エピソード58 断られた要請
「まずいな……」
昨日から降り続いている雨は小雨になったが、合羽を着ていても足元は容赦なく濡れて泥濘るんだ土がズボンや靴、顔や腕を汚していく。
必死に滑らないようにと被筒と銃把握り込んだ指が痺れて固まっている。
無理矢理組まされた童顔の男は疲れ切り塹壕の底に蹲るようにして寝ているが、浅い眠りしか許されない過酷な状況の中では疲労回復など望めない。頭上から押し潰さんとしているかのような黒い雲が、これからの命運を顕しているようで気にくわなかった。
やはり単発の戦闘しか仕掛けてこないマラキア軍の攻撃は単調で、慣れてしまえばそれに対応することは難しくない。何度か弾を撃ちこみ合えばそれで終わる。
だが張り詰めた緊張感を維持することに苦心し、そのせいで酷く疲れるのだから長引けばこちら側の不利になりあっという間に決着はついてしまう。
もしかしたらそれを待っているのかもしれない。
マラキア軍はシオたちが自滅するように仕向け、自分たちの損害が少ないまま勝利を得ようとしているのか。
「くそっ!」
シオは塹壕の中へと引っ込み、弾を籠めようとして毒づいた。残り少なくなっているとは思っていたが、渡されていた弾倉は全て使い終えてしまっている。手を伸ばして男の残り弾を探ったが「なにするんだよ」と寝起きの掠れた声で抵抗された。
「お前の、どれくらい残ってる?」
「なにが……?」
目を擦りながら身を起こした男はなにを言っているのかと不思議そうな顔で首を傾げる。それに「弾だ!」と怒鳴って返すと、のんびりとした動作で装備を確認すると残りひとつとなった弾倉を取り出してこれだけだと示す。
足りない。
元々潤沢にあった訳ではないだろうが、それでも消費が早すぎる。
シオは相手が攻めてくるたびに狙いを着けて撃っていたが、他の人間たちは今でも銃の扱いに不慣れで狙いを着けて撃つよりも恐怖を振り払うために連射して無駄弾を撃っていた。
サロス准尉がどんなに熱心に指導しても、彼らは元々兵士では無く訓練を受けたわけでもない。ただの民間人だ。
恐怖に打ち勝つ方法も、銃の撃ち方も知らないのだからそれも仕方がないことだろう。
シオとて塹壕から身を乗り出し、狙いを着けた先に偶々こちらに銃口を向けていた相手と向き合った時には恐怖し萎縮する。それでも引き金を引かねば死ぬのは自分だ。だから少しでも早く弾を撃とうと努力する。
連れてこられた人間の中でもシオは誰よりもマラキア軍の兵を撃ち倒しており、その分手持ちの弾が早く無くなるのは仕方がないことだった。
「それ、寄越せ」
掌をずいっと差し出すと男は青ざめて弾倉を握り込み、シオから身を遠ざける。能天気なこの男でも最後の弾を渡してしまえば自分の身が危なくなると恐れるだけの知能はあるらしい。
だがシオが撃った方が確実で、敵の数を減らすことができる。マラキア軍は長い戦闘を好まないから男の持っている弾倉ひとつで短い戦闘ならば乗り切ることができる自信はあった。
「お前が撃つよりおれが撃つ方が可能性は高いだろ!だから、」
「いやだよ!これはオレのだ。絶対に渡さないから」
男の瞳が死にたくないと訴える。誰もが同じ気持ちでこの場に立っているのだから当然だろう。だがその弾をシオに預けた方が生き残る確率が上がるのだと訴えてもきっと通じないに違いない。
「ちっ!じゃあお前がここを護れよ。おれは弾を取ってくる」
舌打ちしてシオは腰を上げようとしたが男が手を伸ばして行かないでくれと懇願してくる。塹壕にひとり残されることに怯え必死に合羽を握り締める。
「なら、それ寄越せって!」
「い、いやだ。死にたくない!」
「じゃあ離せよ!おれだって死にたくないに決まってんだろ!」
男の銃の腕が素人以下であることは自分でも理解しているのだろう。シオがいなければこの塹壕を護りきることができないと首を振る。
弾を渡したくはないが、ひとりにされるのも嫌だと子供のように駄々をこねる男の頭をぐっと押えて塹壕の中に伏せさせた。
「ここでじっとしてろ。撃ち合おうとしなければ弾は当たらない。その代わり道路を渡ってここにマラキア兵が来ないように祈ってろ」
直ぐに戻るからという言葉は心の中で呟く。
男が縋りつくように握っていた指を合羽から外して、シオはマラキア軍の攻撃が止んだ瞬間塹壕から這い出して後方のサロス准尉がいる場所まで全力で走り出した。
小雨の間を縫うように複数ある塹壕でそれぞれが交戦している音と息遣いが聞こえる。濡れた草が足を滑らせ思うように走れないが、それでも前へ身体と意識を駆り立てた。
霧雨のような小雨と湿度の高いせいで煙ったように視界が不明瞭で、自分がどこを走っているのか、どれだけ駆けたのかを知る術がない。長く走っているようにも、あの塹壕からたいして離れていないようにも感じて不安になる。
そろそろサロスのいるテントに辿り着くはずなのに――。
タタタタタッ!!
「――なんだ?」
背後から聞こえた銃声は道路の向こうでは無くこちら側からの物だった。味方が撃った物だろうと思いたかったが、どうも方向からさっきまでシオがいた塹壕から聞こえた気がした。
嫌な予感が胸を過り、身体が強張る。
もしあそこを突破されたとしても次の塹壕で身を潜めている人間が留めてくれるだろう。だから今は戦い生き抜くための弾倉を手に入れるために行かなくては――。
「クソッ!」
シオは身を翻して来た道を戻る。
違うかもしれない。
気のせいかもしれない。
「な、んで」
そう思うのに引き返す足が止まらないのだ。撃ちこんでも撃ち返してこないあの場所を、不審に思うなり好機だと思って攻め込まれたとしてもシオが気に止む必要はないはずだ。
弾を渡すのを嫌がったのはあの男で、たったひとりでは戦えない臆病者だと自覚していたのだから、死を引き込んだのは判断を間違ったあの男のせいなのだから。
「っ!!」
緊迫した気配と押し殺した息遣いが雨を乱して進んでくる。シオは歩みを止めて弾の入っていないライフルを握り締めた。
土の匂いと草の匂いの他に微かな硝煙の匂いがする。
解り辛いが濡れている地面は歩くたびに泥濘を跳ね上げる音が響く。
ごくり――。
自分の唾液を嚥下する音さえ聞こえるようでシオは総毛立つ。
死にたくない。
胸に湧き上がるのは純粋な生への欲求。奪われることには慣れているはずなのに、唯一自分の物だといえる己の命を誰かに奪われる恐怖は足を竦ませシオを一瞬で絡め取る。
死が近い場所でただひたすらに生を望み他人の命を奪うことが正しいことなのか。
そう詰って命乞いをしてもそれは虚しく、とても惨めだ。シオ自身死にたくないから引き金を引き、マラキア軍の兵を殺したのだから。同様に責められ、購う為に殺害されたとて文句は言えない。
それでも生きてタキとスイの元へと帰りたいと激しく切望するシオの心は、雨向こうで動く影と気配を無意識で追う。
カチリ――。
被筒を支えて引き金にかけられた指が絞られた微かな音が聞こえた。相手はシオに気付いている。立ち止まり霧の中神経を尖らせているシオを探りながらゆっくりと近づいてきていた。
ライフルには弾が無い。応戦する暇も無く身体に銃弾を浴びてシオは温もりを失うのだと覚悟した。
その時にふと「過分すぎる」と怒鳴る声を思い出す。始めてサロスとあった時、受け取ったのはライフルでは無かった。その前に掌に置かれたのは鈍色をした素っ気無い拳銃だったはずだ。
戦場では弾道の長いライフルの方が向いているので使う必要が無かったので忘れていた。
シオは小振りの背負い袋に放り込んでいたそれを急いで取り出し構えた。そうすることで身体の力みが取れ、頭の中が鮮明になっていく。
冷静さが戻ってくる。
耳を澄ませばまだ戦闘は続いており、あちこちで銃撃戦の合間に怒号や悲鳴が切れ切れに聞こえてきた。
白く煙る視界の先で一瞬影が見え、シオは味方かもしれないと頭の端に考えながらも迷わず銃を発射する。相手に着弾したのは呻き声で確認し、直ぐに走って右へと回り込みながら聞いたことの無い言葉で何事か低く言い合う声が聞こえた場所に正確に撃ちこむ。
濡れた地面に倒れ込む音と、血の匂いと苦痛に悶える声。
集中しろ。
敵の数が解らないままではシオの方が不利だ。スィール軍は人数が少ない分二人一組にして小さくても多くの塹壕を築いて対応している。塹壕の外でマラキア軍と戦っているシオに気付いていたとしても、わざわざ自分の塹壕から出てきて助けようとは思わないだろう。
誰も助けてはくれないのだと言い聞かせ、シオはゆっくりと呼吸を繰り返す。
再び歩を止め動かずに相手の出方を見る。
無駄に動けばこちらの居場所を教えることになるので、今はじっと五感を研ぎ澄ませて敵が襤褸を出すのを虎視眈々と待てばいい。
ぬちゃり――。
「そこ、」
思わず洩れた歓喜の声を慌てて飲み込みながら耳を頼りに発砲する。動揺で乱れる足音と、濡れた服の重い衣擦れを目掛けそれぞれに引き金を引く。悲痛な叫び声と派手な水音と共に倒れる音。
知らない言語で短く号令がかけられた後で慌ただしく去って行く気配をシオは追わずに見送った。
興奮で昂ぶった神経が熱を上げて、感情を鎮めるのに苦労する。大きく息継ぎしながら銃を手にゆっくりと自分が倒した人間を確認しようと歩み寄った。絶命しているのを確かめた後で兵の傍にしゃがみ込むと装備を漁って予備の弾倉と小銃を奪う。
そして辺りを歩き回って敵兵を探すと負傷者が三名、二名が死んでいた。シオは塹壕に戻るか悩んだが、負傷した敵兵をそのまま放置することもできないと判断し武器を取り上げてからサロスの元へと走ることにした。
雨が上がり、雲の隙間から微かな光が射しはじめる頃に戦闘が終わった。霧も晴れ、視界が開け始めるとシオが戦っていた場所は意外とサロスのテントに近かったことが解る。
「……本当にちょろい」
シオが居合わせなければこのテントへマラキア軍が簡単に襲撃できたことを考えると、この戦争がいかに容易に勝敗がつくか解ろうものだ。
呆れながらもテントの外にいる歩哨を無視して中へと入ろうとすると「貴様!」と罵られ止められた。
「すぐそこまでマラキア軍が入り込んできたことを報告しに来てやったのに!なんだよ!」
乱暴に阻止されたことに苛立ち噛みつくと、兵が「なに!?」と怯むので後方を指差し敵国の負傷兵がいることと、取り上げた武器を見せつけてやる。
逡巡した後で歩哨は「待っていろ」と告げテントの中へと入って行く。
そう待たされずに歩哨が戻り、サロス准尉がお呼びだと招き入れてくれたので黙って進む。ちらりと肩越しに振り返れば、歩哨が何人かを連れて負傷兵の元へと向かうのか歩いて行くのが見えた。
「シオ」
親しげに名を呼ぶ准尉は無線機の前で手を上げて微笑んでいる。その間抜け面を見ると腹が立ったので持っていたマラキア軍の武器をその足元に投げつけてやった。
「随分近くまでマラキアの兵が来ていたらしいな。シオが阻止してくれなかったらやばかった。礼を言う」
手を伸べてマラキアの武器を検分しながらサロスは顔も上げずにそう言った。声には確かに感謝の気持ちが込められていたが、それを素直に受け入れられないのはシオの気性のせいではない。
浮かない気分で視線を逸らして眉間に力を入れる。
「別に……。あれはおれたちの塹壕を突破されたから、あいつらがあそこまで来られた」
本来ならば叱責されて当然のことだった。
「突破された?」
「弾が無くて、おれは塹壕を出てここに来ようとしてた。残してきたあいつが多分突破された。だから礼を言われても困る」
「そうか……フラギは死んだか」
サロスの無念そうな口ぶりにシオは凍りつく。
准尉が口にしたフラギという名が共に塹壕を護っていたあの男の名前だと解ると余計に寒気がする。名を知らなければ忘れられていくだけの男だったのに、耳にした途端鮮やかにシオの中にあの男の顔や名が刻まれて拭い去れなくなった。
能天気な声も、ふにゃりと笑う情けない顔も、死にたくない、行かないでくれと縋った手も全て。
「シオ、お前に頼みがある」
姿勢を正してサロスは正面から見つめてくる。浅黒い肌は精悍さと凛とした雰囲気を強め、緑の瞳はシオを逃さないようにと強く捕えた。
「弾だけじゃなく、全ての物資と人員が不足している。ディセントラの町からも無線で物資要求を本部へと要請したが却下されたらしい。俺も再三求めたが断られた。だから伝令として本部へと行き、直接交渉して来て欲しい」
「は?なんでおれが――」
そんなことは陸軍の兵士が行けばいい。下っ端よりも立場が弱いシオのような無戸籍者が行った所でまともに取り合ってくれるとは思えない。
何故サロスはそんなことをシオに頼むのだ。
「シオが一番足が速いだろう?だからだ」
「なんだよ、その理由は!」
馬鹿にしているのかと言わんばかりの理由にシオは顔を赤くして激昂する。
だがサロス准尉は薄く笑って黒い髪を後ろへと撫でつけた。
「アオイ様は御優しい方だと窺っている。無理やり連れてこられたシオのような人間が直接訴えた方があの方には響くだろう」
「おれみたいな奴がそんな偉い奴に直接会えるわけがないだろ!」
ふっと優しく目を眇め、サロスがゆっくりと首を振る。
「会えるさ。スィール国内では会えないような人に会うことも、この戦場という特殊な場所であればそれは可能だ。だからシオ、直接お前の気持ちをぶつけてこい。そしてアオイ様を説得してみせろ」
「ぶつける?説得?で、」
できるわけがないと言わせない准尉の目に圧されシオは口を噤む。そして気圧されたままのシオに「さあ、行け!」と命じ、その声を耳にした途端何故か走り出していた。
雨が上がったとはいえ地面は変わらず泥濘み、足の自由を奪う。それでもシオはなにかに突き動かされるように国境である山へと向かった。