エピソード161 忘れるのではなく、乗り越える
いつものように訪問すると門の前には護衛隊副隊長では無く、昨日と同じように不機嫌そうな顔でシオが待っていてくれた。
「……本当に毎日来てんだな」
呆れたような口調と共に踵を返すとさっさとテラスのある方へと歩き出す。景色を見ながら歩くくらいの速度でちゃんとヒビキに合せてくれている。灰色のTシャツにカーキ色のズボンを着て、首には大きくて重そうなヘッドホンをかけていた。
そういえば昨日はしていなかったが、初めて見かけた時はそれをつけていたなと思い出す。
「シオはどんな音楽が好きなのですか?」
純粋な興味だったが、青年は奇妙な顔をしてヒビキを振り返り「はあ?」となにをいきなり言い始めたのかと眉根を寄せる。
「え?だって、ヘッドホン」
「――お前、やっぱり!……いや、なんでもない」
ヒビキが自分の首元を指差してシオの首に下がっているヘッドホンへ視線を向けると、はっと目を瞠った後でなにかを否定するかのように青年は頭を振った。
耳に当てる部分を掌で包んで金の瞳を惑ったように揺らしてシオはゆっくりと嘆息する。
「おれには音楽を聴くような高尚な趣味はねえよ。これは逆。なんの音も聞かないようにするためにつけてんだ」
「音を聞かないようにする?何故なのかお聞きしても?」
「…………音の無い世界でも戦えるように、だ」
まるで特定の人間を思い描いているように瞳を燃え上がらせるシオの横顔を眺めながら、そんな顔をさせる相手に強い嫉妬の念を抱いた。
彼を殺すのは私なのに。
そのシオに闘争心を燃やさせる人間とは一体どんな人物なのか。
「どのような状況でも戦える様にするための、特訓のようなものですか?」
「そんなもんだ」
「……大変なのですね」
戦闘中は予想外のできごとが起こるものなのだろう。どんな時でも対応できるように訓練の一環として取り入れられているのかもしれない。
しかしどんな状況に陥れば音の無い世界で戦うということになるのか、全く以て想像がつかなかった。
「あ、耳に怪我」
答えに辿り着けたのはヒビキに想像力が備わっていたからでは無く、長めの横髪に隠れている耳が風に吹かれた時に偶然見えたからだ。
シオの右耳の端にテープが巻かれており、それは取るに足らない小さな傷にする手当のように簡単なものだったが、耳自体が赤く腫れ上がっており酷く倦んでいるようだった。
これでは耳の中まで腫れて聞こえ辛いのではないだろうか。
普通は耳の中に細菌が入り、軽い炎症を起こしただけでも痛くて眠れなくなるくらいなのにシオは痛みなど感じさせない平然とした顔をしている。
しかもその傷を押さえつけるかのようにヘッドホンをするのだから信じられない。
強い痛み止めでも飲んでいるのだろうか。
「なに見てんだ」
左頬を歪めてシオは横髪を撫でて耳を隠すと僅かに速度を上げて見えてきたテラスへと急ぐ。
「戦闘で耳を怪我したから、音に頼らない戦い方を見出そうと?」
小走りで後を追いながらテラスへと上がり、一足先にテーブルの傍に立っていたシオへ問うと、警戒心を顕にし眼光を鋭くさせてヒビキを睨む。
「……なんでそんなに聞きたがるんだ」
「なんでと言われても、」
知りたいからだと首を傾げたら思い切り顔を顰められた。
逆にそんなに嫌がられるような内容だっただろうかと考えたが、戦争を経験した者が戦時中のことを語りたがらないとも聞いたことがあるのでそんなものかもしれないと無理矢理納得する。
「お前、なにしにここに来てんだ」
唐突ともいえるほどにその言葉はシオの口から吐き出され、予想していなかったヒビキは驚いたもののにこりと微笑んで「アオイ様にお会いできるのをお待ちしております」と返答した。
ヒカリに恐怖を取り除いてもらっていて本当に良かったと秘かに胸を撫で下ろす。
そうでなければ顔色を変えてしまい、幾度かの追及で本当の目的を明かしてしまっていただろう。
「あー……だったな」
どこか落胆に似た表情を浮かべてシオは椅子を指差してさっさと座れと促し、自分の分を手に入れるべく昨日と同じように屋敷の中へと入って行った。
ヒビキは持ってきた小さなバスケットをテーブルの上に乗せてそっと呼吸を整える。いつもは手ぶらで訪ねて来ていたので緊張しなかったが、今日は特別なものを忍ばせていたので気が気では無かった。
門で手荷物を改められるのではないか、又は取り上げられるのではないかと思っていたからだ。
だが誰もヒビキが小さなバスケットを持っていることに気付いていなかったのか、それとも毎日のようにやって来る少女に慣れきってしまっていたのか。咎められもせずに中へと入れたのには少々呆れてしまう。
ウツギに連れられて用意されたテラス席へと招き入れられた時も思ったが、あまりにも警備が甘過ぎる。
革命軍の総大将が滞在しているはずの屋敷に素性をよく調べもせずに、こんなに簡単に危険な人間を入れてしまうのだから。
おかげで助かったが。
ゲームに参加している人間がヒビキの他にもいたら、金の瞳の青年などすぐに見つけ出され殺されてしまっただろう。
容易く攻略できるゲームなどつまらないが、たいした機転も融通も利かないヒビキには丁度いいくらいの難易度なのかもしれない。
それでもヒカリは誉めてくれた。
思っていたよりも早く辿り着いたこと、殺すための方法に毒殺を選んだことを手放しで。
「これはご褒美だ」
甘やかな声で今朝方渡されたのは無味無臭の遅行性の毒。昨夜報告と共にどんな毒が効果的かを相談していたから、夜の間に手配してくれたのだろう。
本当ならば毒を手に入れるまでの行程もゲームの中では大切な手順のひとつだったが、これ以上時間をかけて危ない橋を渡るのは本意では無かったので素直に受け取った。
なんという毒で、どんな死に方をするのか聞かなかったが、口にすれば確実にシオの命を奪うことはできると断言はされたので問題は無い。
ゴトリ――。
椅子が板張りの上に下される音ではっと我に返る。戻って来たシオが未だに立ったままのヒビキを怪訝そうに見ながら座るのを目の端で認めて慌てて座面に尻を落ち着けた。
「びっくりした……」
思わず洩れた声に青年は「ぼうっとしてるからだろ」とつっけんどんに応える。
物思いに耽っていたことを差し引いてもシオが戻ってきて向かい合うように椅子を置くにはヒビキの傍を通る必要があり、すぐ横を人が歩いてテーブルを迂回して移動する間に気付けないとは考えられない。
しかもこれから行うことに少なからず緊張して、神経がぴりぴりとしているのだから。
余程シオは気配を殺すことに長けているのだろう。
油断のならない男だ――改めて認識して、だからこそヒカリは彼を殺して欲しいと願ったのかもしれないとぼんやりと思う。
「失礼致します」
侍女が今日持ってきてくれたのは涼しげに発泡しているソーダ水だった。レモンの輪切りと氷の浮いたグラスの内側にシュワシュワと軽やかな音を立てて泡をつけている。
「ありがとうございます」
礼を伝えるとにこりともせずに会釈だけを返して侍女は颯爽と立ち去った。私は仕事をしているだけですと全身で表している彼女は、余計な愛想を振り撒かないだけヒビキには潔く映る。
自分もそんな風に毅然とした態度でこの屋敷を辞することができるといいなと期待に胸を膨らませた。
「…………飲まないのか?」
いつまでも炭酸がグラスの中で弾けているのを見つめているのに気付いてシオが面倒臭そうに尋ねて来る。ヒビキはゆっくりと視線を上げて正面に座る青年の顔を見つめると口角を上げて微笑んだ。
「今日はいいものを持ってきたのです」
「いいもの?」
なんだそりゃ、と別に期待もしていないような素振りをしているシオの前にバスケットの中から細長い水筒を取り出す。
「白桃烏龍茶です」
上等の茶葉に白桃の香りをつけたもので、すっきりとしていて飲みやすい。香りが甘いので男性は抵抗感があるかもしれないが、味は烏龍茶そのままなので一口飲めば気にはならないだろう。
ヒカリに毒は無味無臭だと言われているが、少しでも違和感なく飲んでもらいたいと考えた末に普通のアイスティーでは無く水出しの白桃烏龍茶にした。
「水出しすることで苦みが抑えられて、香りが引き立つんですよ」
説明しながらコップになる蓋部分に烏龍茶を入れて「はい、どうぞ」と一声添えて差し出す。
シオは受け取る前にじっとコップの中を見つめ、なにやら考え込んでいるかのように黙り込んだ。そしてちらりとヒビキの顔を窺ってから漸く手を伸ばしてきた。
青年の右手の中にすっぽりと収まってしまう小さなコップは、まるでスローモーションのようにもどかしいほどの遅さで口元へと運ばれる。
早く。
お願いだからさっさと済んで欲しい――。
コップの縁に唇が触れ、ぐいっと傾けられて底がヒビキの目に晒される。
「ああ……」
感嘆の声が漏れ、急いで手で口を押えたが、シオの耳には届いていたようで不快気な視線を向けられた。
そして嚥下される前にテラスの床に吐き出された液体にヒビキはさっと青くなる。
「成程な……」
シオはヒビキの前のソーダ水に手を伸ばして口に含むと濯ぐようにして再度床に吐き出す。グラスの中に残っていたものも全て投げ捨てるようにして零して空にしてテーブルの上に戻すと何故か笑みを刻む。
「どうして?こんなこと……ひどい」
落胆に震えながら呟けば「酷い?どっちがだ」と返される。
氷が太陽の熱で溶けて形を変えていくのをじっと見つめて黙っていると、シオの視線はヒビキの横顔に刺さるように注がれていた。
「目的はアオイ様に会うことじゃなく、おれの命か」
何故気づかれたのか解らないが、シオは憶測では無くそうであると断定してきた。アオイの面会では無くシオの殺害が目的であることも、飲み物に毒薬を入れていたことにも勘付かれてしまった。
これからどうするかを必死で考えたがいい案は全く思いつかない。
失敗する可能性を最初から排除していたので、毒殺が叶わなかった時の方法も考えておらず準備もしていなかったことを悔やんで下唇を噛む。
「あの優男ならこんな胸糞悪いやり方するんだろうが……お前も、簡単に引き受けんじゃねえよ。全く」
シオはぐいっと口元を乱暴に拭って忌々しげな言葉を連ねるが、その声音はとても優しかった。不思議に思い顔を向けるとばつが悪そうな表情で頭を掻く。
「なにを約束されたんだ?」
「……約束?」
「おれを殺せたら代わりにお前はなにをもらえる約束をしたんだって聞いてんだよ」
命を狙われたのだからその代償の内容を聞く権利があると主張されてヒビキは戸惑う。死にたいほどの絶望に満ちた記憶を消してもらうためだと言ったら「そんなことで殺されそうになったのか」と激昂されそうだ。
別に怒り狂われることは恐く無いが、他人の命を奪ってまで忘れたいと願った記憶や経験について問われるのは震えが走るほど嫌だった。
そんな屈辱的なことを強要されるくらいなら死んだ方がマシだ。
元々死のうと思っていたのだからそれでも構わない。
そうだ。
シオに殺意がばれたのならゲームは終了。
敗者となったヒビキに残された道は死しかないのだ。
「私の、負け」
認めてしまえば緊張は解けて、疲労感だけが残っていた。ここ数日忘れることができていた苦しみと痛みがぶり返し、今まで以上の強さでヒビキを襲う。
「負けってなんだ?賭けかなんかしてたのか?」
もうどうでもいい。
希望の後の絶望はより深い打撃を与える。
逃げ道を探して見つけたものはシオの為に用意した甘い香りの烏龍茶。銀色の水筒を握って注ぎ口を下にして呷る。大きく口を開けて茶色の液体を飲み下そうとすると、テーブルを蹴飛ばしてシオが近づき素早い動きで水筒を弾き飛ばすと左手で顎を強く掴まれた。
「ん—――!!」
殆どの烏龍茶は顎と胸元を濡らしただけだったが、口内に僅かに入った毒入りの茶を飲もうとするが、それを阻むように鼻を摘ままれて前屈みにされてしまえば息ができずに口は空気を求めて開いてしまう。
「やめ、て――放、して」
苦しくてぼろぼろと涙を零しながらシオの腕を叩いたり、引っ掻いたりして抵抗するが効き目は無いようだった。少量の毒も涎と共に唇の端から零れ落ち、潔く死ぬことすら断たれてしまったことに深く落ち込む。
「来い」
鼻を解放された後で乱暴に腕を掴まれてテラスから降り、柔らかな芝生の上を引きずられるようにして連れて行かれたのは、護衛隊隊長と副隊長が幼い頃泳いで怒られた池の畔だった。
背中を上から強く押され地面に膝をつくと、更に池の水面すれすれまで頭を掴まれ下げさせられる。目の前に少し濁った水と底の方にいた魚が急に影が差したことに驚いて逃げ惑う姿が映し出されヒビキは動揺した。
離れて見ているだけだと綺麗に見えた池の水も至近距離で見ると藻が漂い、小さな虫やごみが浮いている。四日前に降った雨のせいか、ほんの少し生臭く鼻につく。
「シオ――!?」
なにをされるのかと身構えるより早く、左腕を躊躇いも無く池の中へと突っ込んでシオは勢いよくヒビキの顔面に浴びせかけた。
思わず目を瞑り、口を閉じようとしたがその前に水を掬い上げたシオの掌が覆う。顎を掬い上げるように持ち上げられると汚い水が流れ込んできて嫌悪感でいっぱいになる。一滴たりとも飲み込みたくないと喉に力を入れて息を止めていると、すぐに口元から手が離されヒビキは口いっぱいの汚れ水を吐き出した。
「っや!!」
だが次々と掌に水を汲んでは口の中へと流し込まれ、ヒビキはその都度反射のように吐き戻すその行為が、さっきシオがソーダ水で毒を濯ぎ出したものと同じ意味を持っていたのだと気づいたのは、お互いずぶ濡れになり芝生の上でぐったりと座り込んでからだった。
「……………なにも、こんなに汚い池の水でなくても良かったでしょう」
ヒビキの掠れた恨みがましい声にシオは眉を跳ね上げる。
「普通の水じゃお前、吐き出さなかっただろうが」
それじゃ意味ないだろ、と続ける青年の心理はよく解らない。自分を殺そうとした人間を何故助けるのだ。生かしておいてなんらかの情報を聞き出だそうと思っているのかもしれないが、ヒビキにはそれだけの価値などなにもないのに。
ああ、情報を得られるかどうかなど彼にはなにも解らないのか。
ならば仕方がないかもしれない。
「私は、なにも知らないの。ただゲームをしようと持ちかけられただけ。彼らがどんな目的で貴方の命を狙ったのかも、なにをしようとしているのかも知らない。国軍側の情報もなにも持っていないのです」
例え拷問されようとも教えられることはなにひとつないのだと告げると、憐れなものでも見るかのように金の瞳が翳り長い睫毛がそっと伏せられた。
落胆され、更に大きなため息を吐かれたヒビキは申し訳ない気持ちを味わいながらも「本当になにも知らないの」と繰り返すしかなかった。
遮るもののない池の畔で太陽の熱に炙られていると、池の水に濡れた服から饐えた臭いがし始める。改めてわが身を顧みると白と紺のボーダー柄をしたカットソーと膝丈のデニムパンツだけでなく、白いスニーカーさえもびしょ濡れになっていた。
シオの様子も見ると彼もほとんど似たような状態で、灰色のTシャツは色が変わり肌に張り付くほどだ。
「お前のせいでずぶ濡れだ」
舌打ちをしてヘッドホンを取りこちらに背を向け徐にTシャツを脱ぎ捨てると、一纏めにしてぎゅっと搾れば芝生の上に音を立てて水が滴り落ちた。
その骨ばった肩と滑らかな背中のラインにやはり目を奪われ、その途中で肌とは違う真っ白な包帯が巻かれているのに気付く。それすらも計算されたかのようにシオのしなやかで美しい身体を強調するものにしか見えない。
程よく着いた筋肉で引き締まった肉体は羨ましいほど細く長い四肢へと繋がり、シオという力強い形をこの世に作り出している。
「……綺麗」
「また、なに見てんだ!」
目を剥いてシオが照れたように叫び、軽く脱水しただけのTシャツを再び慌てて身に着ける。
「だって、本当に綺麗だから」
隠されてしまった芸術作品を惜しみながら返答すると、怖気が走ると言わんばかりの顔で震え上がり「ふざけんなっ。綺麗とか男が言われて喜ぶか!」と反論してきた。
「それにお前の兄貴の方がよっぽど綺麗な顔してんだろうが」
「――――え?」
思いがけない言葉にヒビキは固まる。
昨日の段階ではヒビキに兄がいるとは知らなかったはずのシオが、今日は兄の顔について語っていることに違和感があった。
ヒビキの容姿は十人並みで、そんなヒビキの兄が整った顔立ちをしていると想像するのは難しい。きっと誰かに兄のことを聞いたのだろうと解釈して「私は残念ながら兄とは似てませんが」と苦く笑った。
「――――そうでもない」
暫しの沈黙の後でシオの口から出た言葉にヒビキは怪訝そうな顔を向けた。なにを適当なことを言っているのかと詰ってやりたい気持ちになっていたが、不思議な色の瞳にじっと見つめられ勢いを削がれてしまう。
「顔は似てねえけど、夢中になったら後先考えねえ所はホタルに、へらへら笑って掴み所のないところはアゲハに似てる」
「な――――!?」
長兄だけでなく次兄の名前まで出されてヒビキの思考は硬直した。まるで二人を知っているかのように語られて、自分の知らない兄の姿を他人の口から聞くことに酷く寂しさを感じた。
まるで家族なのに表面的な部分しか知らなかったのだと教えられているようで腹も立つ。
「そんな、嘘、信じるわけがないでしょう」
統制地区に住む無戸籍者が自分の兄と接点があると思えずに軽く睨むと、シオも眼光を鋭くして「おれだって信じたくねえよ」だがしょうがねえだろと嘆息する。
「大学で水の研究してたホタルが海に落ちたのをおれの兄貴が助けたのが縁で、右隣りに引っ越してきたんだ。それからアゲハが転がり込んできてお節介な隣人が増えた」
「そんなことあるわけない。統制地区にどれくらいの人が住んでいると思っているの?そんな偶然が起こるなんて」
有り得ない。
確かに一時期ホタルは寝食も忘れて研究に没頭しており、海水を調べている最中に海に落ちたことがある。病院に運ばれて大騒ぎになったからよく覚えていた。家へ帰る僅かな時間も惜しんでいた兄は父に頼み込んで独り暮らしをし始めたきっかけになった事件でもある。
嘘をついているにしてはシオの顔は真剣そのもので、ヒビキはそれをどう受け止めていいか解らずに口を噤んだ。
「アオイ様は運命とか、縁だとか言ったが、そんな生易しいもんじゃねえだろ」
ならなんなのかと問い正したい気持ちを堪えて飲み込む。
狭い国土に一千四百万人ほどの人間が生きているというのに、兄を知るだけでなく更に隣人であると述べる男と出会うなどどれ程の確率で起こり得ると言うのか。
しかもアゲハを探そうと統制地区に出向き、誘拐されて心身ともにボロボロになっていた所を反乱軍に救い出され、そこからまた連れ出されて総統の住む城へとやってきて、その男を殺して欲しいと頼まれるという数奇な運命にヒビキは眩暈がした。
「もう、いい。死なせて」
まるで誰かの気紛れに操られているような人生を歩まされて来たかのように思えて脱力する。ヒビキが傷つき穢れてしまったのも誰かの思惑の上だったのではと妄信できれば楽になれるが、どれもが自分で選んで進んで来たのだと解っていた。
「お前おれの話を聞いてなかっただろ?」
呆れたような声に耳を塞いでヒビキは膝を胸に引き寄せる。酷い臭いも、己のみすぼらしい格好もどうでもよかった。
閉じ込められていた場所から広く自由な世界へ出られたことに浮かれていたヒビキは、虫唾が走る嫌な記憶を忘れられるかもしれないと期待に胸を膨らませていた。その方法が誰かの命を奪うことで叶えられるという卑劣なものであることに今更ながら自覚させられる。
結局死にたいと願いながら生に固執している自分の醜さを再確認して打ちひしがれるだけだった。
本当は死にたくない。
それでも穢れた身で、心に闇を抱えて生きていくことは耐えられないのだ。
だからヒカリの言葉に縋った。
「いいからちゃんと聞け」
「いやっ!触らないで!!」
濡れた衣服の上から肩に触れた掌の温もりが、あの時の光景を思い出させる。好色そうな下卑た笑みを張りつけた男の顔。無理やり口づけられた唇の感触、ぬらりとした舌が這い抵抗すれば殴られて。なんの予備知識も持たずに経験した痛みと恐怖は、日ごと繰り返されるたびにヒビキの胸を黒く染め上げて行った。
男だけが喜悦に満ちた顔でヒビキを蹂躙し、暴力に屈してしまう弱い自分に愛想を尽かす。
逃げさせない日々と終わらない凌辱に心は壊れたのだ。
そして染みついた男性への恐怖と嫌悪感はゲームが終わったことが決まった時から徐々に蘇ってきて、今まさにヒビキの心の定位置に戻り艶然と微笑みながら忘れていたことを責め立てる。
「お前――――」
振り払い身を捩って怯えるヒビキを見てシオが顔色を変えた。
驚き不思議がっていたものから、ゆっくりと表情が消えてやがて怒りへと移ろって行き、最後に深い同情を浮かべたのを見て彼がなんとなく事情を察したのだと解る。
「なにを約束されたんだ、あいつに!」
再び強く問われてヒビキは芝の上を尻で後退りしながら首を振った。答えたくない訳では無い。ただ語尾を荒げられた口調が怖かっただけだ。
それだけで逃げ出したくなる。
「あー……悪い。あいつになんて言われたんだ?おれを殺したらヒビキはなにを手に入れられる?」
謝罪して今度は若干優しく問われヒビキはごくりと喉を鳴らす。
くだらない理由だと怒られるのではないかと思うと歯の根が合わずに上手く言葉に出来ない。
「大丈夫だ。責めたりしない」
「……ほん、とに?」
凍りつく舌をなんとか動かして聞くと、シオは首肯してもう一度大丈夫だと答えた。
「嫌なこと、全部……忘れさせて、くれるって」
目尻から枯れ果てたはずの涙がぽろりと流れる。それを見た瞬間傷が痛んだかのように顔を顰めてシオは顔を横向けた。
ヒビキは少しずつ尻をつけたまま後退しながら「ごめんなさい」と謝る。
「怒ってないから謝んな。それに、お前は利用されただけだ」
そうだとしても被害者面してシオを殺そうとしたことを正当化したくは無かった。ゲームという遊びの延長のような軽い言葉が罪の意識を薄れさせるが、相手の意思とは関係なく命を奪うという行為を受け入れた残酷さを考えれば当然ヒビキも犯罪者として扱われるべきだろう。
「ただお前の態度は腹が立つ」
「――――っ」
腹が立っているのならば怒っているのではないか、と息を飲んでヒビキはガクガクと震えはじめた身体を必死で抱き締める。
「嫌なことも恐い記憶も忘れるもんじゃなくて乗り越えるもんだろうが。それを他人の力を借りてやり過ごそうってのが気に食わない」
しかもあんな怪しい奴の力を、と憎悪に満ちた瞳で続ける。その憎しみがヒビキでは無くヒカリへと向けられていると気づけたのは、彼が優しくヒビキの名を呼んだからだ。
「ホタルもアゲハもお前のことを大切な妹だと思ってるよ。あいつらの口から妹がいるなんてこと一度も聞いたことねえけど、赤の他人のおれたちにうざい位世話焼くような人間だ。本当の妹に対しての気持ちならそれこそ底無しだろうしな」
そうだろうか。
父からひとりだけ愛されているヒビキを兄がどんな風に思っているか解らない。
「傍にホタルかアゲハがいればいいがこの状況じゃ無理だろうし……」
仕方ねえな――そう呟いて、シオは立ち上がった。
「互いに身代わりだ。おれはホタルやアゲハの、そしてお前はスイの。本当の兄妹と会えるまではおれが兄貴で、お前がおれの妹だ」
「シオ……?」
一体なにを言い出したのか解らずに戸惑っているとシオはにやりと笑って「んじゃまずは妹を利用しようとした奴に一言文句いいにいってやるか」と歩き出す。慌ててヒビキも立ち上がり、門の方へと進むシオを追う。濡れた靴が滑って歩きづらく、ゆっくり歩いているはずのシオに追いつけない。
シオが門の所で兵に小銃と拳銃を受け取っており、漸く追いついたヒビキを促して敷地内から出て行く。
「本気なの?」
「因縁を断ち切るのにはいい機会だろうしな」
何故か楽しげなシオの後ろをついて行きながら、とんでもない方向へと進みだした運命にヒビキは困惑する。
それでもその道を歩くのがひとりではないことに勇気づけられている自分が確かにいて、これから誰もいない暗い地下道へとシオと共に下りなければならないことに対しての恐怖が少ないことに気づいて驚いた。
忘れるのではなく、乗り越える。
それはとても困難で苦痛を伴うだろう。
でもできそうな気がした。
今なら。
仮初めでもシオが兄として傍に居てくれる今なら、勇気が持てそうな気がした。
不思議な人だ。
地下道へと続く鉄の扉に鍵を差し込んで開けながら、新たな始まりを予感してヒビキの心は震えた。




