塗装が少し色褪せかけている、ある程度発展した市部であればどこにでもありそうな造りのマンションが市営住宅らしい配置で建ち並んでいた。
義治が莉央に連れてこられた場所は、ここの二階である。莉央は表情一つ変えず、合鍵でドアを開け、躊躇なく部屋の中に入る。
「ただいまー」
義治は思った、ここは莉央の自宅なのだろうかと。
そう思っていた矢先、居間と思われる場所からエプロンを巻いた中年の女性が現れた。
「あら莉央ちゃんおかえり……んん、その子はお友達」
長い髪を後ろで束ねた中年の女性は、怪訝な顔を義治に向けてきたので、義治は変に警戒される状況は好ましくないとして、すぐに頭を下げた。
「どうも、はじめまして。有馬義治、成瀬莉央さんとは……」
「佳恵さん。この人はその……あたしの命の恩人です」
「命の恩人?」
佳恵と呼ばれた女性は、まだ警戒を解いていない様子で義治のことを睨んだが、義治は目を逸らすことなく、真っ直ぐ佳恵の目を見据える。
それよりも、義治が気になったことは、莉央の他人行儀な態度。
この佳恵という女性は彼女の母親ではないのだろうか。そう、義治は疑問に思っていた。
しかし答えはいずれ明らかになる。それよりもまず、佳恵に安心してもらうことが先決だった。
「詳しい事情はこの場で話します。実は──っ」
「あっ、いいよ義治。それもあたしが話しておくから」
喋ろうとした瞬間、莉央にセリフを遮られる。
「だけど……っ」
「いいから。この場じゃ義治が喋るより、あたしが喋ったほうが信憑性あると思うから」
確かに、莉央の言うことに一理はあった。
もし義治が事情を説明したとして、それは莉央に近づくための口実としか受け取ってもらえない可能性がある。そう解釈されてしまっては、おそらく場の空気は最悪なものになってしまうだろう。
相手は母親かどうかは不明だが、年頃の娘が身近にいる以上、神経質になるのは当然のことであろう。
義治は腑に落ちない様子だったが、ひとまずここは莉央を立てることにした。
…………。
莉央の説明か終わり、義治は話をまとめることにした。
「っで、要するにここは莉央の叔母の家で、今日から世話になることになったと。母は夜勤、その間に亡くなったお隣さんの飼い犬に餌をあげていたら事件が起きて……」
「そうそう。っで、あたし大ピンチだったんだけど、義治が空手で暴漢を一蹴り。あたしは無事生き永らえたってわけ…………いてっ!!」
莉央が正拳の身振りをしながら説明し終えた瞬間、佳恵の拳骨が莉央の脳天に直撃した。
「いたっっ!?」
「このおバカ!! だから夜は出歩くなって言ったのに、今日から夜間外出禁止よ!!」
「えーっ!? さ、さんたは……?」
「そんなこと言われても、ここはペット禁止よ」
「う~ん……」
莉央を叱る佳恵の表情も、どこか複雑そうだった。内心ではさんたのことをなんとかしてやりたいと思っているのかもしれないが、真意はわからない。しかし、義治は困っている人間を見逃せるほど、非情にはなりきれない人種だった。
「あの、それなら俺がさんたの面倒……見ますけど」
そういえと、佳恵が申し訳なさそうな表情で義治のほうを向いた。
「そんな……あなたはこの子を助けてくれた恩人でしょ? これ以上のことは流石に申し訳ないわ……」
「いえ、構いません。どうせ俺は暇人です。犬の面倒くらい何の問題もないですし、むしろ気が晴れるかもしれないです」
実際、久しぶりに人とまともな会話をして、義治は気分が少し晴れたような気がしていた。
学校の友達は震災直後、早々に余所へ避難してしまった。家族は全員亡くなり、近所の人は時々構ってくれるが、それでもみんな自分のことでいっぱいいっぱいで、義治のために時間を作ろうとする者は誰一人としていなかった。
だからこそ、今日莉央を助けたことは無駄ではなかったのかもしれない。
義治は心の奥底で、ぼんやりとそう思っていた。
「でも……っ」
「ホント、気にしないでください。俺、犬大好きですら」
「そう? じゃあ、申し訳ないけど、莉央の代わりに頼んでもいいかしら?」
その言葉を聞いて、佳恵は心底申し訳なさそうに義治に頼んだ。
「あ、それからママが帰る前にちょっと話しておきたいことがあるんだけど……」
「珍しいわね、アンタが申し訳なさそうに話をしようだなんて」
いつも元気な莉央からは想像もつかない態度に、佳恵は首をかしげている。
義治の目から見ても、莉央の表情はとても深刻そうである。
そういえば、莉央は試したいことがあると言って小森家まで手を引っ張ってきことを義治は思い出す。あまり深く考えるタイプには思えないが、何か互いに利益のある考えでも浮かんだのだろうか。
いずれにせよ、義治にはこれ以上、小森家に居座る気はなかった。
莉央の母親だって帰ってくる。自分がここに長居することは、莉央たちにとって迷惑でしかないと義治は思っていた。
そう思っていた、矢先。
「……あの、この人を。有馬義治を、せめて高校を卒業するまでうちで居候させてください」
いきなり土下座をし始めた莉央の言葉に、義治も佳恵も度胆を抜かれる。
そのセリフは佳恵はもちろん、義治にとっても予想外のセリフであった。
「おい莉央っ。そんな、俺は別に一人でも大丈夫だよ。それに迷惑だろ?」
「義治は黙ってて」
蛇よりも、組手相手よりも、暴漢よりも、何よりも鋭い目つきで莉央は義治を睨む。
相手から目を逸らすことは戦いにおいては敗北を意味する。それを知らない義治ではないからこそ、厳しい視線から目を背けるということはなかった。
しかし、義治は何も言うことができなかった。
「佳恵さん。義治は、今回の地震で家族全員、家、何もかも失ったんです」
莉央を決して疑いたくはなかったが、気味が悪かった。
今日、初めて会ったばかりの。しかも、自分が襲われているという最悪の状況下で出会った男を、どうして自分の住処に置こうとしているのか。
それがどうしても、義治には理解ができなかった。
しかし莉央は顔色一つ変えることなく、ただ真っ直ぐ、佳恵の目を見据えて話し続ける。
「義治はあたしと同い年です。このままじゃ、満足に高校も通えないし、すごく……辛いと思うの。それにあたし、この人にすごい感謝してるんです。だからお願いです、あたしの我がまま、聞いてください!」
そう言い切ってから再び、莉央は佳恵に土下座をする。
「ちょっと待ってくれ! 俺は別に辛くは……それに」
義治は横目で佳恵のことを見る。
佳恵は腕を組んで目を瞑り、何やら考えにふけている様子だ。
当然だ。不審者だと思っていた男を突然、家に住まわせてやってくれと頼まれたんだ。普通は気持ち悪いし、嫌に決まっている。まともな人間なら断るはずである。
義治は気まずさを感じ、申し訳なさそうに目を瞑る。
「……あの俺、もう帰ります」
「ちょっと義治!」
莉央は声を荒げたが、義治は構わず背を向ける。
「心遣いは感謝しているよ。でもやっぱり迷惑はかけたくない……失礼しま──ッ」
「──少し考えさせてください」
言いかけた瞬間、義治の思考が停止した。
本能的に振り向いて、佳恵と莉央を交互に見つめる。
「佳恵さん! いいの!?」
「いいも何も、この大変な時代よ。少しは考えなければならないわ」
ガッツポーズに近いポーズをとりながら喜ぶ莉央に、佳恵は真剣な表情で答える。
「いや、あの、俺は大丈夫です。あの、俺に気なんか遣わなくても……っ」
「なら、有馬君は一人で生きていく自信があるの?」
「それは……っ」
佳恵の言葉に、言葉が詰まった。
真っ直ぐ義治を見据える視線に、義治はまたしても言葉が喉を通らない。
「私は莉央から聞いたこと以外、あなたのことは知りません。あなた、空手が強いんですって? でもね、空手でいくら強かろうが、子供にできる事なんて限られているわ。それにこのご時世、中卒なんかで雇ってくれる企業があるの?」
正論だった。
そう言われてみれば、今までの自分に深い考えがあったとは思えない。
体力には自信がある。ひょっとすれば、土木作業員にはなれるかもしれない。しかし、それだって本当になれるかは分からない。東京に出るという選択肢もあるが、中卒なんかを雇ってくれる企業が、果たして東京にあるのだろうか。そして、東京まで行く金があるとも思えない。
なら、空手家として生きる?
それも現実的ではない。そもそも、自分の空手が世に通用するとも思えない。
「そうだよ義治。それに光園館高校に行くんだよね?」
莉央から質問されて、義治はとっさに莉央に目を向ける。
「えっ? あぁ、そういう予定だったな……」
「光園館は空手部が強いって話だよ? そうすれば、高い月謝を払わなくても空手ができるよ?」
「空手を……っ」
空手……そう、空手。
この時、義治の目に、本格的な火が灯った。
空手。五歳の頃、再放送していた昭和のアニメに影響されて、その場の勢いでやりたいと両親にせがんで始めた空手。
そういう勢いだったからこそ、最初は厳しいと思ったし、やめたいとも思った。しかし、いつしか義治は、アニメの主人公のように超人追求の道を目指したいと思うようになっていた。宮本武蔵のように生きたかった。国井善弥のように、無敗と言われてみたかった。
それが全て、あの悪夢のような震災によって、奪われたかに思えた。
何もかも失った。
家も、家族も、何もかも。
生き残った友達も、県外に移ってしまった。
自分には何もない、何も残されていない。そうやって義治は、今まで絶望していた。
しかし、莉央のおかげで気づけた。
義治は久々に、生き甲斐を見つけることができたのだ。
「……俺には、これがっ」
義治は、目を見開きながら右手で正拳を握る。
家も家族も金もなく、おまけに頭も悪い。
そんな良い所なしの自分にも、一つだけ特技があった。
それが、五歳の頃から続けていた空手だった。
「……今の義治は、良い目をしているね」
「莉央……っ」
莉央が微笑みながら、そう言ってくれた。
「そうねぇ……有馬君、空手をやりたいかしら?」
「小森さん……っ」
初めて佳恵が、義治に笑顔ともとれる表情を向けてくれた。
「俺は……ッ」
そう、自分のことを言いながら、今度は左手で正拳を握る。
右と左の正拳。この正拳には、まだまだ可能性がある。
正拳だけじゃない。手刀、貫手、裏拳、背手、掌底、腕刀、鶴嘴拳、鳥嘴拳、上足底、足刀、足尖、踵、受け、捌き、立ち方。全ての技に、まだまだ可能性がある。むしろ、未だまともには使用できていなというほうが正しいだろう。義治は空手家として、まだ半人前にも及ばないのだ。
義治は拳を下ろし、瞑想しながら全身に力を入れて、平行立ちの構えになる。
「俺は……空手で。空手一筋で生きていきたい!」
開眼し、はっきりと、力強く宣言だった。
それを聞いた莉央は安堵のため息を吐き、佳恵は曖昧なものではない、明確な笑顔を義治に向けている。
「莉央、今晩は家族会議ね」
「……うん!」
その二人の様子を見ていたからか、自然と義治の顔も緩んでいった。