エピソード173 いつかは終わる
痺れた感覚しかないはずの右腕を掴んでいるアゲハの手の温もりが熱いほどに感じられてスイは不覚にも泣きそうになる。
バリケードを越えた二人を狙い撃ちしようと異能の民たちは躍起になって無駄弾を発射していた。弾丸の雨が降り注ぐ中をアゲハに腕を引かれながら身を屈めて走っていることに、不謹慎ながら嬉しいと思っている自分に気付いて戸惑う。
一緒に戦おうと対等な立場を口にしながら、アゲハは常にスイを護り支えてくれている。
今もこうして危険な戦場をスイが行きたい場所へ、無事に辿り着けるように先導してくれているのだから本当に面白くない。
でも傍にいてくれると約束してくれる言葉に心が満たされ、そして同時に不安になる。
タキとシオの庇護を失ったスイに同情して、優しいアゲハは放っておけずに「どこまでも一緒よ」と安心させるように言ってくれるのだ。
この国の混乱が治まり、今までのような生活が戻って来れば、二人の関係も元のようにただの隣人へと変わってしまう。
それを寂しいと思うのはおかしいのだろうか。
そして元通りの隣人に戻るくらいなら、平穏などいらないとさえ思うのだから我ながらどうかしている。
言葉の裏を探り、変わらぬ態度を見るたびにスイは焦って確たる気持ちを聞きたいと思うのに、アゲハは穏やかに微笑んで軽々しく期待させるような台詞を吐く。
経験など無いが恋などという甘く軽い気持ちとは違い、単なる好意と言い切るには重すぎる気がする。
友達とも仲間とも違う。
大切な人。
銃弾が大地を穿つ音がスイの後を追うようにしてついてくる。
土煙を上げ、砂を跳ね飛ばして。
「つっ!!」
弾丸が石にでも当たったのか、跳ね返ったものが偶然にもスイの左の膝裏にめり込んだ。右足を前に出して左足を交わそうとしていた時だったので、爪先が滑り前方へと身体が傾ぐ。
「スイちゃん!?」
すぐに異変に気付いたアゲハが身を捩って支えてくれたので転倒することは無かったが、動きを止めれば格好の的になるので慌てて地面に身を伏せる。
「どこを撃たれたの?」
「……足、膝の後ろ」
「歩けそう?」
こんな時でも柔らかな声で痛みを堪えているスイを労わるように語りかける。
スイは質問に頷いた後で「走るのは、無理」と返答して、自分のいる位置を確認して自力で自陣へと戻ることは難しいと判断した。
そうなるとアゲハの手を借りなければならないが、異能力使いの女を仕留めるためにはここで引いては意味がない。
危険を承知でバリケードを越えて来たのだ。
首領代理として果たすべきことは逃げ帰ることではない。
「こんな傷、アラタの怪我に比べたらたいしたことない。まだ」
戦える。
瞳に力を込めて見つめると、アゲハは少し困ったように眉を下げて苦笑した。呆れているのか、しょうがないわねと言いたげな顔で首肯する。
「まずはニチヤと合流しましょう」
「……うん」
スイたちのいる場所から黒い服の女の所までの丁度中間辺りにニチヤがいる。
異能の民の猛攻撃にそれ以上進むことができずに、珍しく苛立ちの色が見えていた。目の前で次々と倒れて行く仲間の姿を見せられているのだからニチヤの気持ちも痛いほど解る。
「スイちゃん、しっかり掴まって」
肩を抱かれ背中にアゲハの体温を感じる。差し出された左腕にスイは手を伸ばし、ぎゅっと服を握り締めた。
「行くわよ」
支えると言うよりも抱え上げられているような状態でスイは身を起こす。痛みや流れる血の不快感も今は薄れていて、震える膝に鞭打って必死に足を動かした。
生温い風に雨の匂いが混じり始め、スイは敗色の気配を振り払うべくいつもの言葉を胸の内に繰り返す。
恐れるな。
今まで多くを望まぬようにして生きてきたが、多い少ないにかかわらず国はスイの手から大切なものを奪ってきた。
怒りと、落胆と、不満が胸の内には常にあって、やり場のない思いを吐き出すために絵を描くことに没頭してきた。
でも描けば描くほど虚しくなって、純粋に絵を描く楽しみ方を忘れたスイは身動きが取れずにその憤りをぶつけることで描き続けていた。
本当はそんな絵が描きたかったわけじゃない。
見る人全てが幸せな気持ちになってくれるようなものが描きたかったのに、スイは人並みの幸せを知らなかったから。
振り返ってみたら孤児院にいた頃、ミヤマに褒められてタキやシオを前に描いた絵を披露していた時が一番理想の絵を描けていた気がする。
幸せだったのだ。
あの頃が本当は一番。
自分の描いた絵を見てみんなが笑顔になってくれていたあの頃が。
「アゲハ……」
名を呼べば優しい声が返事をしてくれる。
塹壕やバリケードを見れば仲間たちの勝利を信じる顔が見え、スイやアゲハを護るために数少ない弾を消費してくれていた。
「欲張りだって笑わないでくれる?」
「笑わないわよ」
今は驚くほど多くのものを欲して、小さな夢から大きな夢まで抱くようになっていた。
細やかで慎ましやかだった己の欲望が果てしなく広がり、スイの中で可能性の芽を沢山芽吹かせているのだ。
「全部、叶えたいんだ」
異能の民を打ち払って、できるだけ多くの仲間を生きて自治区へと帰らせてやりたい。
傷つき未だ意識のはっきりしないアラタがはやく元気になって首領として動けるようになって欲しい。
ゲンにはその技術で沢山の人を救ってもらいたい。
首領自治区に安全と平和を。
そしてタキに会いに行って、今までのことを全部聞いてもらいたい。二人で自治区を訪れて腹違いの兄であるアラタに会わせたい。
それから。
シオに会って謝りたい。
仲直りしたい。
アゲハには統制地区に戻って子供たちの先生として慕われていて欲しい。
「自分たちのことしか考えられなかったのに、随分欲深くなっちゃったよ」
願いを挙げだしたらきりがない。
スイは抱えきれないほど大切なものを手に入れた。
「感謝しなくちゃね」
「誰に?」
アゲハの楽しげな問いにスイは小さく微笑んで「みんなに」と答える。
「スイちゃんは全然欲張りなんかじゃないわよ。みんなに感謝できるなんてとても素敵なことだし、謙虚だわ。私も見習わなくっちゃね」
笑うアゲハと共にニチヤの横に滑り込む。
「……怪我は大丈夫ですか?」
砂埃を上げてやって来たスイとアゲハを、目を細めて迎えたニチヤは開口一番に怪我の状態を尋ねてきた。
「今はあんまり痛くない。でも走ったり、速い動きは無理かも」
「ではここから援護してもらえますか?」
ニチヤの視線は能力者へと注がれている。
不吉な色を纏う女の顔はこの距離からならばはっきり見えた。冷たい美貌の妖艶な女は弧を描く赤い唇と濡れたような黒い瞳が印象的だ。スカートの横部分に入っている深い切れ込みから、歩くたびにちらちらと白い脚が覗く。
「なに?あんな色気のあるような女が好みなの?」
熱を込めて見ていることを揶揄すると、ニチヤは平然とした顔で頷き「たまりませんね」と答える。
「大抵の男は大きな胸や腰の張った女に目を奪われます。ですが世の中には少数派もいますから、代理があまり気にする必要はないかと」
「――今そういう気休め発言求めてないんだけど?」
「気休めではありません。事実ですから」
僅かな膨らみも無い己の胸を恥じてスイは唇を尖らせると、ニチヤが真面目な顔で励ましてくれる。
これ以上は成長しないと医者に断言されている以上、恥じたり悩んだりしてもしょうがないのだが、他人を羨ましいと思うのはやはり止められない。
「スイちゃんは器が大きいから」
「アゲハまで、もう、いいよ」
言われれば言われるほど落ち込んでしまうから勘弁してもらいたい。
「我慢ができませんので、援護を頼んでも?」
「え?ああ、勿論」
急かされてスイは銃を手に俯せになるとアゲハが右隣りに同じように伏せた。
数を三つ数えてから駆けだしたニチヤに敵の銃口は慌てて追いすがる。そこ目掛けて撃ちこむが僅かに目標地点とはずれて着弾した。
すぐにその分の修正をして射撃すると、狙った場所で銃弾が弾けてニチヤはほんの少しだけ自由になる。
女は銃を構えて突撃してくるニチヤを認めて艶やかに微笑む。黒い裾を巻き上げるように風が吹き、乾いた砂が舞って視界を黄色く染めた。
砂が目に入った痛みに思わず目を閉じたスイの横でアゲハが息を飲む音がする。
「――――ない!!」
靴底が大地を擦り、傍にあったはずの体温が離れて行った。
危険を報せる声を上げて。
「アゲハ!?」
武器も持たずに飛び出して行ったアゲハの姿を探して目を開けたが、激しい風が巻き起こした砂嵐のせいで良く見えない。
「アゲハ――!!」
この状況では両者共に攻撃した所で意味はないだろう。
スイは相手から狙われないのをいいことに立ち上がり、ゆっくりと風の中を歩き出す。銃を持った左手を顔の前に翳して、目に砂が入らないように。
仲間とニチヤがいるだろう場所を目指して進むと、随分混乱しているのか怒鳴り合う声が木霊し、時折銃声が響いた。
視界の効かない中で撃ち合うのは危険だ。
しかも敵よりも味方の方が多いのに。
「撃つな!仲間に当たるぞ!!」
喉を嗄らして警告しながら、スイは気配を探りながら黄色い世界を彷徨う。
銃声は消え、誰何しては取り乱す男たちの声だけが聞こえていた。
「どこに――ひゃっ!」
ひんやりとした手に左手首を掴まれ、スイは悲鳴を上げる。触れられた箇所からなにかが奪われていっているのを感じ、恐怖で青ざめた。
確かに吸い取られているのに、それがなにか解らない。
しっかりと握っていたはずの銃が重い音を立てて落ちる。
「い、や」
腕が怠く重くなり、肩が落ちて背中まで脱力していった。
急速に抜けて行く力にスイの身体はずるりと地面に倒れ込む。
「な、……に?」
震えが走る程の恐怖に襲われて、右頬を硬い砂に擦らせながら目を上げる。黄色い砂の向こうに女の顔が見えて、スイは「ああ……」と諦めの声を洩らした。
掴まれている手首から指先まで灰色へと変色しており、服の下で見えないが恐らくは腕から肩、そして背中まで同じような色になってしまっているのだろう。
「他愛もない」
笑みを深くして女は投げ捨てるようにスイの手を離す。
ぐにゃりと地面に落下した腕は感覚すら無く、激しく打ち付けたはずなのに痛みも感じなかった。
スイは右手に次いで左手すら動かなくなってしまったことに狼狽えて、そして悔しくて涙を流す。
こうなってしまってはこの腕でなにも護れない。
なにも持てない。
「こんな……」
力無く横たわって泣くしかない自分が酷く無力で、情けなくて。
俯せた身体を熱い大地が受け止めて、スイを宥めるように小刻みに振動する。
「なに?」
女の怪訝そうな声にスイは顎を上げた。突然始まった砂嵐は今も続いており、その上緩やかに大地が鳴動をし始めている。
予測できない自然の動きに戸惑っている女は死にかけているスイのことになど興味がないようだ。
今なら。
スイはちらりと地面に落ちた銃へ目を向ける。
手を伸ばせば届く。
でも伸ばせる腕などスイにはない。
そうだろうか?
ゲンもアウラも治ると明言してくれた。
右腕は動くようになると。
「く、そ……」
アウラが手術して障害は取り除いてくれたし、ゲンは辛抱強く治療してくれた。
後はスイの努力次第。
「う、ごけ」
胸で態勢を変えて腕が動きやすいように移動する。肩に力を入れて、肘を曲げ、手首を動かし、指を伸ばす――。
何故たったそれだけのことができないのだ。
「うごけ、うごけ、うご」
じりじりと消耗していく精神と、無駄に力を入れることで奪われていく体力に疲労感だけが増していく。
今だけでもいいから。
銃を掴んで女を撃つまでの僅かな時間だけでも動いてくれれば、あとは動かない腕を抱えて生きてもいいから。
「おね、が」
人差し指がピクリと動いたのは、ただの反射だろうか。
鈍いながらも五指が関節を軋ませて縮み、手首と肘がカクカクと動いて、肩は痛みを訴えながらもゆっくりと回り出す。
地面を這いながら腕が確実に銃へと近づいて行く。
女は大地の揺れに足を取られながら身を翻し、異能の民が護る方へと歩き去ろうとしていた。
急げ。
姿が見えなくなる前に。
あの女を。
「撃つ!!」
スイの右手が銃把を捕え、しっかりとは言えないまでも握り込む。腕を上げて女の背中に向けて発砲できたのは奇跡。
よろめいた女は驚愕に目を見開きスイを振り返る。
当たったはずの傷痕はどこにもなく、黒い煙が音を立てて立ち昇っているばかりだ。スイは続けて発砲したが、そのどれも女の血を流させるものではない。
「これが、異能力」
確かに化け物染みた力だ。
スイは再び引き金を引いたが、力の入らない身体では無様に地面に倒れるしかない。
それでも何度も起き上がり、撃ち尽くすまで銃を向け続けた。
いつかは終わる。
スイの弾が斬れるのが先か、女の力が及ばぬようになるのが先か。
それまでは諦めないと奥歯を噛み締めて、スイは銃を握り続けた。