エピソード47 学ぶということ
居住区である第四区と商業施設の並ぶ第三区の狭間に小さな公園があるのをスイは初めて知った。遊具は錆びついたブランコと滑り台だけだが、フェンスで囲まれた公園には貧相だが木々が植えられ照りつける太陽を遮ってくれる。
統制地区の子供たちは遊ぶよりも仕事をしているので、木陰のできたベンチに座っているのは腰の曲がった老人が一人だけだった。
時刻は午前十一時過ぎ。
朝食を食べている時にアゲハが唐突に「たまには私に付き合ってみない?」と誘ってくれたので、学校へと行く気分では無かったスイは二つ返事で頷いた。
食事の後片付けを手伝い、アゲハの出かける準備が終わるまでリビングで待ち、漸く部屋から出てきた彼は一抱えある大きな鞄を二個も持ってきた。そんな大荷物で夜逃げでもするのかと問えば笑顔で「違うわよ」と否定されたが、かなり重そうな荷物になにが入っているのか教えてはくれなかった。
怪我もしているし片方持つよと申し出たが、重たいからと固辞されてスイは渋々引き下がる。二人でのんびりと歩きながらやって来たのがこの小さな公園だった。
公園の北半分は巨大なビル群、そして南半分はアパートに護られた小さな憩いの場所。背の高い建物が周りに多いからか涼しい。
アゲハは北側のビル群の方に向かい、フェンスの傍に荷物をおろす。そのまましゃがみ込んで鞄を開け始めたので、スイは所在無げに滑り台へと近づく。台の上へと上る鉄の階段は赤さびが浮いていて、手摺に触れるとべったりと張り付いて手を汚してくる。
子供用の滑り台は階段の幅も低く、足置きも小さい。上から二段目の階段が腐れて壊れているが、手入れされずにそのまま放置されていた。
きっと遊具で遊ぶような子供などいないのだろう。
遊ぶ時間があるのなら、働いて金を稼げと親も国も責めたてる。
いやな世の中だ。
子供が子供らしく生きられないなんて。
本来護られ、成長を喜ばれる時期の大切な時間を食べるために働き、笑顔を忘れて疲れ果てているなんておかしいと思うのはきっとスイが学校へと行き、そこで本来あるべき恵まれている子供の姿を見ているからだろう。
学ぶ権利、遊びの中で育まれる感性、学校生活で身に着ける社会性。将来を自分で選び進んで行くことができるのはカルディアの人間だけだろう。
「アゲハー!」
子供の声が公園に響いたのに驚きスイは入口へと顔を向けた。そこからバケツを手に持った男の子が駆け込んでくると、一番奥にいるアゲハの所に行き目を輝かせて「おれ、一番乗り!」と叫んだ後でアゲハの腫れ上がった顔を見てぎょっとした。だが統制地区では謂れもないことで暴力を揮われることも多く、そういう大人たちを見てきているのか男の子は怪我については深く斬りこまずに黙って流す。
「おめでとう。はい、これこの前のノート。なかなか面白い答えだったわよ」
「だろ?」
ノートを差し出したアゲハの手から男の子は得意げに鼻を上向かせて受け取ると、その場に座り込んでページを捲り始める。そっと近づいて後ろから覗き込むと、白いノートが一面黒く見えるほど小さな文字がびっしりと書き込まれていた。
簡単な足し算引き算から掛け算割り算、綴りの練習。花の絵が描かれて雄蕊や雌蕊、花びらや萼、種子になるまでの過程まで書き込まれている。なにかについての感想文や、スィール国の地名や簡単な地図、そして歴史など多岐にわたっていた。
「なんだよ」
覗かれているのに気付いて男の子が怪訝そうな顔でスイを見上げる。傍らに置かれているバケツの中には雑巾やブラシ、洗剤が入っていて彼が清掃の仕事をしているのだと解った。
「勉強……アゲハが教えてるの?」
「そうだぜ。アゲハ色んなこと知ってるくせに偉そうじゃないし、おれたちみたいな頭悪い奴でも解るように教えてくれるんだ」
ああ見えてすごい奴なんだぜとアゲハを見る目はとても親しげでスイは少し意外な気がした。男の子は元気というよりも聞かん坊のような奔放さと乱暴さが見える。アゲハはどちらかと言うと子どもに舐められてしまうタイプの人間だから、彼のような悪ガキの類いとは反りが合わないように感じるのに。
慕われている様子に目を丸くしてアゲハへ顔を向けると照れ臭そうに笑って「そんなにすごい奴ではなんだけどね」と首を傾げた。
「……知らなかった」
普段アゲハがなにをしているのか聞いたことがなかったことにスイは今更ながら気づき、少なからず衝撃を覚えた。
興味が無かったわけではなかったが、なんとなく世間から外れている所で生きているアゲハについて想像することも尋ねることもできないような気がしていたのだ。
まさかこんな所で子供に勉強を教えていたとは。
「そうね。言わなかったもの……。言う必要ないって思ってたしね。それに純粋な慈善事業でやっている訳じゃないし」
「え!?お金貰ってるの?」
次から次へと公園へとやってくる子供たちは汚れた服を着て、それぞれの仕事道具を抱えていた。みんな仕事の休憩中や合間に公園へと集まっているようで、そんな子供たちから金を巻き上げているのかと非難の目を向ければ慌ててアゲハは否定した。
「違うわよ!そうじゃなくて。この子たちに教えるのは贖罪のつもりっていうか……。そろそろみんな集まったみたいだから始めましょうか」
曖昧に誤魔化して済ませると鞄の中からノートを取り出してひとりひとりに手渡し、最後に鉛筆を配るとアゲハが子供たちの顔を見渡した。途端に子供たちの表情が引き締まり、耳を真剣に傾ける。
スイもなんとなく端っこに座りアゲハの授業を受けることにした。
「じゃあ今日はみんなが知りたいことを聞いてそれについて学びましょうか。誰かなにか質問ある?」
少し緊張した顔でアゲハは子供の反応を窺うと一番乗りした男の子が「はい」と手を上げた。視線で指名して促すと男の子は固い声で「どうして無戸籍者が連れて行かれるのか解らない。あいつら悪い奴なのか?」と聞く。
きっと昨日の騒ぎで子供たちも強い懸念と不安を抱いたのだろう。
スイはふっとタキもシオもいない部屋を思い出す。たった独りで暮らすには広すぎて、寂しさだけが大きくなっていく。タキの煙草の匂いも、シオの気配も無い部屋にいるのは辛すぎる。
夜は寒くて、朝は静かだ。
「無戸籍者が悪いんじゃなくて、国が悪いのよ。みんなどうして無戸籍者がいるか解る?」
「解らない」
「知らな~い」
全員が首を振る。
勿論スイにもどうして戸籍の無い者がいるのか詳しくは理解できていない。
「戸籍が無い人がいるっていうことは簡単に言うと国が国民を管理できていないってことね。元々国民で戸籍を失った人と、外国から流れてきた人といるんだけど……。殆どの人がスィール国の人だったけど戸籍が無くなってしまった人が多いのよ」
一旦言葉を切って子供たちが理解できているかを確認してからアゲハは説明を続ける。
「昔この国が戦争をしたのは前に話したわよね。その時に戦うために兵となって連れて行かれた人や、戦地となった場所に住んでいた人たちは、生きているのか死んでいるのか国は正確には理解できていなかったの。死んだと思われて戸籍を失った人や、生きていてもどこへ行ったのか解らなくなった人たちの戸籍は全て捨てられてしまったのよ」
「またもらえないの?」
素朴な疑問を女の子がする。それはみんなも思っていたようで不思議そうな顔でアゲハを見上げていた。
「戦争が終わった頃はみんな混乱していて、今よりもずっと食べる物も住む場所も無かったから、国はそんな小さなこと今はどうでもいいって後回しにしたのね。それにみんな戸籍があるかどうかなんて気にしてなかったし、そんなことよりも生きることに一生懸命だったから。一度戸籍を失うと手続きがとても大変で、国も国民も面倒くさいことを放っておいたの。登録を消された人が生んだ子供も戸籍が無いから、どんどん増えていって今は国民の三割の人が戸籍を持っていないわ」
「で、結局戸籍は?貰えないの?」
「それがね、戸籍を登録する為に沢山のお金を払わなくちゃいけないようにしたから問題になってるのよ」
「そもそもどうして戸籍が必要なの?」
「なんでお金がいるの?」
次から次へと疑問が湧くのは子供の好奇心の所為だろうか。
それともアゲハが彼らをそんな風に導いて育てて来たのか。
「戸籍はね、無いと困るの。私はこの国の人間ですよって登録してもらって認めてもらい、そうすることで色んな権利を護ってもらえる。逆に国は権利を護る代わりに国民に税金を納めてもらうの。税金は稼いだお金の金額に応じて納めなきゃならないようになってるから、もちろんみんなも払ってるのよ」
「お給料から引かれてるんだよね!知ってる」
「そう。みんなも立派な国民なのよ」
「……じゃあ戸籍の無い人は払ってないの?働いてるのに?」
「あら。いい質問ね。彼らは日雇いとして働いている人が多いわ。日雇いは原則税金がかからない。その日暮らしで大変な生活をしているから。無戸籍者の賃金は安いから事業者は彼らを率先して雇うの。工場や工事現場なんかでね」
「……でもタキの給料は安くなかった」
スイはついタキの賃金について口にしていた。いつのまにか自分も生徒になったつもりでアゲハの言葉を真面目に聞いている。
学校では教えてくれない内容にスイの興味も強くなっていた。
「そう。例外もあるの。誰も働きたがらないような夜間の仕事や、力仕事、特に危険できつい場所での労働には国が補助を出してるから。死せる海の傍で夜に力仕事だったからかなり高かったはずよ」
どこでアゲハはそんな知識を身に着けたのか。カルディア出身の人間全てが詳しいわけではないだろう。元々興味があったのか、気になって調べたのかどちらかに違いない。
「ちょっと話を戻すわね。そこで何故戸籍の登録にお金が必要かと言うと、今まで払っていない分の税金がこれぐらいになるからって計算しているからなんだけど……年齢も違うのに、みんな一緒の金額だから問題なのね」
「じゃあお祖父ちゃんも子供もいっしょなの?」
「そうなの。稼いだ金額も生きている時間も違うのに……おかしいでしょ?」
みんなが口々におかしいと言って頷く。
スイも知らず頷いていた。
国民登録義務法ができたのはつい最近で、登録するのに莫大な金額が必要になったが、元々は戸籍を得るために煩雑な手続きと纏まった金を用意できれば登録することは可能だった。殆どの人間がその必要性を感じられなかったことと、文字すら書くことも読むこともできない者たちが手続きへと行けないことも原因のひとつでもあったのだ。
アゲハが言った様に面倒臭いから国も無戸籍者も放っておいた。
そのせいで囚われることになると知っていたらもう少し違っていただろう。
「じゃあ、次までに国と戸籍の無い人たちが幸せになれるにはどうしたらいいか考えて来てね。宿題」
「はーい」
アゲハの授業はここで終わり、子供たちは残りの時間でノートに今日学んだ事を書き込んでいる。その純粋な瞳と真剣な姿は生き生きとして子供らしい。
本当なら喋るのすら辛いだろうにアゲハは最後までそんなそぶりも見せずに最後まで話し続けた。それは弱さを見せたくないからでもあり、仕事の合間をぬってここへと来てくれた彼らの熱意に真剣に答えるためでもあるのだろう。
子供たちは学ぶことを楽しみ、そしてそれを知識として昇華していた。
学校へと通っているスイはただ通っているだけで何も学んでは無かったのだと思い知る。折角タキやシオが高い金を払ってくれていたのに。
もっと色々と知らなくてはと思う。
知識があるのと、ないのでは全く違うから。
「自分から、動かないと」
受け身ではだめなのだとスイは奮い立つ。
もう二度と知らなかったせいで失いたくは無いから。