エピソード164 この国も、この世界も
海の様子がおかしいとの報告を受けたのは正午前のことで、タキは急ぎ足で海軍基地の建屋から出るとそこで待っていたフルゴルの副官と合流して更に水力発電所の方へと向かった。
海軍の基地は内陸の方に窪んだ地形を利用して湾を形成している場所に建てられている。巨大な戦艦が七隻停泊しているが二隻を除いて全てが燃料切れで放置されていた。残りの二隻もタキたちには動かすだけの技術も維持するだけの知識も無いので宝の持ち腐れも良い所だ。
基地の北側に接する部分に広大な敷地を費やして水力発電所がある。そこに働く職員は全てカルディアの下級住民で、戦う術など持たない大人しい人間たちだ。反抗的な態度も見せずに今でも仕事を黙々とこなす姿は好感が持てる。
総裁と参謀長から書簡が送られてきたその日から保安部は門の前に陣取っていた部隊を撤退させており、カルディアの住人である発電所の職員は普通に地下鉄を使って自宅から出勤して来ていた。
国が自治を認める意思があると示され、連合軍もカルディアへの電力の供給だけは止めずにいようと譲歩した形だ。
水力発電所の警備は反乱軍と義勇隊の両方で行っており、時間帯で交代する。今の時間は義勇隊の持ち回りらしく、海の異変にみなが硬い表情でそわそわと落ち着かなげにしていた。
「海の様子がおかしいとは、一体?」
「海水の量が増えたり減ったりしているようだと、発電所の職員から連絡を受けたのですが私にはさっぱり」
生真面目な顔で首を振り門外漢だから説明などできないと濁される。
水力発電所に勤めている者の方がそういった事情に詳しいだろうが、当の職員たちも「こんなことは初めてだ」と困惑顔らしい。
徒歩で海に出るには遠すぎるので敷地に入って直ぐの場所に用意されていた車に乗り込むと、副官自らハンドルを握って走り始める。
「海の満ち引きとは関係ないんだろうが、他になにが考えられる?」
「さあ、私にはなんとも。ただ実際海へフルゴル様が出て確認した所、目に見えて増減しているのが解ると言うので相当な異常現象かと」
常に波が打ち寄せ、動きのある海水の増減が目で見て解る程だというのだからかなりのものだ。
ただ遠い場所から標的を狙って仕留める狙撃手としての素質と技術を持つフルゴルになら、多少の変化でも気付くだけの目を持っているのかもしれないが。
「なにかの前触れか……?」
もしそうなのだとしたら一体なにが起こるというのか。
妙な胸騒ぎと同時に高揚するような期待感が沸き起こる。良い兆候か、それとも悪い兆しだろうか。
「フルゴル様がタキ様ならなにか解るのではないかと」
開け放たれた窓から生臭い海の風が入ってくる。容赦のない太陽の陽射しに焼かれたアスファルトは罅割れてはいないが痛み、所々に大きなくぼみを作っていた。
そこをタイヤが掠めて大きく車体が弾む。
黙ったままのタキに焦れたように副官は「フルゴル様の思い過ごしでしょうか?」と問うてきた。
「…………いや、」
そうとも、違うともとれそうな曖昧な言葉に流石の副官も不快気に眉を寄せる。
ミヅキという炎を操る男と戦っていた時、危ない所を救ってくれたのは彼の上官であるフルゴルだった。その見事な射撃の腕で能力者の胸を撃ち抜くことに成功した。
彼の愛用のライフルには暗闇でも見通すことのできるスコープがついており、危機を察したフルゴルが敵に狙いを定める際にミヅキだけでなくタキの異能力を目撃していたとしていてもおかしくは無い。
口にはせずとも短気で感情を押えられないフルゴルの、物問い質したげな瞳に見つめられるたびに冷や冷やさせられているのだから。
いっそのこと直截に問われた方がこちらも言いやすいのに、彼はタキからの言葉を待っているかのように雄弁な視線を注いでくるばかりだ。
「目で見なければ断言はできない」
「……そうですか」
諦めたように息を吐いた副官はハンドルを右に切り、その先に見えてきた黒い波が打ち寄せる堤防へと速度を上げて近づいて行く。
海へと突き出た防波堤の先に白い灯台が空に向かって屹立している。天辺の黄色い旗が風を孕んで大きく膨らんでは萎みを繰り返しながら翻弄されていた。
「……風が強くないか?」
千切れそうなぐらいに旗が風に嬲られているのを見て危惧したが、副官は「そうですか?」と首を傾げて行き止まりに車を停めた。
ドアを開けて出ようとすると向こう側から風で押さえつけられたかのように重く感じ、体重を乗せて押し開けて降り立つと伸び放題の茶の髪を乱暴に風が乱していく。まるでこれ以上は来るなと言わんばかりの激しさに、タキは戦いの予兆を感じてその場に留まり目をそっと閉じた。
交わした色々な会話のひとつひとつが思い出されて、そのどれもが堅苦しく独特な言い回しをしていたことが酷く懐かしい。
「タキ様?」
フルゴルの元へと迷わず行こうとしていた副官はついて来ないタキに気付いて怪訝そうに名を呼んだ。
「…………先に行っててくれ」
「――ですが、」
「頼む」
切実な思いが届いたのか、副官は「解りました」と発した後で口を引き結び、暫しタキを見つめてから踵を返して歩き出す。
例え勘付かれていたとしても能力を目の前で披露することはできるだけ避けたかった。それに邪魔をされたくなかったというのも正直な思いだ。
「いるんだろう?」
副官の姿が完全に堤防の向こうに消えて見えなくなってからどこへともなく呼びかける。
彼は何処にいてもその名を呼べば応えると言っていた。望めばタキの運命さえも引き受けようと約束までして。
「アキラ」
吹く風に名を乗せて会いたいと願えば再会は叶えられると知っている。
生命力に満ちた強い紫の瞳が宿るのは死の病に憑りつかれた肉体という矛盾。顔色の悪さと痩せて頬がこけていることを覗けば中々の男前なのに、陰鬱そうな喋り方が災いして周りからは浮いてしまう。
「隠れて見てないで出てこい。アキラ」
第一印象は最悪だったのにいつも困難に見舞われるとアキラが現れて力を貸してくれていた。タスクへ出会わせてくれたこと、クラルスの仲間として一緒に戦えたことを感謝はしても後悔はしていない。
ただ敵となることを選んだのはタキの方で、その時にアキラがなにを思ったのかを想像することは難しい。
失望か、それとも裏切りか。
どちらにせよアキラを傷つけた可能性は高い。
思い返せばタキの才能を兄妹以外で初めて認めてくれたのはアキラだった気がする。シオが保安部へと連れて行かれた時は一緒に乗り込んでくれ、落ち込んだタキを叱咤激励してくれたのもアキラだ。
友人というほど親しげで打ち解けた間柄では無かったが、仲間として信頼し合うくらいには絆があった。
「一言謝らせて欲しい」
懇願に風が止み、車の影から滲み出てきたように現れたアキラは、黒い前髪の隙間から紫の瞳を覗かせて薄い唇の端を下げた。
まるで拗ねているような顔にタキは思わず破顔する。
「……なにがおかしい?」
「いや、嬉しいんだ」
久しぶりに見るアキラがちっとも変っていなかったから。
抑揚の少ない低い声と表情の乏しい顔。陰気な印象を与えるが、喋り始めると饒舌な所はギャップがあってタキには物珍しく映っていた。
「謝った所で君が敵であることを止めて、我々の元へと下るわけではないのだろう。ならばなにもかもが無意味だ」
「謝罪は不要か……」
「愚問だ」
「それでも、謝りたい」
車一台分の距離を隔てて向かい合った男の姿を感慨深く眺める。アキラが気まずそうに顔を顰めて目を反らした。
「俺は自分が思っていた以上に、アキラをかけがえのない仲間として見ていたようだ」
「仲間……?」
「だからこうして戦うことになって本当に悪いと思っている。アキラが彼女への思いを変えられないように、俺が求めるものも曲げられないんだ」
互いの信念の元に決裂したのだから仕方がないのだと拳を握る。
「お前がここにいるということは、彼女が来るんだな?ここへ」
「……教える必要も、答える必要も無いだろう」
それこそが明確な答えのようだ。
アキラは意外と嘘がつけない。
「この国も、この世界も渡さない」
必ず護り通すと呟けば、風の行方を追うように視線を空へと向けて「海底の巨石が動いたか」と嬉しそうにアキラは笑った。