瓦礫の山を突きぬける正拳 1
春色の候、北は北海道から南は関東南部まで、広範囲を襲った巨大地震による津波は、多くの命と財産を奪ってしまった。
特に震源から近く、複雑な地形や平たくて低い地形が多い岩手、宮城、福島の三県は非常に大きな被害を受け、福島では原子力発電所が日本史上最悪の原発事故を引き起こす結果となる。このため、生き残った多くの者が避難所生活を余儀なくされ、先の見えない悪夢に絶望する者も多かった。
ここ、石巻市は本震災で最多となる四千人近くの人が亡くなった場所で、小学校の児童教職員らが数名を残し、全て死亡したと伝えられたのもこの街である。
多くの人々が悲しみと絶望に打ちひしがれる今、この少年とて例外ではなかった。
「この野郎ォ割り込みやがって、ぶち殺されてえのか!?」
「なんだと!? こっちはイラついてんだ、あんましふざけてっと豚マンにするぞこの野郎!!」
「やるかコラッッ!!」
極限状態の人間とは、ヒドラジンのように不安定で過激な存在となる。黒髪短髪の、身長一七〇センチ代半ばくらいの、黒の学ランに赤と白のローカット・スニーカーを履いた少年は、虚ろな目で男たちの争いを眺めていた。
歳の割には冷めているように見えるが、それはこの地獄が生み出した結果なのか、それとも元々そういう性格なのか。
とにかく、少年は冷めていた。そして、目には光がなかった。
本気になれば鋭い眼光を放つであろう目には、気迫も活気も感じられない。
「っへっんへ……うえええっ、えええええんっ!!」
少年の視線は、突如として泣き始めた赤子と、それをあやす母親のほうへ向けられた。
赤ん坊の泣き声は、こういう状況下では起爆剤でしかない。電車の中でさえ、子供の泣き声は五月蠅いものでしかないと思う人がいるのだ。人々のストレスが極限まで溜まった避難所では、赤子の泣き声一つでも、争いの原因となりえるのだ。
そして、少年が危惧していたことは現実のものとなる。
「うるせえぞガキ!!」
一触誘発だった二人のうち、禿げ上がった髭面の男が親子に対して怒声を浴びせる。
「すいません、すいません。ほら……陽翔、泣いちゃダメでしょ」
母親は必死に陽翔という赤子をあやすが、陽翔は泣き止む気配を見せなかった。
「おいババア、出てけ!!」
「そうだそうだ!! ガキの泣き声は迷惑なんだよ!!」
遂には髭男と揉めていて白髪の男まで、親子を非難する有様であった。
ただでさえ精神的に参っている避難者たちは、その状況をただ傍観することしかできない。大事になれば、間違いなく職員が来る。きっと、周囲はそれを期待しているのだろう。
「いいから出てけ!! クソガキごと殴り殺してやろうか!? エエッッ!?」
髭男が大声で叫んだ瞬間だった。
「うるさいのはお前らだ」
静かな声が、男たちの感情を刺激する。
「なんだガキ!?」
「オメーはすっこんでろ!! 関係ないだろうが!!」
男たちは怒声を少年に向けたが、少年は臆することなく、ただひたすら男たちを見据える。
その目には、先ほどまではなかった炎が灯っていた。
「それなら、そこの親子だって関係ない。テメェら、ケンカするなら外でやれよ」
小指から、人差し指と中指と抑え込むようにして親指を握る。
少年はそうして、じっと一直線に男たちを捉えて、冷たくそう言い放つ。
「このガキ……オトナをバカにするんじゃねえッ!!」
少年の言動に腹を立てた髭男が、懐から鉄パイプを取り出した。
どこから持ってきたのだろう。少年がそう疑問に思う前に、髭男は鉄パイプを頭上に振りかざし、それを走りながら、勢いよく、少年の脳天をめがけて振り下ろしてきた。
「くっ……!!」
少年が顔を歪めると、髭男は鉄パイプを構え直し、不敵な笑みを浮かべながら少年を見据えた。
少年もまた、右手をあばらの下まで引き、左手を斜め上段に構えた姿勢のまま髭男を睨む。
「このガキ……生意気だァッ!!」
激昂した男が、再び勢いよく鉄パイプを振りかざしてきた。
実戦において最も重要なこと。それは躊躇なく相手を痛めつけること。少なくとも髭男は武器の扱いこそ素人気味だが、その点においてはケンカ慣れしていると言える。
普通なら、この時点で勝負は決している。鬼のような形相で武器を振りかざす男に臆しない者は中々いない。実戦では、相手よりも己が感じる恐怖心のほうが強敵なのだ。
しかし。
「あッ──!?」
男が鉄パイプを落とした瞬間、顔を歪めながら手の甲を押さえ、うめき声をあげた。
「──シュッ!!」
そして次の瞬間、髭男は仰向けになって倒れていた。
「ぁ……ああ…………っ」
最後に少しうめき声をあげて、髭男は完全に気絶する。
それを見た白髪の男は、咄嗟にこう呟いた。
「か、空手…………っ」
空手。それが、ただの中学生でしかない少年が、武器を持った相手に勝てた秘訣である。
振り下ろされた鉄パイプを寸前で避けると同時に、少年は髭男の手の甲を手刀で叩いて鉄パイプを落とした。不意に手の甲を叩かれると、ナイフを手放してしまうという人間の反射を利用した打撃技で武器を落とし、相手が痛がり、隙だらけのところを上足底で顎を蹴り上げた。
受けと上段の前蹴り、それらの空手技を瞬間的にこなせたからこそ、少年は勝てたのである。
「……どうする? アンタも組手、してくかい?」
「ケッ、俺はゴメンだぜ。暴れんなら道場だけにしとけよ、小僧っ!!」
そう言い残して、白髪男はどこかへ走り去ってしまった。
「すげえ、空手だ……っ」
「初めて空手家のケンカを見たぜ」
「しかもあの子、中学生よね?」
周囲が少年の強さに驚嘆する中、少年は右手で握った正拳を見つめている。
「空手、か……ふん、バカバカしい」
空手をやっていたら家族を助けられたのか。津波を防ぐことができたのか。ヒーローになれたのか。空手が使えるから強いのか。空手をやっていれば強さになるのか。
複雑な気持ちが晴れぬまま、少年もその場から立ち去ろうと、歩き始めた。