エピソード174 過分な言葉
諦めるのか?
問いかけてくる声は温かく力強い。
迷いのない眼差しでもう一度「諦めるのか?」と呼びかけてくる。
凍えるような寒さも、抗いようのない眠気もホタルの意思ひとつでどうにかなるとは思えなかった。
だから言訳のような「ごめん」という謝罪を聞いた友人は困ったような顔でそっと首を横に振る。
自分なりに頑張ったと思う。
だからここで終わりにしても許されるような気がして。
ホタルが諦めたら全てが無駄になる――。
だがタキは乞うように目覚めと再起を促し、深く沈みゆく意識の中で道を示すかのように腕を広げる。太く大きな両腕が闇の向こうから白く波立つ流れを連れてきて、ホタルをゆっくりと押し流す。
タキの血の染みついたカーキ色のモッズコートの裾が黒く濡れ、膝の間を海水が流れて行く。波音が響き渡り、黒き流れが轟々と押し寄せてくる。
「タキ?」
徐々に距離が開いて行くことに不安を感じて手を伸ばすと、金の瞳を眇めて微笑み頭を振った。
腰まで浸かった友人はそっと両腕を下ろして、水の感触を確かめるように動かす。
「タキ、どうしたの?」
ホタルの足は微塵も動いてなどいないのに、タキはどんどん遠くへと行ってしまう。
まるでタキの方が離れて行っているかのように。
「タキ!」
男っぽい唇がホタルの名の形に動く。
もう声が届かない。
聞こえない。
「いやだ――」
声にならなくともタキの口はこの国の未来を、弟妹を頼むと懇願していた。
「僕だけでは、無理だ」
タキも一緒でなければ。
聞こえたのか友人は大きく頷いた。
共に――。
それを最後にタキの姿は波に飲まれて消え失せた。金の輝きを波間に漂わせ、大きくうねりながらホタルを荒々しく押し戻す。
本来あるべき場所へ。
二人が希望と夢を実現させるために戦っていた現へと。
否応なく。
「――タル様、ホタル様。御無事ですか?」
波に揺さぶられている感覚のまま目を開ければ、呼ぶ声は変われども世界は闇に包まれたままだった。
肩に置かれた掌が遠慮なしに強く動かされている。
「……う、」
返事をしようと唇を開いた途端に酷い眩暈が起こり、胸の奥からなにかがせり上がって来るのを感じた。慌てて顔を横向けて軽く身を起こすと、苦い液体が喉を焼いて不快なまま嘔吐する。
胃液でも消化途中の食べ物ですらないものが出て来たことに驚き、ホタルは暗い中で口元を拭った。
生臭いような潮の香りが口内に充満し、舌が痺れるような感覚は覚えがある。
二年前に寝食を惜しんで研究に打ち込んでいた頃に、海水を引き上げている途中で貧血と疲労により気を失って海中へと落ちてしまった時と同じ。
病院で目を覚ました後、暫くは胃の中から海水の匂いが上がって来て、鼻の奥に染み付いてしまったかのような気がしていた。
「――――夢じゃない」
海から遠く離れた場所にいながら、ホタルの胃から海水が出てくるわけがない。
それでも吐瀉したものは酸っぱくもなく、発酵しかかった異臭も無かったのだから間違いなく別のものだ。
ホタルは目が覚める直前まで見ていた映像が単なる夢では無かったのだと目の前に突き付けられたようで恐怖に竦む。
夢ではないのならば、タキは遠い所へと行ってしまったということになる。
全てをホタルに託して。
「違う、きっと」
「ホタル様、どうか落ち着いて下さい」
見えない中でも取り乱していることに気付いたセクスがそっと背中を擦ってくれる。ゆっくりと静かな声で冷静になれと諭されて、ホタルは大きく息を吸い込んで深呼吸した。
「……そういえば、ミヅキは?」
気を失う前の戦闘を思い出し、こんなに悠長に横たわっている場合ではないと身を硬くする。未だに寒気の残る身体はどこかぎこちなく、強張っていた。
緊張感で張り詰めているホタルを察して「もう、危険はありません」と断言するセクスから微かな血の匂いが漂ってくる。そして少し離れた場所から濃厚な死を予感させる生臭い臭いが感じられた。
「セクスが、」
彼を止めてくれたのか。
机を並べて一緒に学んだ友を失ってしまったことを、残念だとは思うがその死を悔やんだりはしない。
ミヅキは異能の民であり、更に脅威となる能力者だった。
彼が生きている限りこの国に平和は訪れない。
一体どんな最期を迎えたのか、この闇の中では知ることはできなかった。
「フルゴルの射撃で胸を撃たれたはずの彼が、瀕死の重傷を負うどころか笑顔で我々を迎えたので銃による攻撃を避けたのが功を奏しました」
どういう絡繰りかは解らないが、ミヅキは生き物の急所である心臓を撃ち抜かれたはずなのに平然とホタルたちの前に姿を現すことができた。
それが銃による怪我だったからなのかどうかは解らない。
異能力について解らないことばかりなのだから。
理解しようとする方がきっと間違っている。
「これからどうする?」
薄暗い廊下でいつまでも二人で立ち往生している訳にはいかない。当初の目的通り進むべきか、それとも退くべきか。
「……恐らく正面玄関は押えられているでしょう。統制地区へと戻るには、ここは遠すぎます。まず無事に門を潜れるとは思えません」
「ならば、進むしか方法はないか……」
身体の芯まで冷え切った心細さに腕を擦ると、セクスは己の上着を脱いでホタルの肩にかけてくれた。
ミヅキに襲われたのはホタルだけではない。
同様にセクスも熱を奪われて冷えているだろうに、と固辞すればやんわりと拒絶された。
「私は少々傷を負いすぎたようです。ここに捨て置いて下さい」
「セクス!?なにを言って、」
「ホタル様。ここへ来たのはなんのためですか?希望を、夢を叶えるためなのではありませんか?」
穏やかともいえるセクスの声は、ホタルの狼狽を鎮めようと気丈に努めているように聞こえた。
セクスを置いて先へと進めと懇願されて、簡単に斬り捨てられるようならば苦労は無い。
「勿論そのつもりだった。でも今は状況が違う」
「そうです。事態は刻一刻と変化します。先へ進んでも、退いても茨の道ならば私は進むことをお勧めします」
「なら、一緒に」
「いいえ。戦えぬ私は足手纏いでしかありません。幸い死に至るような深手ではありませんので、私の心配はしなくても大丈夫です。ですが、ホタル様」
ぐっと声を押し殺して「これはチャンスです」と伝えてくる言葉にホタルは腹の底が寒さでは無く、興奮で熱く震えた。
セクスは野望と熱意に満ちた思いを乗せて、闇の向こうから虎視眈々とした視線を注いでくる。
諦めを知らぬ強かさと、勝利を渇望する執念深さが生々しくて戦慄した。
「ここで総統を討てれば、革命軍のアオイ様に勝機を運ぶ風となりましょう」
「僕が、総統を」
討つ――?
「そうです。もしくはお父上であるナノリ様のお力を借りて、この場を切り抜けることも可能でしょう」
どちらを選ぶかはホタル次第だ、と委ねられてごくりと喉を鳴らす。
父と国を裏切っておきながら、どうにもならなくなったから助けてくれと泣きつくわけにはいかない。
でも総統にひとりで立ち向かえるかと問われると自信はなかった。
「私はここで待ちます。全てが終わったら、迎えに来てください」
「――――解った」
ここまで随分と無理をさせて来たのだ。
ひとりでは恐いと我儘を言って引きずって行くことなどできないだろう。
「必ず迎えに来る」
せめてそれくらいは約束したい。
「ええ。信じています。ホタル様ならばやり遂げられると」
「……過分な言葉だ」
「そんなことはありません。自信を持ってください」
震える膝に手を当ててホタルは立ち上がる。上着に袖を通してみるが、鍛えられたセクスのものなのでやはり肩幅は合わず、袖や着丈も長い。
借り物の制服では少々格好がつかないが、セクスが共に来てくれているような心強さはあった。
「行ってくる」
「どうか、お気をつけて」
危険な場所へたったひとり送り出すことになって申し訳ないと思っている気持ちが痛いほど解るような一言にホタルは苦笑いする。
最後まで心労ばかりかけていることを心の中で謝罪して、薄らと壁の境と床くらいは見える廊下をセクスを置いて先へと向かった。