エピソード159 嬉しくもない頼みごと
「頼みがあるのだが」
聞いてくれるだろうか?執務机の向こうから上目遣いでこちらを見てくるアオイの紺色の瞳は澄んだ夜空を思わせる。
あまりにも純粋で無垢である彼の目に見つめられ、その頼みを断れる者がいるのだとしたら見てみたい。
嘆息してシオは首にかけたヘッドフォンを弄りながら「厄介な頼みごとじゃないだろうな?」と探りを入れると、アオイは苦笑いしながらきっとシオは喜んで引き受けてくれないだろうと請け負う。
喜ばないと解っている頼みごとを聞いて欲しいと願うアオイの図太さには恐れ入るが、彼が意地悪のつもりで持ちかけている訳では無いことは解る。
なるべくシオに頼りたくないと常々言っているアオイが執務室に呼びつけてまで頭を下げるのだからよっぽどのことなのだろう。
「先日突然副参謀ナノリ殿のご令嬢がここへ私を訪ねて来た。なにやら頼みごとがあるようなのだが罠である可能性も否定できない。なにが目的か解らない以上会うことはできないが、流石に無下にもできない。会ってもらうまでは毎日来ると宣言した通り、その日からずっと来ていてね……」
「迷惑だって断っちまえよ。相変わらず甘い」
甘いというより優しいのだ。
それが命取りになりかねないことを本人も自覚しているからこそ、簡単に会って話を聞こうとはしないのだろうが、妙な令嬢がここへ出入りしているということの危険性をもっと考えて欲しい。
「ナノリ殿に黙って屋敷を抜け出しているから、家には探りを入れないでくれと言うのだ。怪しいだろう?」
「だから、解ってんなら出入り禁止にしろよ!」
バンバンと音を立てて机を叩くがアオイは困ったように小首を傾げる。「それが妙なのだ」と呟いて頬杖をつき城のある方へと視線を向ける。
「ウツギが帰って行くご令嬢の後をつけたんだが、ご実家には戻らずに道を逸れてシオたちが作戦で使用した地下道へと入って行ったらしい」
「はあ!?地下道って、それ、お前」
「まず間違いなく城へと向かったのだろう」
「『向かったのだろう』じゃねえよ!!なに冷静ぶってんだ!明らかに敵の回し者だろうが、その女!!」
「しかもご令嬢、ヒビキ殿はひと月位前から消息不明らしい。そんなご令嬢が私に用とは一体どんな内容なのか」
「どうせ、碌でもねえ用事に決まってんだろうが!!おい、隊長、この緊張感の無い緩みきった感性を鍛え直してやった方が良いぞ!?」
唸りながらも真剣に悩んでいるアオイの様子に驚愕し、警鐘を鳴らすために傍に控えているヒナタへと話しを向けた。だが朗らかな笑顔で受け止められる。
「そんな手厳しい発言ができるのはここではカタクかシオしかいないな。全く以て貴重な存在だ」
「お前もか!!」
どうやら頭が緩んでいるのはアオイだけでは無いらしい。揃いも揃って熟れた果物並みとは呆れて脱力してしまう。
「真剣な所、決めかねているのだ。会うべきかどうか」
「いや、そこは断固として会うな」
そこは全力で拒むべき所だろうと睨みつけるが、アオイは柔らかい微笑みを湛えて顎を左右に振る。
「ナノリ殿の動きが最近らしくないと聞く。中央参謀部に反発するような言動が多くなり、少し前までは総統を非難し諫めようとしていた彼が突如として擁護する側へと回った。これがどういうことか解るか?」
難しい政や駆け引きのことなどシオに解るわけがない。憮然としていると護衛隊長が宥めるように名を呼び説明をしてくれた。
「恐らく副参謀はご令嬢を人質に取られているんだろう」
「人質?でもその女は自由に出歩いて、ここに毎日来てんだろうが?」
「……そのご令嬢が例のトラクレヴォの力で操られているとしたら?」
その令嬢とやらを利用しているのがあの金髪碧眼の美男子だとしたら恐らく可能だろう。ならば余計に屋敷へと招き入れることは危険であり、アオイと合わせるなど問題外である。
なにをそんなに迷うことがあるのか解らずに、シオはゆっくりと頭を振った。
「なら尚更そんな女好きにさせんなよ」
「だが対応しているウツギが言うには操られているような雰囲気は全く感じられないと言うのだ。トルベジーノ殿は操られている者は不都合な会話を振られると会話が成り立たなくなったり、ぼんやりとすることが多いと言っていたのだが、」
そんな素振りは無く、はっきりと意思疎通がとれるらしい。
どう思う?と問われて「解んねえよ!」と怒鳴り返すとアオイとヒナタは何故か破顔する。
「私たちもそうなのだ。だからシオに判断してもらいたい」
「はあ!?」
「操られていないのならここへ来る本当の理由が知りたい。力で無理矢理利用されているのなら」
助けてやりたい。
「どこまでも、お目出度い奴だな……お前は」
苛立ちを込めて吐き出したかったが、口から出てきたのはなんとも弱々しい声だった。どうやら最初の聞いて欲しい頼みというのが、副参謀のご令嬢と顔を会わせて危険かどうかを判断して欲しいというものらしい。
「本当に、嬉しくない頼みごとばっかりしやがる」
「次は善処するよ」
「期待してねえっつうの、もう」
アオイに頼まれるものには碌なものがないのだと肩を落として愚痴るが、結局それを断れない自分がいるのが一番腹立たしい。
「あー……お高く留まってるカルディアの女なんか、誰が好んで引き受けるかっての」
「それは大丈夫だ。ヒビキ殿は大変可愛らしいお嬢さんだという話だから」
「はあ?」
「気取った所の無い素直な十四歳の女の子だ」
「子供……」
思わず呟いた言葉に苦笑したのはヒナタで「お前もまだ、子供の部類だろうに」と腕を叩かれて下唇を突き出してプイと横を向いた。
これはこれで、面倒臭い。
ウツギに代わって門の前で出迎えたシオを少女が困惑した表情で見つめ、直ぐに気を取り直したかのように「ヒビキと申します。どうぞよろしくお願いします」と丁寧に頭を下げて可愛らしく微笑んだ。
そのどこか嬉しそうな笑顔と真っ直ぐな視線を前にどうしていいのか解らず口を噤んで歩き出す。
「あの、ウツギ様はやはりお忙しいのですか?」
白いつばの大きな帽子を飛ばないように押えながら追いかけてくるヒビキが息を乱しながら小走りをしているのに気付いて、自分が相手を気遣わずに歩いていたことに舌打ちした。
小柄な少女の足では普段から歩く速度の速いシオの歩調について来られるわけがない。
でも今更ヒビキに合せて緩めるのも癪で、そのままテラスへと向かった。
「……副隊長の方が良かったのか?」
勿論当然だろう。
仏頂面で出迎えた挙句に客人を敬わないような男より、紳士的で丁寧な対応のできる大人の男の方が良いに決まっている。
「いえ。そんなわけではないのです。あの、お名前を窺っても?」
「…………シオ」
名乗られたのに名乗らなかった無礼を怒りもせずに少女は頬を紅潮させて緩めた。
敵である可能性の高いヒビキに教えたくはないが、名を聞かなかったこと悔やんだ経験が渋々舌に己の名を乗せさせることになる。
「シオ様はその、」
「止めろ!」
声を荒げて振り返るとびくりと身体を竦ませてヒビキの青い瞳が丸く見開かれた。大きな瞳が驚きのままシオの姿を映し出している。半袖の衿付きシャツにアイボリーのキュロットパンツを穿いている少女は令嬢というよりも、統制地区にもいる普通の少女のように見えた。
「………………おれは第八区育ちの人間だ。そんな呼び方虫唾が走る。だから止めろ」
身を返して再び歩き出すが、今度はゆっくりとヒビキがついて来られる速度を維持する。
「それでは私のこともどうかヒビキと呼んでくださいませ」
「はあ!?」
能天気にもそう言い放った令嬢はシオの左隣へと並んで歩きながら花が綻ぶように優しげに笑った。どうにも調子が狂う女だと苦々しげに思いながら燦々と降り注ぐ太陽の光りに輝くテラスへと上がる。
庇の突き出た場所に置かれた丸テーブルと椅子の所まで辿り着くと酷く疲れていた。
用意されていたのはひとり分の椅子だけで、明らかにそれは客人であるヒビキのものである。シオの分の椅子は無いようで、どうやら立ったままで少女の相手をしろということらしい。
「んだよ、それは」
どこまでこの女が偉いのか。
偉いのは役職を持っている父親であり、この暢気な少女では無いのだ。
「ちょっと待ってろ」
言い置いて玄関から中へと入り近くの部屋から椅子を抱えて戻るとヒビキは座らずに立ったまま待っていた。
「あの……ご一緒して下さるのですか?」
「なんでお前が座ってておれだけが立ってなきゃならないんだ。そんな理不尽御免だ」
ドンッと向かいの場所に降ろして不貞腐れたように座ると、ヒビキはくすくすと笑いながら帽子を脱いで上等の椅子にちょこんと腰を下ろす。
「正直私が座っていてウツギ様がずっと立っていらっしゃったから心苦しかったんです。シオが座ってくれてほっとしました」
ふわふわとした柔らかく甘い声が自分の名前を呼んだことに目を剥き、大変居心地の悪い思いをする。
こんな思いをするくらいなら名前なんか教えるんじゃなかったと後悔しても今更遅い。
「……お待たせいたしました」
飲み物を運んできた侍女が勝手に椅子を持ち出して座っているシオを見て顔を一瞬だけ険しくしたが、すぐに平素の表情へと戻しヒビキの前に冷たいレモン水を給仕してさっさと立ち去った。
どうやら飲み物もヒビキの分だけしかないらしい。
「あの、えっと、飲みますか?」
物欲しげに見えたのかもしれないが別に喉が渇いているわけでは無かったので「いらねえよ」と断った。だがなかなか口をつけないヒビキを見てシオは右手で髪を掻き毟ってから青い空を見上げる。
「食いもんも飲みもんも妹に譲るの慣れてんだ。だから気にせず飲め」
常に飢えていた生活の中で手に入った細やかな食料はまず妹であるスイへと与えられた。そして次にシオ、最後にタキが口にする。そうやって生きてきたから空腹には慣れているし、多少の飢餓感には耐えられる自信があった。
革命軍としてアオイについて戦い始めた頃からちゃんと食事にはありつけるし、喉が渇けば水を飲むことは許されている。
それ以上のことを望んではいない。
「子供の飲み物を取り上げるほどおれは落ちぶれちゃいないつもりだ」
「そんなつもりじゃ」
「いいからさっさと飲めよ」
ダウンタウン出身の貧しい生まれだから食べ物に卑しいと思われては自尊心が傷つく。
軽く睨みつけるとヒビキはしょんぼりと肩を落としてストローを回してから口に含んだ。
「…………妹さんがいらっしゃるのですね」
「ああ?あー……」
シオが「まあな」と続けると、大きな瞳に好奇心をいっぱいに満たしてテーブルの向こうから身を乗り出してきた。
「どんな妹さんなのですか?」
「どんなって、」
そういわれてスイの顔を思い浮かべようとして、こうやって妹のことをゆっくりと思い出すのは久しぶりだということに気付く。
不安な時や恐怖に震えた時、孤独で寂しい時に縋るようにドックタグを握り締めていた夜も今ではやらなくなっていた。
いつからだろうか。
傍に心強い仲間がいることを知った頃からか。
「クソ生意気で、口喧しくて、ちっちゃいくせに妙に元気で、明るくて」
喧嘩別れしたままだったのを思い出して胸の奥がチクリと痛んだ。
「……メチャクチャ大事な代わりのきかない奴だよ」
この世界にシオの妹はたったひとりだけだ。
そう思うと堪らなく愛しい存在な気がして、最近忘れたまま平気で生活していたことを詫びたい気持ちになる。
「会いてぇな……」
ぽつりと零れた本音にヒビキが何故か息を飲んで、顔色を失い傷ついたような顔をした。その尋常ではない様子にシオは眉を寄せて「どうした?」と問うと、震える唇を動かしてなんとか笑おうとしているようだった。
「――私にも、兄がいます。だからちょっと羨ましくて。きっとそんな風に私は兄に思われていませんから」
「あー……」
複雑な事情があるのだろう。
土足で踏み込むつもりはないし、聞きたくも無い。だが思いつめたように目を伏せて、笑いを消したヒビキの姿は憐れに見えた。
「どこの兄貴も言わないだけで、ちゃんと思ってるよ」
自分だってスイ本人に向かって直接伝えることは恥ずかしくてできない。ヒビキの兄もまた口にしないだけで大切に思っているに違いないのだ。
「どうでしょうか」
自信なげに呟いたヒビキは徐々に顔を伏せて行く。
「ああ!そんなに気になるなら直接聞け!その兄貴に」
「………………」
黙り込んだまま動かない少女の細い項を見ていると苛々が加速していく。仕方がないので右手を伸ばして銀色の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて「大丈夫だ」と声をかける。
「人間は誰もが代わりのきかない存在だ。だから安心しろ。それだけでお前は誰かの大切な人なんだから」
「…………シオって意外とロマンチストなんですね」
「う、そんなことあるか!」
必死で慰めようとして口走ったことをからかわれてシオは頬を赤らめる。ヒビキが顔を上げていなくて良かったと安堵しながら触り心地の良い髪を撫でながら目を閉じた。