エピソード169 変化してゆく関係
硝煙が微かに銃口から立ち昇っている。
手首から肘を伝って肩へと走り、身体全体へと発砲の衝撃が行き渡るまでに一呼吸の時間もかかっていない。
びりびりと痺れるような感覚は怯えている己の心を映しているかのようにいつまでも止むことは無かった。
「やはり、お優しい方ですね」
微笑みの向こうから嘲るような声をかけられて、アオイは重くなっていく腕をゆっくりと下ろした。
覚悟を決めて撃ったはずの弾はサロスの身体を損なうことなく通り過ぎ、執務室として用意された部屋の壁へと飛び込んで行った。やはり彼が言うように最後の最後で迷いや恐れを感じてしまったのだろう。
長く傍に仕えて誠心誠意良くしてくれたヒナタを害したサロスを、強い怒りや恨みの念で銃殺できないのだから我ながら情けない。
優しいことは必ずしも正しいことではないのだ。
相手を思えばこそ苦言を呈し、時には反発して強い態度で臨まねばならないのに。
アオイはぶつかることを怖がり、解り合おうとする努力を怠り、自分の意思を明言することや結論を避けてきた。
それは弱さに他ならない。
表向きでは父を討ち、その座を奪うのだと口にしながら結局は誰かがそれを与えてくれるのを待っていたのだ。
優しさや正しさだけでは国を背負うことも、導くこともできないと解っているのに、強くも厳しくもなれないアオイに総統という立場は相応しくないのかもしれない。
無意識で己の保身を得ようとする人間に人はついて来ないだろう。
「私は……甘かったのだな」
認識も決意も。
訳知り顔でいながら、なにも理解していなかったのだ。
「貴方に恨みはありませんが、邪魔者は排除せよとの指示がありましたので」
ずっとアオイを狙っていた銃の引き金が引き絞られる。
「……誰からだ?」
父か、それとも。
サロスは優男然とした顔に愁いの表情を乗せて「聖なる母の悲願成就の為に」と囁いた。
それが答えなのだろうが、聖なる母という単語に当てはまる人物を想像できずに困惑し首を傾げる。
「それは、」
「それは貴方が知らなくてもいいことですよ。アオイ様」
緑の瞳が細められて吐息のような「お別れです」の言葉を口にして、呆気なくサロスの人差し指は引き金を引いた。
それに反応できたのは訓練の賜物でもなく、シオのような反射神経や危険を感知する能力があったからでは無い。
咄嗟に机の下にしゃがみ込み早鐘のように打つ心臓を感じながら、純粋に浮かんだ思いは死にたくないというものだった。
生命本能のみの剥き出しの感情は、恐怖と緊張を糧にどんどんと膨らみ、アオイの中に築き上げてきた理想や偽善の鎧を次々と破壊していく。
荒い呼吸の中でぐるぐると頭の中を巡るのはどうすれば死なずに済むだろうかという問いばかりだ。
必ずしも答えが与えられるわけではないその疑問に、アオイは翻弄されて理性的な考えなどこの場ではなにも役に立たないのだと思い知った。
サロスの靴が絨毯の上を歩む音を必死に耳で追いながら、飛び出すタイミングを胸の内で計る。
銃把を両掌で握り締め、胸の前で抱えている姿は外側から見れば祈っているように見えただろう。
実際にアオイはなにかに懇願していた。
助けてくれと、勇気を与えてくれと。
それが神なのか、それ以外の存在なのかは解らないが、そう念じることで冷静さを取り戻そうとしていたのだろう。
恐い。
死とは一体どういうものだろうか。
与えられる方も、与える方も深く考えずにはいられないことだが、普通に生きていれば軽く受け流してしまいそうな事柄だ。
生きている限り死とは無関係ではいられないのに、人は今を生きることで精一杯で、やがて訪れる死について向き合うことは少ない。
こういう場を経験しなければアオイも真剣には受け止められなかっただろう。
「……なんという、圧倒的な恐怖だろうか」
泣き出しそうな瞳に力を入れてアオイは大きく息を吸い込んだ。入り込んでくる空気は目に見えないのに、肺に満たされていく確かな感覚と呼吸をするという当たり前の機能に生きているという実感を突き付けられて感謝した。
当然のように生を享受してきたが、奪われる立場になって初めて生きていることが特別なことなのだと解る。
それを知ることができただけでも、上々なのかもしれない。
本当は北の国境で死んでいたかもしれないアオイの命は、シオという青年に助けられて今ここにいる。
あの時よりも死はすぐ傍にいた。
切実に死にたくないと願い、その為にはサロスを倒さねばならないのだと奮い立つ自分は、嫌になるくらいに欲深く穢れている。
ヒナタのためには戦えなかったくせに、自分のためにならばサロスの命を奪うことすら厭わないと思えるのだから。
「罪深い……だが、」
息を止めてアオイは床に左膝を着き、右足を胸に引きつけたまま上半身を捻る。腕を真っ直ぐに伸ばして銃口を固定すると、照準内にサロスの制服が掠めたのを確認する前に力一杯握り締めた。
弾けた赤い血潮が目に映り、反響した銃声が耳に届いて漸く着弾したのだと認識できた。
アオイは素早く立ち上がると正気に戻り恐くなってしまう前に、たたらを踏んで右腕を押えているサロスを追い、胸部に狙いをつけて弾を発射させる。
胸に血の花を咲かせたサロスは薄い笑みを浮かべて、上体が大きく傾いでいる中でも果敢に銃を握り締めてアオイへの攻撃を止めなかった。
男の左側へと回り込みながら照準から逃れるが、執拗に追ってくる銃声は背筋を冷たい掌で撫で上げられているような怖さがある。このまま執務室を出て逃げようと入口を目指していたアオイの前に見慣れた護衛隊の制服を着た男の姿が現れた。
扉の前に血だらけで倒れているヒナタを見て僅かに眉を顰め、鋭い視線で室内を見渡したのは常に厳しい言葉でアオイを励ましてくれていた男を認めた途端に緊張が解けるのが解った。
「……カタク、よかった。良い所に、」
呼びかけると何故か口を引き結んだ。性格の現れているキリッとした顔立ちに辛そうな表情を浮かべて、初めて見せるような葛藤に満ちた眼差しがこちらを向いた時アオイは「ああ」と瞠目した。
彼が常々厳しくアオイに接していたのは、この瞬間を迎えた時に心を掻き乱されまいとして距離を置いておきたかったからなのだと気づいて。
親しく付き合い、心を許してしまえば固い決意がぶれてしまわないかと恐れていたのだろう。
一度緩んだ糸は簡単には張り詰めることはできない。
アオイは身体から力が抜けて行くままに、その場で足を止めて立ち尽くす。
「いつから、」
と問いかけてそれは最初からだと気づいて苦笑いする。
カタクは初対面の時からアオイに堅苦しい口調と態度で接していた。護衛隊の仲間とも必要以上に言葉を交わさず、飲みや食事の誘いも断って。
規律を乱さない真面目さはあったが、隊の中で親睦を深めないカタクは浮いており、ヒナタもウツギも頭を悩ませていた。
頑なな部分と、仕事に手を抜かない厳しい性格はアオイには無縁であり、それが酷く美徳に映って見えた。職務に忠実なカタクに秘かに憧れていたからか、少しでも彼のことを知りたいとしつこく付きまとったのはアオイの方だ。
「――――すまなかった」
そのせいで互いの心が張り裂けそうに痛むのだから、こんなことならば心を通わせたりしなければ良かったと悔やまれる。
信頼も信用も最終的には斬り捨てなければならないと知っていたカタクが、懐いてくるアオイに渋々付き合いながらもやがて距離を取って接することが困難になって行くほどに二人は年月を経て仲良くなっていった。
アオイよりもカタクの方が思い悩み、何倍も傷ついている。
そんなことさえも解るくらいに彼を知ってしまった。
「本当に、すまない」
「……謝らないでください。俺のような男に簡単に謝罪は不要ですと何度も申し上げたはず。せめて貴方が他者を思いやらず尊大で嫌な人間ならばよかったのに」
いつものように手厳しい言葉を口にしながらカタクはまるで独り言のような囁き声でホルスターから銃を抜く。
鉄の塊が人の温もりを得て命を刈る凶器へと変わる。
意思のない物質が意志を貫くための手段として生まれ変わるのだ。
「……自分を護れない者に、他者を護ることなどできる訳もない」
ましてや大いなる野望を成就するなど夢物語でしかない。
隣国の英雄は如何にして英雄たる道へと至ったのだろうか。
ただ流されるだけのアオイと違い、マラキア国の英雄アルヒは揺るぎ無い思いを胸に選び進んで行ったのだろう。
迷わずに。
「それは喜んで俺に殺されてくれるという解釈でよろしいですか?」
唸るような声に苦しみが滲む。
この期に及んで尚カタクは尽くしてきた主を前に悩み、苦しんでいる。
「私が死ぬことでこの国や民が救われるのならばいいが……違うのだろう?ならば」
カタクとて救われないのだ。
「私は生きねばならない。いや、生きたいのだ」
死にたくないと素直に口にすると、真面目な男は顔を歪めて目を反らした。
綺麗ごとなどこの場には相応しくなかった。
生きたいと望むのならばやれることはひとつしかない。
「すまない、カタク。今まで、」
ありがとう。
裏切りの苦しみに苛まれてきた長い日々を味あわせてしまったことへと謝罪と、今までの楽しい時間と思い出を与えてくれたことへの感謝。
彼が信じて支えにしてきた深い部分にある誰かに対しての忠誠心とアオイに対しての感情の間で揺れ動き、銃を向けながら躊躇ったまま選べずにいるカタクに、こちらから別れを切り出してやることが最大限の思いやりであると信じて。
恨みも怒りも無い。
あるのはただ悲しみと痛みだけ。
右腕を上げて互いの銃口の狭間で交差する視線は、互いを認めそして永遠の別れを告げる。
二つの銃声が重なり、アオイは重苦しい熱量を腹部に浴びて衝撃に耐えきれず床に倒れた。横たわった景色の向こうで、ヒナタの青白い顔と向かい合う。
のろのろと視線を動かしてカタクの姿を求めると、廊下に立っている男の顔に憐憫に似た感情があるのを見つけた。
そして一筋流れた涙の訳を聞かずとも、それが後悔の涙であり、別れを悲しむ涙であるとアオイには解る。
「カ、タク……」
一語口にするだけで息が苦しい。
握り締めている銃の感触も、流れている血の熱さも。
床に耳をつけているアオイに複数の足音が近づいてくるのが聞こえていた。それが味方のものなのか敵のものなのか解らない。
信じていたカタクやサロスが敵だったのだから、最早判断するのは困難を極める。
視界が滲んで液体が鼻筋を横切っていくのを感じて初めて、自分が泣いているのだと気づく。
死が恐いからではない。
ただ寂しくてアオイは泣いていた。
「来たか……」
床を這って近づいてきたサロスにぐいっと首を掴まれて起こされ、その腕の中に囚われる。後ろから左腕で首を固定され、ぴたりと背中と胸を合わせている状態で右のこめかみに硬い銃が押し当てられた。
その様子にどうやら駆けつけてきたのは味方であるらしい。
安堵するどころか、サロスやカタクがどうなるかを考えるとアオイは痛みに喘ぎながらも身じろいで背後の男へと意識を向けた。
「私を、楯にし……て、逃げろ」
「はあ?」
語尾を跳ね上げた頓狂な言い方は驚愕しているせいか素に近い。
アオイは呼吸を整えながら涙で汚れた顔に微かな笑みを浮かべて廊下に佇むカタクを見つめた。
「全く、どこまで甘いんだ。あんたは」
呆れた声が背中を通じて身体の中へと響いた。
「だけど、逃げるのは無理です。俺の胸を撃ったのはアオイ様でしょうが」
「……そうだ、ったな」
じんわりとサロスの胸から流れる血がアオイの服を濡らしていく。思えば床に手をついて移動しなければならないということは、サロスにはもう立ち上がる力すら残っていないのだ。
「万事……休すだ、な」
胸を撃たれたサロスより腹を撃たれたアオイの方の息が上がってまともに会話できないのは、鍛え方が違うのか気力の違いか。
「本当にカタクが言うように、嫌な御子息であれば良かったのに」
「い、うほど……できた、に、んげんで……は、ない」
寒さが襲い、意識が混濁してくる。
痛みも苦しみも遠退いて、押し寄せてくる暗闇と千切れ乱れた思考がアオイをどこかへと連れて行こうとしていた。
アオイ様――と呼ばれた声はサロスのものか、それともカタクのものか。
ただ落ちる瞬間に聞こえたのは「さようなら」と「ありがとう」だった。
壁越しに聞こえてくるのは騒々しいまでの銃撃音と雄叫びだった。
激しい戦闘だということは見えていなくても気配とその音だけで十分伝わってくる。プノエーは無事に乗り越えられた屋敷の高い壁を見上げて安堵の嘆息を洩らす。
「少尉にまた助けられました」
右隣りでヤトゥが穏やかな笑みで感謝を伝えてくる。
彼以外からも同様の言葉や、視線を注がれて気恥ずかしくなり髪を掻き回して誤魔化した。
「訓練もやっとくものだろ?」
僅かな時間しかない中で互いの腕や身体、あるいは装備を使って高い壁を乗り越えられたのは偏に訓練の賜物である。
兵士ではない彼らに何度もきつい戦闘訓練を課したのは、なにも憎いからでも強くなって欲しかったからでもない。プノエーはただ彼らに過酷な戦闘を生き抜いてもらいたかっただけだ。
本来帰るべき場所へと戻れるように。
途中で命を失わずにすむようにとそれだけを願って。
なかには自分たちは兵ではないと真剣に訓練に取り組まない者たちもいたが、プノエーの号令について来てくれた三十名はみな熱心に励んでいた者たちばかりだった。
そのお陰でまた生き延びることができたのだと身を持って知ることができた彼らなら、きっとこの先も無事に乗り切れるだろう。
「しかし、戦っているのは国軍と」
革命軍ではないことは攻撃されたことから明らかである。
だが襲われた者が護衛隊隊長の屋敷で見たことのある顔ばかりだったと言っていたことと、後ろから襲撃されたことから別の思惑を持った人間が革命軍の中にいるということだろう。
「一体どうなってる?」
屋敷へと戻って事実を確認すべきか、それともこのままシオを探しに行くべきか。
悩んでいるプノエーの背中を押したのは三十名の男たちだった。
「国軍が近くまで来ていることを報せに戻るべきだ」
「シオならひとりでも大丈夫だろう。あいつは必ず戻って来るさ」
「もしかしたら屋敷でも味方の顔した奴らから襲われてるかもしれねえしな」
「だとしたらアオイ様は!?」
「戻ろうぜ!今すぐ」
みんなが危ないと騒ぎ始めた男たちは目の色を変えてそわそわと立ち上がる。始めは同じ国民でありながら片や無理矢理連れてこられた者、片や薄汚いごろつきだと蔑んでいた者の両者の間にいつの間にか仲間意識が芽生えていたのだ。
いがみ合っていたはずの関係が変わっていることにプノエーは歓喜に震えながら大きく深呼吸した。
「……そうだな、シオなら心配ないだろう。今から屋敷へと引き返す。いいか、遅れるなよ!」
「おう」と応じた声は明るく力強い響きに満ちている。
広い庭の奥にある屋敷の窓から突然壁を超えて侵入してきたプノエーたちを窺う怯えた住民の姿を見つけて深く頭を下げた。庭を突っ切って裏門から出られれば、二つに分かれた道の手前に出ることができるだろう。
「行くぞ」
駆けだしたプノエーを追って男たちの足音が続いた。