エピソード166 信じること
汚泥が溜まった水路には新たな水が流れ込むことはないのか、相変わらず地下道には目が痛くなるほどの異臭が立ち込めていた。
ヒビキが用意していた懐中電灯を翳して進みながら、少し距離を置いてついてくる少女の気配を耳で探り僅かな動揺も恐怖もないのを感じてほっと溜息を吐く。
まさかヒビキが連日屋敷を訪れる理由がシオの殺害であるとは思っていなかったが、送り込んだ人物が三の門で会った金髪の男だとしたらあり得る話だった。あの日痛みに苦しんでいるシオを隔壁の上から悠然と見下ろして、口元には微かな笑みを浮かべて愉悦に浸っていたあの男なら。
誰よりもヒカリと言う名の男の能力に過敏に反応し、のた打ち回るシオの様子を見ているのが楽しかったのか。
見た目の美しさとは裏腹に性格の悪さを感じて虫唾が走る。
シオを殺した所で革命軍にたいした打撃を与えることはできないのに、ヒビキにアオイでは無くシオを指名した所が腹立たしい。
きっとヒカリにはシオとヒビキの知られざる関係性が愉快だったのだろう。互いの兄が親しい友人であり、そして隣人であるということが悲劇的で好みだったに違いない。達成するまでにその事実を二人が知ることが無かったとしても、のちに教えられた時の衝撃はとても後味の悪いものだ。
ヒビキが上手く立ち回り、シオを殺せるとヒカリ自身思っていない。
だからこそゲームという言葉を使い、ヒビキが必死に困難な問題や役割を全うして攻略しようと右往左往している姿を高所から見物していたのだ。
「……悪趣味だ」
人を殺してでも消し去りたいような恐ろしい思いをしたヒビキの弱い部分を利用して、クリアできないゲームを退屈しのぎに始めたのだから許せない。
簡単に人を操り、記憶や感情を左右する能力を持つが故に傲慢な考えを持っているヒカリをこれ以上野放しにしていることは我慢がならなかった。
だがその力にどうやって対抗するか全く考えておらず、正面から乗り込んだとしても、また前回同様身体に不調をきたしてしまえば、シオの長所である五感の鋭さも意味を成さない。
「……どうすっかな」
壁に描かれた目印を確認し、そこを曲がりながらぼやく。勝算のない戦いなど正直気は進まないが、ヒビキの動機と心に負った深い傷に腹の虫がおさまらなかった。
ヒカリが精神的、肉体的に追い込んだ張本人だとは思ってはいない。ただそのやり方が気に食わないと言うだけだ。
シオを殺せないと察した時にヒビキは少しの迷いも無く毒を口にして死のうとした。
それだけ“嫌なことを全て忘れさせてくれる”という約束がヒビキの心に希望を与え、殺人を犯すという罪の意識すら乗り越えさせる力となっていたのだ。
叶わないと知り死を選ぶ程に。
「アゲハお兄さまは、その……元気にしていた?」
「元気?」
今までおとなしく口を噤んでいたヒビキだったが、黙っていることが気づまりだったのかおずおずと話しかけてきた。
その内容がアゲハの健康についてだったので首を傾げる。
「アゲハお兄さまとはもう四年ほどお会いしていないから、どうしていらっしゃるかと思って」
肩越しに振り返ると壁に反射した弱々しい灯りに照らされて、澄んだ青い瞳が柔らかく眇められていた。
まるで四年前のアゲハを思い出しているようだ。
ヒビキはそうやって記憶の中の兄をずっと思い返して懐かしんできたのだろう。
「元気……だな。ヒビキが思っているアゲハとは多分変わっちまってるけど」
ふんわりと笑うアゲハの美しさと、感じやすいコバルトブルーの瞳はきっとさほど変わってはいないだろう。だが女性的な雰囲気と言葉づかいは少女の中の兄像を壊してしまいそうではっきりと伝えにくい。
「お節介で、お人好しで、ただの隣人のことを本気で心配するような人間はこの国では珍しくて貴重な人種だ」
どんなに変わってしまったとしてもヒビキの兄であるアゲハは人として誇れる人間だ。
その優しさや清さは誰もが持てるものでは無い。
「それなのにおれは後悔するぞって脅しつけて、関係ないと突き放した」
こんな自分を友達だと言い切り、道を踏み外そうとしているのを放っておけないと叱りまでして。あの頃のシオには煩わしいばかりで真剣にアゲハの言葉を聞こうともしなかった。
「でも結局後悔したのはおれの方だったけどな」
間違っていたのはシオの方だった。
スイと喧嘩した時も間に入ってくれたのに八つ当たりしたようにして部屋を飛び出した。保安部に捕まりそうになった時も「逃げなさい!」と身体を張って逃がそうとまでしてくれた。
あの後でアゲハがどうなったのか知らないし、自分のことで精一杯で心配のひとつもしなかったのだから随分と薄情だ。
「お前の兄貴はいつも正しい。むかつくくらい」
「……アゲハお兄さまがシオにお節介といわれるほど、親しくしていたなんて意外です」
「そりゃおれとアゲハじゃつり合い取れねえもんな」
目を丸くしているヒビキに育ちの違う者同士が仲良くなるとは信じられないと言われ、シオは面白くなくて視線を正面へと戻した。
「違います。そうじゃなくて、アゲハお兄さまは誰とも親しくなろうとはしなかったから。本当に私の知っているお兄さまとは変わってしまったのだなと、嬉しいような寂しいような気がして」
言葉を切った後でヒビキはほんの少し笑ったようだった。
「そんな風に変わったアゲハお兄さまにならお会いしたかったな。折角家を抜け出してお兄さまを探しに統制地区まで行ったのに」
「……どうしてアゲハを探してたんだ?」
四年も会っていない兄を今更どうして探そうと思ったのか。シオは歩を止めてヒビキに身体ごと向き直った。
少女は銀の髪を揺らして俯き、濡れた衣服を気にするような素振りをして答えを先延ばしにしている。言いたくないのではなく、言いにくいのだろう。
「今はおれがお前の兄貴だ。理由次第じゃアゲハの代わりにしてやってもいい」
家を出たまま帰ってこない兄を探し出してまでなにかをしようとしていたのなら、シオが代わりに手を貸してもいいのだ。
「言うだけ言ってみろって」
一瞬瞳を壁側へと反らして唇を引き結び、ヒビキは困惑ごとごくりと唾液を飲み下す。そして不安げに潤んだ瞳を上げきつく結んだ口を開き「それじゃシオも死んでしまうかもしれない」と呟いた。
「はあ?なんだ、それ」
一時間ほど前まではシオを殺そうと思っていた癖に、今度は死んでしまうかもしれないと恐がっている。
訳が分からずに思わず強い口調になるが、ヒビキは動じずに「家族の命も幸せも私が全部喰らい尽くしてしまうから」と答えた。
その顔が冗談を言っているようにも見えなくてシオは面食らって渋面を作る。
今はアゲハを探していた理由を聞いていたはずだが、なにがどうなって話がずれてしまったのか。
「なに言ってんのか、さっぱり解らん」
「解らないの!?私は――私は、母の命と引き換えにこの世に生を受けた、忌まわしき子供なの。だから」
家族を不幸にして死に至らしめるのだと苦しげに眉を寄せてヒビキは訴える。死なせて欲しいと懇願した時よりも思いつめた少女の姿に長く悩み苦しんだのが透けて見えた。
ヒビキが言っているのはシオでさえも知っている眉唾物の迷信だ。
きっと不幸な偶然が重なって、その原因を誰かに押し付けたい人間が強引に理由を作ったに過ぎない。
統制地区では貧しくて栄養が行き届かない妊婦が出産と同時に命を失うことが多い。母親のいない子供などそれこそ掃いて捨てるほどいるが、特別不幸でも幸せでもないのはシオが良く知っている。
そんな迷信を信じているのはカルディアの人間ぐらいなものだろう。
シオはそんなもの信じてはいない。
勿論タキも、スイもだ。
「くだらねえよ」
「……くだらないって、シオは他人事だからそんなことを言えるのだわ」
小さな唇を震わせヒビキは薄暗い中でも解るほど青白い顔をして苛立ちを乗せた視線を向けてきた。
非難に満ちた瞳に晒されてもシオは涼しい顔でそれを受け止める。
「そんなことない。おれだって関係あるからな」
「関係ある?それは私を妹だと思ってくれているから?そんな同情はいらない。シオと私には血の繋がりが無いのだから関係があるわけがないのに!」
「……おれの妹も、母親が命がけで生んだ。ヒビキが言う所の“忌む子”だから」
強張っているヒビキの頬がぴくりと痙攣する。大きな瞳が見開かれまるで空虚な穴のように見えた。
見当違いの怒りに羞恥を感じるよりも、ずっと囚われていた迷信に対しての不信感のほうが大きかったのか感情を失い無表情で固まっている。
「もし“忌むべき子”が家族を不幸にして命を奪う存在だったとしてもおれはスイを恨んだりしないし、憎みもしない」
そんな風に妹を見たことは一度もないし、これからもないだろうと自信を持って言える。口喧しい妹を鬱陶しいと思うことはあっても、笑顔を見ればそれだけで帳消しになるのだから割に合わないと苦笑いした。
「そんな運命なんかにおれは負けたりしない。簡単に不幸にもなってやらないし、死んだりもしてやらない」
不確かな迷信なんかの力に屈するほど弱くもないし、兄妹の絆は脆くも無いのだ。
それを信じることのできなかったヒビキは憐れだった。
「ホタルもアゲハも不幸そうには見えなかったし」
なにか悩んでいるような節はあったが、それに悲観して死にたいと思うほど絶望していなかった。
どちらかといえばそれをどうやって解決しようかと考えているように見えた。
「お前の兄貴たちも乗り越えようとしていた。だから信じていいんだ。それともヒビキの兄貴は運命なんかに負けそうな弱い人間なのか?」
確かに頼りなさそうな容姿をしているし、自分の意思をはっきりと口にするような人種では無い。それでも芯の通った真っ直ぐな男たちだ。
迷いながらも正しい道を見つけ出す。
必ず。
「違うだろ?迷信を作り出すのは人間の心だ。それを打ち消すのは強い意思の力しかないんだから」
ヒビキが信じなくて誰が信じるんだ。
「ああ」と嗚咽が漏れて少女は小さく震えた。呪縛のような思い込みからの解放によろめきながらヒビキは滂沱の涙を流す。
「私は……本当に、愚かだわ」
「くだらないことに時間を長く使ったんだ。これからはもっと有意義なことに時間を使え」
泣いているヒビキを慰めるだけの気の利いたことはなにも言えなかったが、少女は頬を持ち上げてにこりと微笑んだ。
「シオ、お願いがあるの」
目尻から流れる涙を手の甲で擦って拭いながら甘えた声で囁く。
スイはそんな可愛らしい言い方をしたことなどなかったので、全身がむず痒いような心地がする。だがこんな風に妹に頼まれれば簡単に願いを叶えてしまいそうだと嘆息した。
「なんだ?」
「私も運命を乗り越えたい。そのために力を貸して欲しいの」
「……具体的にどうするんだ?」
質問にヒビキは花のような笑顔を浮かべて「まずは利用したことを後悔させる」と乱暴に答えた。そういうことなら協力は惜しまないと首肯して止まっていた脚を動かし始める。
未だ対抗策も良い案も浮かんではいないが、決意だけは固まった。
生き抜くこと。
運命に負けないこと。
そして信じることを。