エピソード171 悪くない
ガツリと重い音を立ててタキの拳は車のボンネットへとめり込んだ。体重を感じさせないアキラの動きは変則的で掴み所が無い。
捉えたと確信した後で空を切る腕や、確かに腹部へと叩きつけられた拳が車体へと吸い込まれていくのだから驚きを通り越して愉快になってくる。
どうやら表情にも出ていたらしい。
「なにを笑っている」
呆れたような声音にもめげずにタキは目元を緩めて更に笑みを深くする。
気紛れな風のようなアキラに翻弄されている自分が客観的に見ても主観的に見てもおかしくて躍らされるまま流されているのも楽しいものだ。
いずれは味わうことができなくなる。
タキかアキラの命が失われることで、永遠に交わることは無くなるのだ。
だが心が浮き立っているのはタキの方だけらしい。憮然とした表情と態度を崩さずにアキラはのらりくらりと攻撃を躱している。
反撃をしないのは圧倒的なまでに有利であるからか。
風を操るアキラの力を使えば、タキの周りにある空気の流れを阻害して簡単に窒息死させることができる。
もしくは風を鋭い刃に変えて遠くへと放つことで遠距離攻撃をすれば、タキはアキラに近づくことができないまま首を斬られて死ぬだろう。
「悪いが、もう暫く俺と付き合ってくれ」
嫌そうな顔をしたアキラが両膝を曲げて、次の瞬間ふわりと空に浮かぶ。黒い髪が靡き、曇り始めた空の色と混じりあって消え入りそうだ。
薄紫の瞳だけは変わらず爛々としているが、色濃い病の気配と顔色の悪さから、そのまま風となり空へと昇って行ってしまいそうな気がして、タキは地を蹴ると車のボンネットに飛び乗った。
そして天井部分に足をかけて伸び上がりながら腕を突き出した。
「痛っ―――」
指を、掌を、そして手首を旋風が襲い細かな傷をつけて行く。
アキラが風を手繰り寄せるように両腕を動かすと、タキの背中を追い風が押して身体が持ち上がる。手足が支えを失い、不安定な体勢のままぐんぐんと上がり、視界一杯に空が覆う。
雨の予感を孕んだ黒い雲が蠢いて、時折稲光を走らせた。
手が、届きそうだ――。
輪郭をなぞるように光りが流れ、風に乗って北東へと進んでいる雨雲はまるで生きているかのようにタキの目の前を通り過ぎていく。
身をくねらせている姿は蛇のように細長く、目指すべき場所があると言わんばかりに無心に空を泳いでいた。
「ふ――――っ!」
突然押し上げていた力が消えてタキは重力に引っ張られる。肺が圧迫されて上手く呼吸ができない。歯を食いしばり、訪れる衝撃に備えて心の準備をしていると思っていたよりも早く、腰に突き上げるような痛みが走った。
次に背骨が軋み、頚骨から頭部にかけて痺れるような圧と力が加わる。
腕と脚がめり込むようにして鉄板に叩きつけられ、目に映る色と音が失われた。ただ聞こえるのは血が血管を流れる音と、喧しいほどの脈拍だけ。
鼻の奥に血の匂いが充満し、口の中にも鉄の味が広がった。あっという間に口内にいっぱいになった血液が口の端から流れ出たが、溢れてくる量の方が多く喉の方へと進入してくる。
このままでは胃も肺も血で埋まってしまう――。
「――――ぐぅ、が、はっ」
気管が震え、異物を吐き出そうと空気が押し出される。タキは必死で咳き込みながら顔を横向けて血反吐を吐き散らし、痛む手足を動かしてなんとか横臥した。
体勢を変えたことで呼吸が楽になり、色も音も戻ってくる。
鼻の下を拭うと赤黒い血がねっとりと手の甲を汚した。頭を上げると温い液体が耳の裏を通り過ぎて鎖骨へと流れ、両腕をついて身を起こそうとすると左腕がぐにゃりと曲がって役に立たない。
「……折れたか」
ふらつく身体の中で無事な部分などどこにもないようだった。それでも右腕だけで起き上がり、べこべこになった車の天井部分に膝を着いてアキラの姿を探す。
「あの高さから落ちて尚動けるとは……正真正銘の化け物だ」
「……丈夫さだけが、取り柄だからな」
賞賛というよりも呆れ果てているかのような言い方だったが、タキは苦笑いを浮かべて右掌に力を集めると、いつものようにサクサクと砂浜を踏む音と感触が蘇った。
白い砂浜にはタキだけ。
轟々と風が吹きすさび、波がうねり飛沫が白く舞う。打ち寄せては退いて行く波の軌跡が黒い色を残して、灼熱の光りを注ぐ太陽にじりじりと焦がされている。
海を眺めるのが好きだった。
荒々しいほどに力強く、愚直に満ち引きを繰り返すその姿にタキは惹かれて憧憬の眼差しを向けていたのだ。
そんな風になりたいと思っていた。
圧倒的な力で弟妹を護り、真っ正直に生きていたいと。
「できないことばかりだったが……」
彼女と出会えた。
あの海で。
初めて見た不思議な力と奇跡的な邂逅。
幸運というには軽すぎて、運命というにはおこがましい。
偶然と奇跡が合わさった、タキにとって忘れがたい一瞬。
「後悔はしていない」
「……君はそういう男だ」
ふっと息を吐き出して笑い、タキの作り出した大剣を見て「大層な代物だな」とアキラは呟く。
でかいばかりか、異様な形の剣だが案外タキは気に入っている。
「これが最後だ」
ゆっくりと腰を上げると激痛が頭の先まで突き抜けた。それでも両足を踏みしめて顔を正面へと向ける。
血は止まらない。
痛みも。
「――――参る!」
跳び上がり、タキは高い堤防へと移動する。ミシリと骨が疼いたが、どこが痛んだのかは定かではない。
アキラも身体の幅ほどしかない堤防の上に着地した。
息を短く吸い、柄を握り締めて左から右へと凪ぐとアキラは上半身を後ろに反らして避ける。それを追うように右足を踏み込んで斜め上から振り下ろすと、左手から風を押し出すようにして軌道を変えられた。
横滑りした刃を強引に引き寄せて喉元を突き上げるが、体を躱されタキの剣は獲物を見失う。
「悪くは無かった」
タキの戦いぶりが、なのか。
それとも今までの付き合いのことを言っているのか。
手首を返して刃を巻き込むように振り切ると、鋸状になっている部分になにかが引っ掛かる感触があった。
腰を捻って腕を抜くと確かな手応えと共に、横手から突風に煽られて足を滑らせる。
再び空中に投げ出された身体はゆっくりと放物線を描きながら、消波ブロックにではなく海の中へと落下して行った。
「アキラは――?」
どうなったのかを知る前にタキは海の腕に抱かれて深く沈む。
白い光が水面に煌めいているのが見える。流れ出ている血が黒く滲みながら海水に消え、疲れ果てた肉体にじわりと水の冷たさを伝えてきた。
そうだ、悪くない――。
精一杯戦って死ぬことも、今までの人生も。
俺は己の人生を生きたのだと自信を持って言えるならそれでいいのだ。
襟元から零れたドックタグが波に揺らめく。タキとシオとスイの名前が入った兄妹の絆と信頼の証。
ゴポリと白い大きな気泡となって最後の空気が出て行く。
その瞬間顎が上がって喉が反り返り、強い波が足元から流れてドックタグが首から外れた。
ああ――――。
孤独が押し寄せてタキは腕を伸ばした。
上へと流されていくドックタグを掴もうと。
それでも身体は水底へと沈んでいく。
タキを巨石へと変えようとするかのように。
ああ――……。
意識が薄れ、小さなドックタグも光りの中に消えて見えなくなる。
あるのは暗い闇と冷たい海水だけ。
タキはそっと金の瞳を閉じて流れに身を任せ、四肢から力を抜いて無になった。
ポタリと落ちた血の色は薄い薔薇色をしていて、熱された白いコンクリートに染み込んでいく。
アキラは右脇腹から胸の中央まで肉が引きちぎられた無残な傷痕を無感動に見下ろして、片膝を着いた状態で暫くじっとしていた。
ずっと選ばれるのはタキだと思っていた。
常に一番ではないと気が済まない、優越感を無限に欲しがるような男にはその権利を与えて欲しくはなかった。
己が選ばれるなどとは微塵も思っていない。
タキという男を知れば知る程、彼女の口から彼の名が出ることを望むようになっていた。
能力を与えられながら彼女と共に歩まないタキは特殊であり、そして自由を許されたただひとりの人間だ。
最初に出会うという栄誉に与り、彼女の愛を受けたタキ。
小さな幸せを掌で大事にしているような男だったから、きっと彼女の恩恵を受けられたのだろう。
「……人は対価を支払った」
水面に浮かび上がってきたタキの首に下がっていたドックタグを見つめてアキラは言祝ぎの言葉を口にする。
「感謝しよう。一番尊き魂を手に入れられたのだから」
人前で彼女は決してタキの名を愛しげに口にはしなかった。
周りに集う人々へ変わらぬ愛を注ぎ、慈しみ、励ました。
人の身には余りある贈り物を授け、世界の浄化と解放を望んだ。
だが。
遠い瞳で昔を懐かしんでいるのは解っていた。
面に出さなければ出さない分だけ、彼女の思いは募っていったのだと思う。
「終わりだ、タキ」
重い腰を上げてアキラは風に傷を晒す。
赤い肉の断面からじわじわと流れ出す薄い血液が音を立てて蒸発する。ささくれ立った細胞や皮膚が音も無く塵となった。
元々死ぬことが決まっていたアキラの時間は漸く終わりを告げ、理の中へと戻ろうとしている。
「もう、寂しくはないだろう」
彼女は一番欲しいものを手に入れられたのだから。
そっと目を閉じ穏やかな気持ちでアキラは風の音に耳を澄ませた。