瓦礫の山を突きぬける正拳 3
石巻市は津波で多くの被害を出したが、幸い、駅前などの中心市街地は波に呑まれることはなかったため、ほぼそのままの姿を維持していた。
義治と莉央は、暴漢達に蹴り飛ばされたさんたを、石巻駅からほど近い大きな動物病院へと運んだ。
震災の影響か、いつもよりも人通りが少ない。そのうえ夜間であるため病院が閉まっている可能性もあったが、幸いこの病院では夜間の救急診察が行われていた。二人はあまりお金をもっておらず、そのうえ通常であれば事前予約を行う必要がある。しかし、医師は大変な状況であることを理由に、そのあたりは気にしないでほしいと二人を通した。
「う~ん……っ」
唸り声をあげる、両脇に白髪が残った肥満気味の医師が、さんたの全身をくまなく触診する。
「あの、さんたは……っ」
「大丈夫だよ。少し内出血はあるが、骨や内臓にダメージはない。おそらく気を失っていただけだね。しばらく安静にしていれば、また元気に走り回るだろう」
莉央が不安そうに声をかけると、医師は自信に満ちた表情を浮かべて言い放った。
「そうですか!」
「さんた、よかったね」
嬉しそうに、莉央がさんたの頭を撫でている。
その表情は、とても眩しい。全てを失った義治には、あまりにも眩しすぎた。
けれども怒りや嫉妬は湧いてこない。不思議と心が温かくなった。
やがて診察も終わり、莉央はさんたを抱きかかえて、義治はその横に並んで病院を後にする。いつもより交通量の少ない国道を歩きながら、莉央は義治の横顔を見つめていた。
「……あの、俺の顔に何かついてますか?」
「あ、いえ!! なんでもないです……ただ」
照れながら義治は莉央に聞くと、莉央はやや焦った様子で言葉を紡ぐ。
「ありがとうございますって言いたくて……っ」
その言葉に、義治は目を見開いた。
お礼なんて言われるのは、果たしていつぶりだろう。
そういえば避難所で親子を助けた時も、母親は自分から目をそらしていた。
きっと、空手は教育上よろしくないとでも思っているのだろう。
「いや、そんな。全然大したことはしてないですよ」
「そんなことないですって! あたし、空手やってるんですけど、全然手も足もでなくて……」
空手、その単語に義治は反応した。
「空手をやっているからって、強くなったとは限らないんだよ」
「えっ?」
突然、語り始めた義治を、少女はきょとんとした様子を見つめる。
「試合で勝つのと、路上でのケンカは別物だ。むしろ、試合しかしたことのない初段よりも、場数を踏んだチンピラのほうが強いと言っても過言じゃない」
「そうなんですか?」
「そんなことはないかもしれないけどね。でも、どれだけ腕に自信があろうとも、油断は禁物。実戦では、自信がなさすぎるのも問題だが、過度な自信による油断もまた大敵。常に気を引き締めなきゃならないのが、実戦なんだ」
自分とてまだ完璧ではない。むしろ、空手をケンカの道具としてしか利用していない現状なのに、そんな偉そうなことを言ってもいいのだろうか。だけど、油断してあっけなく倒される者は見るに堪えない。やはり、アドバイスは必要か。
義治は自問自答をし続けた。
すると、莉央が目を輝かせながら義治の顔を覗き込んできた。
「あの、もしかして空手やってるんですか?」
「えっ? あぁ、うん。五歳の頃からずっと」
このご時世、空手の経験があることは決して珍しいことではない。昭和期の漫画を発祥とする空手ブームから、流派を問わず空手道に邁進する者が増加したからである。
現在では世界四千万人とも六千万人とも言われる多くの競技人口がある。その中にはもちろん、朔也のように幼い頃から空手に触れていた者も含まれている。
「五歳、かぁ。負けたなぁ……あたしは小三の頃からです」
「それでも長く続けているじゃないですか」
「あの、全然ため口聞いてもいいですよ? なんか先輩っぽいですし……」
莉央が小声で義治に要求する。えっ、と義治は声を漏らして。
「そうかな、俺は十五ですけど……キミは?」
「うそっ!? タメじゃないですかっ」
莉央が驚いたのと同じで、義治も驚きを隠せず、ぽかんと口を開けてしまった。
まさか、こんなところで同い年の人間に出会うとは思っていなかったからだ。
「……っははははは!!」
「あははっ。もう普通に口聞いてもいいよね?」
「そうだな、それなら俺も名前を名乗っておかないと……有馬義治だ」
「成瀬莉央。んー、莉央でいいよ」
いきなりそう言われると、義治は恥ずかしさを隠せず赤面する。
いくら空手で強かろうと、あまり異性との関わりがない思春期の少年であることには変わりないからだ。
「……照れてるの?」
「べ、別にっ!!」
「強いのに意外とかわいい所あるんだね」
「うっせ、ほっといてくれ……っ」
義治は赤面して人差し指で右頬をかきながら、莉央から目を逸らした。
「ねぇ、義治はどこの高校に行くの?」
いきなり義治と言われたことに戸惑いを隠せない義治だったが、きっと彼女は人懐っこい性格なんだろうと解釈し、納得する。
それよりも質問に早く答えるべきだろうと義治は思ったが、適切な答えが全く浮かばない。
中々答えられない義治の顔を、莉央は覗き込んでくる。
早く答えないと失礼だろう。そう思った義治は、あまり開きたくなかった口を開く。
「……県立の光園館高校に行く予定だったんだけど」
「えっ、同じじゃん。今年からよろしくね」
同じ高校だと思った莉央は嬉しそうに義治にそう言ったが、義治の表情は暗いまま。
「両親が死んだし、金がない。高校に行けるか分からないな」
「えっ……」
莉央から笑顔が消える。
義治にとっても心苦しい事態だ。他人に余計な心配をかけたくないし、なにより、今まで混乱していて深くは考えていなかったが、今になって考えてみると、高校に通えないかもしれないという事実は、今後の人生にも関わっていく緊急事態であった。
改めて口にして、義治は目の前が真っ暗になったような気がした。
「で、でもなんとかなるよ!! ほら、国がなんとかしてくれるかもしれないし……っ」
やや焦った様子で元気づけようとしてくるあたり、莉央は本当に良い子なんだと義治は思った。
しかし、いくら慰められたところで現実を簡単に変えることはできない。
「まぁ確かに、切り詰めれば通うだけの貯金はあるかもしれない。まだ期間はあるし、考えてはみるつもりだよ」
最も、多少無理をして高校へ通ったところで、やりたいことがあるのか。
自分一人が生き残っている意味があるのか。生き残ったことは確かに幸運なのかもしれないが、それでも義治は納得ができず、そしてひたすら虚しかった。
所詮、生き残っても自分にできることは、空手で少し暴れることだけなのだから。
「……そうだ。ねえ義治、このあと暇だよね?」
突然の質問に、義治は奇妙な表情を浮かべた。驚くことも泣くことも、怒ることも笑うこともない、人間のような表情を。
「ちょっとついてきて、試したいことがあるから」
「……えっ?」
その時点で、ようやく義治は困惑した様子を見せた。
試したいこと。その真意が理解できないまま、義治は莉央に手を握られ、引っ張られた。。
ただひたすら、さんたを片腕で抱えた莉央に引っ張られた。