エピソード57 揺さぶり
塹壕の中で膝とライフルを抱えるようにして眠っていると突然ドンッと重い音が響いてシオは薄らと目を開けた。道路を挟んでマラキア軍と睨み合って一日が過ぎ、戦況は押され気味ではあったが兵力火力どちらも劣っている割には持ちこたえている方だと思う。
徒歩で山を下りてきた二百人はシオたちが交戦している背後を通って無事に町へと辿り着き、先に攻撃を仕掛けていたクイナやヤトゥたちと合流したらしい。
そこで住民を人質に取り、スィール国でいう治安維持隊である二百五十人の警邏隊を町から追い出した。
警邏隊はそのまま町の外れに留まり、なんとか人質の解放と町を取り返すべく動いている。マラキア軍の駐屯地から千人が派兵され、町の南東に陣取ったことから事態は緊迫した様相を呈していた。
町を完全に制圧できたとは言い難い状況と、未だに町へと入れない苛立ちに軍の人間はピリピリと殺気だっている。
「……また始まったのか」
やつらも必死というか、暇人というか。
「お陰で寝不足だ」
「その恨みを籠めて引き金を引けよ、シオ」
「うるせえよ。そんなこと、言われなくても」
解ってる。
隣で同じように疲れて寝ていた男が塹壕の縁から顔を覗かせて辺りを窺う。薄汚れたズボンの上に真新しい軍服の上着を着て、どこか嬉しそうに銃を手にしていた。
備品が少ないからと渡されたのは二人一着のカーキ色の軍服。シオはジーンズが破れていたのでズボンを選び、上着は目の前の男が受け取った。なんともちぐはぐだが締め付け感が無い分ジーンズよりは動きやすく快適だったので黙って穿いている。
時間が経過するたびに誰かが弾を喰らって命を失う。
だからこそシオは目の前の男の名を知ろうとは思わないし、乞われなければ名を名乗ることはしない。
だがこの男は人懐こい笑顔でシオを名で呼び、軍の服を着ただけで兵隊の気分を味わえるお気楽な奴だった。痩せた身体に幼い顔つきの男は、頭の中身の成長も遅いようだ。
空を見上げると曇天で、灰色の雲が厚く覆い頭の芯が痛む。
「降らなきゃいいが」
雨が降ると気配が探りにくく、雨音で耳も役に立たなくなる。濡れれば身体の熱も奪われて、集中力を持続することも難しくなるだろう。
そうなると確実に死ぬ確率が跳ね上がる。
風を切る微妙な音を聞こえるというよりも感じ、咄嗟に外を覗いている男の背中を掴んで塹壕の中へと引きずり込む。「なにするんだ!」という抗議の声の後で銃弾がさっきまでいた場所を掠めて行くのを見ると青ざめて震える。
「あわ、ありが、」
「別に。ここで死なれちゃ、血の匂いが鼻に突いて眠れなくなるからな」
助けたくてやったわけではない。
そうはっきりと言ったのだが男はふにゃりと笑って「照れるなよ~」と何故か上機嫌だ。どうしてこの男と組まされたのかと舌打ちし、もしかしたらこの少し抜けた男が死なないように気配に敏感なシオに押し付けたのかもしれないと舌打ちして心の中で毒づいた。
短い戦闘が起こる度に人が死ぬが、それでも想定よりも兵や無戸籍者たちが死ぬ数は少ないらしい。
そのことを陸軍兵士たちはサロス准尉のお陰だと有難がり、そしてシオたちにも感謝しろと押しつけがましく言ってくる。どこがあの男のすごい所なのか全く理解はできないが、陸軍兵士からの信頼は篤いらしいとだけは伝わってきた。
どうでもいい。
とにかくシオは町にいるクイナとヤトゥの元に行きたかった。山からの進軍の方に選ばれていたのだから、おとなしくそのまま従っていればこんな所で敵と戦っていなかったはずだ。今更悔やんだ所で仕方がないが、目視できる距離に町の姿があるのにそこへ行けないことがもどかしい。
町の方で大きな衝突が今の所無く、無戸籍者たち全員が無事だと聞いているので我慢するしかなかった。
どちらかというとシオの方が最前線で戦い、命の危険があるのだから気を引き締めなければならないだろう。
「どうだ?雨降りそうだから合羽を届けに来た」
軽やかな声と共に塹壕の中に滑り込んできた人物をシオは舌打ちして迎えた。マラキア軍からの攻撃が再開されたというのに、この能天気なサロス准尉は平然とした顔で深緑色のポンチョのような形の合羽を差し出してくる。
「うわ!ありがとうございます」
喜んで飛びつく男にサロスは「風邪ひかれちゃ困るからな」と気遣うような言葉をかけた。その空々しさにまた舌打ちし、ライフルを掴むと塹壕から身を乗り出して敵が潜んでいる方角に向けて引き金を引く。
「おい、シオ。いらないのか?」
「っ!お前なっ!」
今が戦闘中であることを理解していないのかと苛立ち、その怒りを弾に籠めてマラキア軍に撃ちこみ、相手が反撃を始める頃合いを見計らって身を屈めた。
頭を下げて深く身を潜めて耳を澄ませていると、それを見たサロスが「シオは優秀な兵士だな」と感心して微笑んだ。優秀と褒められたことも、兵士と認められたことも気にくわなくて鼻で笑う。
「おれが戦うのは国の為でも、あんたの為でもない。自分の為だ。胸糞悪い言い方すんじゃねえよ」
「そんなこと言って、さっきオレのこと助けてくれたじゃないか」
「そうそう。なんだかんだ言いながらシオは優しいんだ。弱い奴を放っておけないんだからな」
なんの嫌がらせか。
二人がかりで身に覚えのない事実をねつ造して褒め殺しをし始めた。
怖気が走る。
「ふざけんな!おれは助けてないし、優しくも無い!大体お前、こいつに弱い奴って言われてんだぞ!?怒れよ!」
男に噛みつきながらサロスを指差すが、きょとんとした顔で「まあ、実際オレ弱いし?」と返されてシオは体中から力が抜けるのを感じた。
「あー……もう、いい」
諦めて口を噤み、今度はこちら側からの反撃の隙を窺う。地面を穿つ音が直ぐ近くで聞こえる。時折流れ弾が塹壕の中へと入って来るが、余程運が悪くない限り当たりはしない。
マラキア軍は攻撃してくるが、圧倒的な兵力で押し込んでこないのにはなにか理由があるのか。
「……あのでかくて丈夫そうな車で突撃してこられたら、こっちはひとたまりもねえのに」
トラックで町へと向かっていた時にマラキア軍が乗っていた重心が低くタイヤの大きな車は、多分トラックに衝突してもびくともしなかっただろう。それぐらい重厚で頑丈そうだった。
だがそれをせずに銃と爆薬だけでの戦闘に持ち込んだ。
まるでこちらの戦力に合わせてくれているような気がして無性に腹が立つ。
「だよな。でもだからこそ、こっちの損害が少なくて助かってるし。あちらさんなりに色々思う所があるんだろうな」
沢山の合羽を手に肩を竦めてサロスが「さて行くか」と腰を上げる。その際にさらりと黒い髪が流れたのを見てシオは顔を顰めた。
「おい、せめてヘルメットくらい被れ」
「ん?ああ。忘れてた。気を付ける」
注意すると右手を頭部に移動させて髪を撫でつけると乾いた声で笑い声をあげる。全く以てわざとらしい。
シオは奥歯を噛み締めて睨み上げ「お前のそういうところが嫌いだ!」怒鳴りつける。
ヘルメットを着用しているのは陸軍兵士だけで、無戸籍者には与えられていない。サロスはそれを知っているからヘルメットを被らずにシオたちの元を訪ねる。合羽を配ることもわざわざ准尉自ら行う必要は無いのだ。
この男は無戸籍者たちに気軽に声をかけ、その際に銃の扱い方や狙いのつけ方、弾道の長さや円滑に弾倉を取り換えるコツまで手取り足取り教えて回っている。全員にライフルを与え、食事も一日に二食は配給されていた。
まるで仲間だと言わんばかりに親しく会話を交わして、信頼関係を築こうとしている。
本当は心の中では嘲笑っている癖に。
「偽善者め」
口汚く罵りたかったのに、たいした言葉は出てこなかった。サロスは精悍な顔に困ったような表情を浮かべてシオを見下ろしている。男がそわそわと青い顔で「おい、シオ」と止めようとするが無視した。
「俺としてはこうして寝食共にして戦っている奴らは全員仲間だと思ってるんだが……。シオはカルディアの人間だとか、統制地区だとかに拘ってるんだな」
「当たり前だろ!今までそうやって差別してきたのはお前らの方だろうが!」
それを今更仲間だとか言われて浮かれられるほどおめでたくは無い。
「そうやって差別しているのはシオの方じゃないのか?」
「なっ!?」
「陸軍には統制地区出身の下級兵士が沢山いる。俺はそいつらのことを蔑んだり、馬鹿にしたりしたことは無い。一生懸命な奴は評価するし、駄目な奴にはどこが駄目なのかを教えてやる。中にはシオが言うように初めから侮って相手にしない士官もいるが、俺は違う」
断言したサロスが緑色の瞳を煌めかせて笑う。
壮絶なほど美しく、冴えわたる鮮やかさでその笑顔はシオの目に焼き付いた。
「だからな、シオ。俺はお前の才能をかってる。危険を察知する能力、高い銃の命中率、順応性、反射神経、全て秀でている。自信を持てよ」
「おれは別に自信がないわけじゃ──」
「大丈夫だ。お前ならこの戦争を生き抜いて国に帰れるから」
「―――――っ!」
なんの根拠も無いのに自信満々で断言された。サロス自身がそう信じて疑っていない口振りに、何故か無性にシオの心が揺さぶられる。
そして気づく。
帰るのだと強く思っていた裏で、自分がそれを不可能だとも思っていたことに。
「だから、」
こうも心が震えるのだ。
他人から与えられた言葉に勇気づけられ、励まされるなんて。
「嫌いなんだ、お前が」
「そうか。残念だな」
「大丈夫です!シオのこれは照れ隠しですから」
必死で取り繕う男の横顔を横目で見ながらシオは舌打ちする。
「はは。解ってるさ。後シオが足りないのは素直さと、熟考する力だな」
「煩い」
「腐るなよ。殆どの人間がなにも考えずに引き金を引いているが、シオは戦いながらも疑問を抱くくらいの賢さはある。その疑問の答えを導くための根気強さが身に着けば、この戦争を覆すぐらいのことはできるかもしれない」
「んなこと、できるわけないだろ。ふざけてないで、さっさと他の奴らに合羽を配りに行け!」
土を掴んで投げつけるとサロスが大仰に仰け反り、恐い恐いと言いながら塹壕から出て行く。その頃にはもう銃弾が止んでいたので、シオは追い払うように手を振って見送り疲れた身体を休めるために塹壕の底に横になる。
考えろ――。
目を閉じるとサンが憐れみを浮かべた瞳でこっちを見ている。
無知は無力だと続けて聞こえてくる声にシオは恐れを抱く。考えて、考えて、答えを得たならなにか掴めるのか。
サロスが言うようにこの戦争を覆せることができるなにかを見つけられるのなら、その答えを探し求めてもいいのかもしれない。
そんなことできはしないと囁く声は己の中の弱い部分。
確かにこの戦場ではカルディアの人間も統制地区に住む人間も肩を並べて戦っている。そこに差別のような物があるかと問われれば、統制地区で暮らしていた時に比べれば無いに等しい物だった。
拘っているのはシオだけなのかもしれないと思わせるだけの根拠はある。でもそう簡単に信用できないし、味わってきた苦しみや理不尽な事柄を水に流してしまうことはできない。
だから考えろ。
道を探すために。
死の順番がシオの元に回って来る前に。
なにができるのかを。
深い眠りに引きずり込まれながらシオは右手で胸を押え、そこにタグがあるのを確認すると安心して意識を沈めた。