エピソード98 伝言による約束
久しぶりに黒い制服以外の私服に袖を通して漸く大学生のホタルへと戻れたことにほっと安堵する。
堅苦しい軍服は着ているだけで息苦しく、どこに所属しているかと一見しただけで解るため少しの気も抜けない。
どうしてみんなは平気なのか。
ホタル以外の人間は誰もが平然と制服を着ており、窮屈だと感じるのは自分だけのようで釈然としない。
やはり気持ちの問題なのだろうか。
好きで着ているものではないから純粋な拒否反応のひとつなのだろうと納得できそうな理由をつけて片付ける。
壁から出てゲートを超え統制地区へと足を踏み入れると更に解放感が増してきた。
頻繁に通る軍の車の数が以前より多く、街中が排気ガス臭いのは気になるが今だけは重い責務から解き放たれた気分を満喫したい。
地下鉄へと向かうホタルを誰も見咎める者はおらず、階段を下り改札を抜けるといつもならそこに多くの住民が電車を待っているのだがホームは閑散としていて寂しかった。
広いホームに立ちその淀んだ空気を吸うと以前は身体を害する物だと身構えていたくせに、今では懐かしさを覚えて深く吸い込もうとする自分がいて少し笑える。
ただ地下鉄に今までの活気がないことが残念で、見知ったはずの風景が変わってしまったことを残念に思う。
地下鉄だけでは無い。
統制地区の街全体が変わってしまった。
無知な善良であれと望まれていた民は、無知なりに生き抜くための知恵を振り絞り盗みを働く盗人と化した。暴力と略奪に因る治安の悪化は目に余り、喧嘩や奪い合いの末に血が流れることも多かった。
人々の目がぎらついて、虎視眈々と獲物を狙い自分のことしか考えられないようになったのはここ最近のこと。
反乱軍の頭首タスクの死が大々的に報じられてからだった。
統制地区の善良な民たちは反乱に参加していなくとも、反乱軍クラルスの活躍に期待していた。
なにかが変わるのではないかという思いを抱いた後の彼らの失望と落胆は大きく、国に対する不満や空腹による苛立ちを隠すことをしなくなった。
善良であれば国が護ってくれるわけではないと気づいた民は、その仮面を外して生きるために多少の無理や悪事を率先して行うようになったのだ。
治安は一気に悪くなり、それを押え込めるだけの統率力を欠いている軍は民の行動を制限することができない。
カルディアではアオイが率いる反乱軍の対応に追われて、統制地区にまで気にしていられないのが現状だ。
だからこそ今が好機なんだ。
カルディアの目が統制地区を見ていない今のうちに全てを終わらせなくてはならない。
そのためにホタルは私服を着てこっそりと統制地区へと出てきたのだ。
轟音と風を巻き起こしながらホームに電車が入ってくる。
窓の向こうに見える車内には人影が無く、確認できたのは真ん中の車両にひとり乗っていたくらい。
丁度目の前で停まった車両の扉が開き、乗り込んだ入り口傍の座席へと腰を下ろす。
利用客の少ない地下鉄が停車している時間は短い。
直ぐに扉が閉まりゆっくりと発車する。
暗いトンネル内を走る窓の向こうは闇しかないが、窓に映る己の姿と黄色い灯りは辛うじて光の側に留まっていた。
闇に堕ちる前に救わねばならない。
ぐっと指を握り込んで眉間に力を籠めると、正面に座るホタルの分身がほんの少しだけ勇気を得たように見えた。
今ハモンは陸軍基地に身を置き、反乱軍クラルスを一網打尽すべく策を練っている。いつも傍で目を光らせていたお目付け役がいないことも好都合だった。
そうでなければこうして単独で統制地区を歩くことなど出来なかっただろう。
勝利の女神はこちらに味方している――。
そう思えば少しは強気に出られる気がする。
電車の振動は乗っていると心地よく、ホームに進入してくる時の耳を塞ぎたくなるほどの音や風は全く気にならない。
日々緊張を強いられているせいか、その眠りを誘う揺れに身を任せていつの間にか目を閉じてしまっていた。普通なら電車で居眠りなど考えらないことだが、乗客が他にいないことが気を緩めていたのだろう。
ガタンッ――!
強い衝撃に驚いて目を開けると最終駅に到着していて更にびっくりした。ちょっとのつもりがどうやら三十分ほど眠り込んでしまっていたらしい。
慌てて盗まれた物が無いかと確認したが、幸い財布も身分証明書も無事だった。
ホームに降りるとそこは無人で、改札にも駅員すらいない。
それほどここで下車する人間がいないのだと証明しているようでホタルの表情は暗くなる。
料金を支払いようがないので無賃乗車で改札を抜けて階段を上って出た地上は悪臭が漂い、街を包む陰惨さを際立たせていた。湿気と熱気が更に異臭を立ち昇らせ、そこら中に飢えて死んだ人間の躯が転がっている。
前は治安維持隊や陸軍がそれらを回収し汚染地区へと破棄しに行っていたが、それすら手が回らないのか、反抗的な第八区の人間のために動くことを止めたのか。
どちらにせよ街は腐臭にまみれ、それにたかる蠅の羽音は喧しいほどだ。
このまま不衛生なままにしておけば病気が蔓延する――。
飢え死にするほど逼迫している暮らしを余儀なくされている第八区の人々は、病気が流行れば免疫力が著しく低下しているため簡単に病に倒れるだろう。
そしてそのまま死を迎え、第八区は壊滅的なダメージを受ける。
それが狙いなのか?
だとしたらなんと卑劣で卑怯なのだ。
赦せない策に怒りながらも道を急ぐ。
とてもじゃないが長居できるような場所では無い。口で息をしながらドロドロに溶けている死体から目を反らしてようやく辿り着いた孤児院の周りにも目が痛くなるような腐敗臭が漂ってはいたが、目につくような場所に死体は無かったので風に乗って匂いが運ばれているだけのようだ。
「ミヤマさん」
それでも速く中へと入りたくて扉を激しく叩いた。解放された工場から逃げ出した人間の中にミヤマがいることは知っており、そして彼女がここへと戻ってきていることも解っていた。
ミヤマはタキたち兄妹と過ごしたこの家を大切に思っている。
だからこそここへと帰ってきているはずだ。
「ミヤマさん、僕です。タキの友達のホタルです」
だが何度叩いても中から開けてくれる気配は無く、臭いから逃れたい一心でドアの把手を握り締めて捻ると蝶番を軋ませながら道を開いた。
「ミヤマさん?入りますよ?」
声をかけながらホタルは玄関を入り、扉を閉めて一応鍵を下ろす。この訪問を誰かに邪魔される訳にはいかない。
廊下を行きながらその途中にある台所を覗いたがそこにミヤマの姿は無かった。廊下の奥にある居間に向かうと前に休ませてもらった長椅子と暖炉があったが、やはりそこにも人の気配は無い。
いないのだろうかと諦めかけた時、暖炉脇の扉の向こうから咳き込んでいる声が聞こえてホタルはそっと近づいてノックした。
「ミヤマさん。勝手にお邪魔してすみません。タキの友人のホタルです」
「――――入ってきな」
咳で語尾を震わせながら入室を許可する言葉に、老女とはいえ女性の寝室へと入ることに恐縮しながらそっと扉を引き開けた。
細長く狭い部屋にベッドがひとつ。壁に打ち付けられた棚に数冊の本が並ぶだけの質素な寝室には庭に面した小さな窓が開けられていた。
ベッドに横たわる老女は前に会った時よりもさらに小さく見え、咳き込む度に折れそうな腕と背中は悲壮さに満ちている。
普通の咳では無い――。
肺を病んでいる人間のこもったような咳は、一度始まるとなかなか治まらないのが特徴だ。
枕に顔を埋めて必死で咳を止めようとしているミヤマの背中をそっと撫でながら治まるまでじっと待つ。老女はずっとこうして病に苦しめられてきたのだろう。
布団や枕についている血の跡が、その激しい咳との戦いを示していた。
「……落ち着きましたか?」
気管が悲鳴を上げるような音をさせてミヤマはのろのろと顔を上げる。水を、と望まれたので一旦ベッドから離れて部屋を出て台所へと向かった。そこにある甕の中には甘い香りのする美しい澄んだ水が溜められていた。
棚からコップを取り甕から水を汲んで寝室へと戻ると嬉しそうにその水をミヤマは喉を反らして飲み干した。
「――――はぁ、やっぱりここの水が一番うまい」
生き返るようだよ、と微笑んで小さな頭部を枕の中へと埋めた。皺だらけの顔には住み慣れた我が家に戻ってきたことへの安堵感に溢れている。
だが病は随分進行しており、彼女がそう長くは生きられないことはホタルだけでなくミヤマ自身も気づいているだろう。
「医者にはかかっていないんですか?」
ダウンタウンに住む人間が医者にかかれるわけがないことなど先刻承知だ。だがそれでも聞かずにはおられず、もし許されるならば医者を呼びたいくらいだった。
「必要ないよ……。もう随分生きたからね」
「そんな、タキたちのためにももっと長く生きて下さらないと」
「あの子たちはあたしの力などもう必要としていないから、大丈夫さ」
ミヤマは晴れやかな表情で自分の手を離れて成長した兄妹を思って笑う。きっと胸には沢山の彼らとの思い出が浮かんでいるに違いない。
幸せそうな顔にホタルは羨ましくなる。
自分には父との間にそんな風に思い出して幸福感を得られるような物がなにひとつないから。
「今はミヤマさんの方がタキたちの力を必要としているでしょう?タキたちに親孝行をさせてやる時間をあげてください」
お願いですからと懇願すると「あの子らの手を煩わせるなんてまっぴら御免だ」とミヤマは顔を顰めて垂れた目蓋の下から睨み上げてくる。
そんな顔をしている方がミヤマらしくてホタルは笑う。
「なにがおかしいんだい。嫌な奴だね」
「……すみません」
謝罪するとミヤマはふんっと鼻を鳴らして細い枝のような指を上着の袷に入れ、そこから折り畳んだ紙を取り出した。
「なんですか?」
丁寧に開かれた紙を覗き込むと「スイが描いた絵だよ」と目を細めてミヤマが微笑む。その目尻に浮かぶ涙を見ないふりをして、ホタルはそこに描かれた畑を耕す老女とその周りに集まる子供たちの姿にミヤマとタキたちを見つけて胸を熱くした。
「あたしがいない間に、スイがここで暮らしていたみたいでね」
「スイちゃんが?」
「帰って来たら部屋は綺麗に片付いていて、ここで寝てたのか布団からスイの匂いがした」
匂いで誰かを特定できるほど彼らは長い時を一緒に過ごした家族だったのだ。だが第四区のアパートにいるのだと思っていたスイが、このダウンタウンにいたのだとしたら今どこにいるのか。
アパートに戻っていてくれればいいが、激しい戦闘に巻き込まれたり、保安部に捕まっていたりしたらと思うとぞっとする。
早く全てを終えて無事を確認したい。
あのまま放置してしまっているアゲハのことも気になる。
「ミヤマさん。頼みがあるんです」
「……なんだい?聞くだけは聞いてやる」
絵を胸に置きミヤマは視線を窓の方へと反らして促した。聞く前から断られるよりはましだが、頼みを聞き入れてくれるとは限らない。
「タキと連絡を取りたいんです。どこにいるか知りませんか?」
できるだけ力を抜いて口にしたつもりだが、老女は「さてねぇ……」と言葉を濁して口を閉ざした。
タキが反乱軍に参加していると知っているミヤマが簡単に情報を与えてくれるとは思えない。
だがタキと接触するにはミヤマに協力してもらうしか方法がなかった。
「この国の未来のことをタキと話したいんです。何処にいるのか言えないのなら、今から一週間後に、そうですね……第六区の“アミクス”という店で待っていると伝えて下さい」
第六区の歓楽街は任せていたセクスという男が反乱軍に助けられたことから、あそこは討伐隊が手を引いた街だ。タキたち反乱軍の人間が統制地区で唯一安全と言える場所であり、逆にホタルの身の安全は保障されない場所でもある。
だがそうしないとタキに会えないというのなら、危険を冒してもいいと思っていた。
「タキとは随分会っていないから、伝言を頼まれても伝えられないだろうよ」
「それでもいいんです。待っていますから」
例えタキが現れなくても。
「……意外と強情だね」
「よく言われます」
期待しないでくれよと念を押されホタルは「はい」とだけ答えた。伝言がタキにと伝わらなかった時は運が無かったのだと諦めよう。
そしてまた別の方法を探すのだ。
できればタキと再会できればそれに越したことはない。
「それではまた来ます。それまでお元気でいて下さいね」
「どうだかね」
悪態染みた返答に苦笑いしながらホタルは失礼しますと会釈をして寝室を辞した。高まる期待とそれを裏切られた時の落胆を想像して心が折れそうになるが、ぐっと胸を張って顔を上げる。
諦めなければ道は開けるからと言い聞かせて。