エピソード172 雷鳴と銃声
再び訪れることになった総統の住む城は、相変わらず暗い影を負っていた。それは壁が黒い色をしているからなのかどうかは解らないが、威圧的な形状の屋根や昼間だというのに殆どの窓のカーテンが閉じられているからかもしれない。
「……空が曇ってるのも原因かもな」
地下道から出て直ぐに感じたのは曇り始めた空の変化だった。
雷鳴が轟くほどの急な悪天候に眉根を寄せてシオは前を歩く少女の後をついて行く。若干緊張気味の表情をしているが、ヒビキの様子は落ち着いている。
慣れた足取りで地下道から城への道を進みながら、途中で警備兵の気配を覚ると息を潜めた。
「……こっち」
ポケットから地下道へと入る時に使ったものとは別の鍵を取り出し、ヒビキは北の端の古びた扉に駆け寄る。シオが周りを警戒している間に鍵を開けると迷いもなく中へと入っていった。
扉の先には使われていない埃と蜘蛛の巣だらけの廊下で、白い廊下に小さな靴跡が残されていた。同じ大きさのものばかりなので、きっとヒビキ以外は誰も歩いていないのだろう。
そっと足を踏み出すと靴底に埃が張り付いて、その部分だけ黒い床が見えるようになる。
一歩交わすたびにギシギシと音を立てる廊下を通り抜けると、灰色の石が敷かれた広間へと出る。
クリーム色のカーテンが下ろされた両開きのテラス窓。煤だらけの暖炉があり、八人がけのテーブルには人数分の椅子が逆さになって上げられている。上品な照明器具が天井に吊るされ、壁には抽象画が掛けられていた。
絵の良し悪しは解らないが、スイが描く伸び伸びとした絵の方が好きだ。
「シオ?」
押えられた声で名を呼ばれ、どうやら広間を突っ切る途中で目にした絵の前で足を止めてしまっていたらしい。
入口で待っているヒビキに追いつくと、更に長い廊下が伸びており、その両側に濃い茶色の扉が並んでいた。
なんのための部屋なのかは解らないが、結構な間隔を開けて設置されているのだからその広さは言うまでもないだろう。
しかも使用されていないのは明らかで、住む家のない貧しい人間を思えば少しくらい解放してくれてもいいだろうに、と文句のひとつは言いたくなる。
勿論貸してやるといわれたところでいけ好かない総統やカルディアの重鎮ばかりが出入りする城に住みたいと名乗りを挙げる者はいないだろう。
シオとて御免こうむる。
だがこうして人の気配のない建物の中を進むことができるのは正直助かる。多く配備されている警備兵が見回る道や庭を、神経をすり減らしながら移動しなければならないのは酷く消耗するのだ。
しかもヒビキを連れてではヒカリの元へと辿り着くまでに相当時間がかかるだろう。
幾つもの無人の部屋を通り過ぎて漸くヒビキは階段を上った。そこは通って来た他の場所よりも手入れされており、人の気配が僅かに残っている。
階段の手摺や隅にも埃が無く、生活を感じさせる空気が確かに漂っていた。
目を上げるとヒビキは踊り場になった場所へと差し掛かり、折り返した階段の影に入って見えなくなる。あまり離れては危険だとシオは段差を軽々と越えて踊り場を折り返す。
「――――くぅ!!」
鼓膜を震わせて優美な調べが辺りに鳴り響く。天井の高いこの場所は余計に音を反響させて空から降り注ぐ様にシオを打ち据えた。
悪寒が背筋を伝い、指の先まで震える。
こめかみが太い針で刺されているかのような痛みが襲い、目の裏で白い光がチカチカと瞬く。堪えられない吐き気が食道を痙攣させて胃の中のものを嘔吐させた。
急速に下がって行く血の気と、脳が焼けているかのような熱さがシオを激しく動揺させ、冷静な思考を奪っていく。
「――――シオ?どうしたの!?」
手摺を掴んで下りてくるヒビキの声と足音が遠く聞こえた。
池の水を被って臭うはずなのに、身を屈めてのぞき込んで来たヒビキからは清潔な石鹸の匂いがする。
ホタルと同じ香り。
いつだってホタルやアゲハからは清浄さと品の良さを表すかのようにいい香りがしていた。
体臭や汗臭さとは無縁の彼らをシオは穿った見方で捉えていた。
そんな考え方しかしない、腐ったような人間だから臭いのだと己を嘲り貶めて。
「ヒビキ……は、大丈夫なのか」
「なんのことなのか解らないわ?どうしてシオは具合が悪いの?」
「音が」と答えると、ヒビキは耳を澄ませるように左耳を傾ける。
「ヴァイオリンの音が苦手なの?」
「……あの男の、出す音は、特殊な音で――ぐぅ!」
頭が割れそうに痛くなるのだと説明したくても、甲高い音が断続的に掻き鳴らされれば眉間を鈍器で殴られているかのような痛みを受け、シオは力なく膝を着いて蹲るしかない。
耳を必死で塞いで逃れようとしても、痛切な音色を滲ませて少しの隙間からでも容赦なく入り込んで来た。
「……どうすればいいの?どうしたらいいの?」
問いかけに答える余裕などない。
やはりなんの策も無く乗り込んで来たことを後悔し、シオはギリギリと奥歯を噛み締める。
こんなことなら鋭敏な五感など無ければ良かった。
そうすれば平然とした顔でヒカリの前に立ち、堂々と戦うことができたのに。
悔しい。
再び込み上げてきた嘔吐感にシオはぎゅっと目を閉じた。
そっと肩甲骨の辺りに小さな掌が乗せられ、びくりと肩を跳ね上げると宥めるように指が動く。まるでリズムを刻むかのように規則的な速度で叩かれて、知らずうちにシオの意識はヒビキの手の方へと向けられる。
そして始めは微かな声がたどたどしく優しげな旋律をなぞり、徐々に羞恥を超えて澄んだ歌声を披露していく。
涼やかでいて、そして清らかな声はシオの苦しみを取り除いていった。
完璧にとはいかないが、吐き気は治まり、眉間の鈍痛は無くなっている。
「……十分だ」
動けるくらいには回復して、シオはのそりと上体を起こす。
ヒビキが心配そうな視線を注いだまま「もう動いて大丈夫なの?」と聞いてくる。できれば歌ったままでいて欲しいが、それを望むのは無理がある。
「なんでもいいから喋っててくれ。そうすりゃ気が紛れて、少しは気分が良くなる」
「なんでもいいって、」
困惑顔のヒビキを促して階段を上る。会話の主導権を与えられても、そんなに話すこともないのだろう。
眉を下げて考えているが思いつかないようなので「好きなものとか、嫌いなものとか」と話しを振る。
「好きなものは読書とか刺繍。嫌いなものは虫とか」
「……普通好きなもの、嫌いなものって聞かれたら食い物のことかと思うけど」
「え?そっち?」
趣味と苦手なものを挙げられてシオは苦笑いする。確かに受け取る側によって答えが変わるような質問の仕方をしてしまったのはこっちだ。
頬を赤くして戸惑っているヒビキの姿と答えが新鮮で、更に質問を重ねる。
「読書って、なに読んでんだ」
「……なんでも。恋愛、冒険小説、推理ものとか、とびきり恐いものも見るけれど」
三階までの階段を上りきりヒビキは大きく息を吐く。そして廊下へと足を向けながらちらりとシオを振り返る。
「実は一番好きなのは自作の物語を書くことなの」
「は……?」
意外な言葉に目を丸くすると、馬鹿にされたと思ったのか項垂れる。
その横顔が酷く傷ついて見えたので慌てて「いいんじゃないか?」とガラにもなく取り繕う。
「……いつか、私が体験したことを書けるようになったら」
ひとつの扉の前に立ち、深呼吸をして揺れる青い瞳から恐怖を追いだすと少女はノブを掴んで引き開けた。
「それが乗り越えられた証しになると思う」
ヒビキの宣言にシオは首肯して同意し開けられた扉を潜ると、丁度稲光が空を走って部屋を青白く切り取った。
簡易ベッドと丸いテーブルを挟んで向き合うように置かれた布張りの椅子しかない部屋は殺風景だったが、窓際に楽器を手に立つ眉目秀麗な男がいるだけで華やかさが増している。
大きな嵌め殺しの窓の外は真っ暗で、今にも雨が降り出しそうな空をしていた。
「ようこそ。待っていたよ」
綻ぶように微笑んでヒカリは無造作に楽器を持ったままこちらへと向き直る。
待っていたということはシオがここへ来ることを知っていたということだろう。
全てが筒抜けになっていることは面白く無かったが、用件を伝えなくても解っているということは楽でもある。
「……文句言いに来てやった」
「文句ね……。色々と心当たりがありすぎて、どれについての苦情なのか正直解らないよ」
肩を竦めながら楽器を椅子の上に置き、優美な動きで部屋の中央へと歩む。
いちいち芝居がかった動作に苛立ちながらシオは鼻で笑い「お前だけは好きになれない」と吐き捨てると、ヒカリが「その点では意見が同じだ」と頷く。
「まあ君が嫌いなのではなく、君の兄が、なのだけれどね」
なにかを含むような言い方をして視線を窓にやる。
黒い雨雲が城の屋根に届くくらいに低く垂れこめ、不穏な風が硝子をガタガタと揺らした。
「お前と楽しく喋ろうと思って来たんじゃない。因縁を断ち切るために来た」
「……それも望む所なのだけれど、意味のない鍛錬をした所で僕に敵う訳もないのに」
「意味があるか、ないかはやってみなきゃ解んねえだろ?」
小銃を構えて息巻いてみるが、シオのやっていた訓練をヒカリが知っているということに僅かな動揺を覚える。
怪しげな力ゆえの情報網か。
それとも協力者が革命軍の中にいたのか。
どちらにせよ、長居は禁物だろう。
「ヒビキ。やはり君は彼を殺せなかったね」
知っていたよと言わんばかりの顔で目を眇めて、入口で立ち尽くしているヒビキを見つめる。きゅっと唇を引き結んで怯えた表情をしているが、ヒカリの視線を逃げずに受け止めていた。
「……誰かの命を奪うことで願いを叶えてもらおうなんて間違ってる」
「それならば君が死ねばいい。そうすることで願いは叶えられる。永遠に嫌なことなど忘れられる」
甘美な言葉にヒビキはごくりと喉を鳴らして青ざめる。
あのテラスで毒を煽ろうとした時のように死を望むようならば、シオは止めまいと思っていた。
生きるも、死ぬも決めるのはヒビキ自身だ。
この部屋へと入る時に宣言した通り、乗り越えられると信じているから黙って見ていられる。
「違う。本当は死にたくなんかなかったの。でも恐くて……」
涙が大きな青い瞳を濡らすが、零れ落ちることは無かった。
洟を啜ってヒビキは微かに笑う。
「嫌なことも恐い記憶も忘れるのではなく、乗り越えるものだとシオが教えてくれたから。だから私、――――あ、いやっ!!」
途中で悲鳴へと変わったことでシオは変事に気付く。前触れも無くヒビキは額を押えて床に座り込む。嗚咽と悲鳴が混じった声は聞くに堪えないものだった。
なにが起きているのかと手を伸ばしてヒビキの肩に触れると「触らないで!!やめて!!」と滅茶苦茶に腕を振って拒絶される。
身体を縮めて壁まで下がり、すすり泣きながら懇願する姿は憐れを通り越して遣る瀬無さを感じさせた。
「お前、一体何をしたんだ!?」
「なにって……乗り越えられると思っているみたいだから、もう一度同じ体験をしてもらっているだけだ」
人を殺してまでも忘れたいと思っている記憶を引っ張り出して、再度同じ目に合せるとは。
「どれだけ苦しめれば気が済むんだ……」
前向きに進もうと頑張っている人間にこんな仕打ち、普通の人間にはできないだろう。
特別な力を持っているからと、人を無闇に傷つけることは許されない。
例え神が許しても、シオには我慢がならないことだ。
「お前なんか!」
引き金を引く指に力を入れようとしたが、身体が金縛りにあったかのように動かない。どんな時でも思うままに自由に動かせていたものが思い通りにならないことに焦りよりも苛立ちが勝つ。
「糞!クソっ!!」
人を意のままに操ることのできる能力を前になす術もないシオを、美しい男は和やかな表情で眺めている。
そのうすら寒い顔を見ているだけで卒倒しそうだ。
「ヒビキ。もう一度だけチャンスをあげるよ」
優しい声に泣きじゃくっていたヒビキがぴたりと動きを止める。
黙ったままだが、ヒカリの言葉を待っているのは解った。
「彼を殺してくれれば、君を救ってあげる」
「や、めろ。ヒビキ、聞くな!」
シオの声は届いていないのか、ヒビキはじっとして思案している。男が少女のすぐ傍まで歩み寄り、耳元で囁いた。
のろのろと顔を上げてシオを茫洋とした瞳で見つめると、ヒビキは壁に寄り掛かるようにして立ち上がる。一歩、また一歩と進んでシオの背後へと回り、ベルトに挟んでいた拳銃を抜き取るとその銃口を背骨から左側に少しずらして押し当てられた。
「ヒビキ……」
嘆息と共に名を呼んで、シオは天井を仰いで目を閉じた。
雷鳴が響き部屋が震える。
銃口が触れている背中から撃鉄が起こされる音が伝わり、ヒビキの指が引き金を絞る感触すら受け止めて。
終わりか。
雷の落ちる音と銃声が重なって、シオは死を覚悟した。