エピソード147 力の差
男のズボンを躊躇いなく鋏で切り裂き脱がせるという行為を平然とできるのはきっとリラが医者であるという矜持を持っているからだろう。
椅子に腰を下ろした状態で薄汚れた天井を見上げてタキはぶるりと震える。
「上着も脱ぎましょうか」
背後から腕が伸びてきてソキウスがそっとモッズコートの襟口を引いて手伝ってくれた。返り血で汚れたコートは助手の手によって壁へとかけられ、裾が黒く炭化している左部分を見つめてぎゅっと奥歯を噛み締める。
リラの荒れた細い手が左膝の上を圧して赤黒く爛れた側面をよく見ようと顔が近づけられた。
「……本当に厄介な男ね。あんたは。私を城から引っ張り出すなんてどれだけ偉いと思っているのか」
毒づくような言葉と共に向けられる非難の目を受けて申し訳なく思うが、今回リラを呼んだのはタキの判断では無い。
彼女はもう随分と地下鉄の中にある、あの診療所から出てきてはいないと聞いている。リラに診療してもらうには危険を冒してわざわざ出向かなくてはならないが、それでも愛想は無いが訪れた患者を見捨てはしない女医者を第六区の人間は頼って生きていた。
“引きこもりのリラ”と名高い彼女を第六区の外れとは言え、診療所から出ることを了承させたフルゴルの副官の手腕は脅威的ともいえる。
「これくらいの傷ならば歩いて来られたでしょうが」
「……悪い」
「仕方がないですよ。今タキさんに戦線から離れられてしまっては士気に係わりますから」
「祭り上げられて調子に乗っているから傷を負うのよ。クラルスの頭首が怪我をすればどうなるか、身を持って学んだでしょうから。次からはこうしてわたしが呼びつけられることが無いようにしてちょうだい」
女医者の辛辣な物言いにソキウスが苦笑いをし、タキは気が緩んでいると指摘されたことを深く反省する。
「タキ様は決して油断していたわけでも驕っていたわけでもありませんよ」
入口に控えていた副官が穏やかな口調で交わされる会話へと介入し、リラから鋭い視線を向けられた。
若くとも人の命を救うことに優れた技術を持つ彼女は住民からの信頼も厚く、それなりに発言権もある。リラに嫌われれば助かる病気や怪我でも治療を受けられなくなるという恐れもあって、強く出る者も反論する者もいない。
敵であるセクスを運び込んでも治療して命を救ってくれた彼女が、ただの好みや個人的な感情で診察を拒否することは考えられないのだが、第六区の住民たちはリラの我儘を許容できるくらいには大切に思われている。
そんな背景など構わない副官は女医の嫌悪の混じった眼差しを笑顔で受け流す。きっとこの調子で無理矢理リラをあの場所から連れ出したのだろう。
「相手が悪かった、といいますか」
なにかを含んだような副官の発言にタキは再び奥歯を噛み締めて俯いた。
あの時。
業を煮やしたフルゴルと副官が消波ブロックを強行突破して第五区へと進軍し、多くの兵士を犠牲にして駆けつけてくれなければ確実にタキは死んでいただろう。
ミヅキの炎の力は凄まじく、全てを焼き尽くさんばかりの熱波は軽やかでふわふわと掴み所がなかった。
手応えが無い。
触れられる水とは違い、質量よりも熱量のみともいえる火の捉え所のなさに戸惑っているうちに押されていた。
赤々と燃え盛る炎の剣は受け止めたはずの曲刀を熱で溶かし、歪み形を変えることでタキの心をもどろどろに変化させていった。
どんな過酷な状況でもタスクと共にこの曲刀は全て切り抜けてきた。
それだけの価値があり、またその曲刀を譲り受けて頭首として立っているという気概と支えによって怯まずに戦場に在り続けることができていたともいえる。
その剣が。
タスクを失った時よりも強い喪失感がタキを襲い、目の前の能力者に対しての憎しみが一気に膨れ上がった。
頭に血が昇った状態というものを初めて経験し、真っ白に染まった頭の中でぐるぐると回る「赦せない」という感情にただただ振り回される。
これ以上タスクの曲刀を壊されてはならないと地面に置き、指を握り込んだ掌に意識を集中した。身体の芯が冷え切っているのに、血は熱く滾っている。大きく脈動するその流れを感じることで、心がゆっくりと静まり研ぎ澄まされて行くのを感じる。
タスクを殺した能力者が体内を巡る血や蓄積された微量の金属物質を使ってその力を使うことができるのならば、タキとて身体を構成する水分で具現化することは可能だろう。
だからこそミヅキは他の能力者から学ぶことは沢山あったはずだとわざわざ助言までしたのだ。
純粋に与えられた能力には優劣はきっとない。
ただそれをどれだけ使いこなせるかによって力の差は歴然とする。
タキは贈られた能力を恐れ、使うことを忌避してきた。
兄妹と共に生きていくには能力を隠し、人として人生を歩まねばならないと思っていたから。
それを今更ながら後悔する。
平穏な日々に終わりが訪れ、力を使い戦わねばならない時が来ると知っていたならば鍛錬を怠るようなことはしなかったのに。
異能の民は来たるべき日を待ちわびて、その牙や爪を研ぐことに邁進してきたはずだ。
そんな相手にタキが敵う訳がない。
それでも。
タキは望む。
その手に刃を。
流れる冷や汗すらも力に変えて、手の中で増幅した水の種は緩やかに形を得る。
地面に着くほどの大剣である両刃の片方は鋸状をしており、切っ先は奇妙にそちら側へと曲がっていた。
透明な刀身には清らかであるのに、その見た目は恐ろしく禍々しい。
いつぞや見たままの姿でタキの剣は現れ、甘く涼やかな香りすら感じられた。
ミヅキがくすりと笑い、思い通りになったことを喜んでいるのか、それとも醜悪な大剣に憐れみを抱いているのか。
細く美しい炎に包まれた剣を捧げ持ち、新たな敵として立った能力者は優美な動作で斬りつけてくる。
打ち合い、ぶつかった途端に水蒸気が上がり辺りの気温と湿度が上昇した。
そして大きく形を揺らがせては体内にある水分を使用して復元をはかるタキの剣。
ミヅキはそれを見て笑みを深くする。
オイルライターの炎という外からの源を使う彼と、己の身を削って出現させているタキとでは負担のかかり方が違う。
そもそも熟練度も違うのだから最初から勝負にはならないだろう。
何度目かの剣戟の後でタキの刃は一瞬消失した。
倦怠感に襲われる身体に鞭を打ち、再び形を結んだ大剣はミヅキの切っ先を僅かに逸らせることしかできなかった。
左腿の上を業火に焼かれ、刃先で以て切り裂かれる。
コートの裾だけでなく炎が脚全体を包み、じわじわと侵食していく痛みと熱にタキは悲鳴を上げた。
恥も外聞も無く道路に転がりのた打ち回り、火を消すことに終始する姿を柔らかく笑んで見つめているミヅキの顔が脳裏に焼き付いた。
第八区で死体を燃やしていた時と同じ匂いがして胸が悪くなる。
生きたまま焼かれるという恐怖と痛みはタキの理性を崩壊させ、激しい絶叫をあげさせた。
意味のある言葉にはならないその声は自分のものとは思えぬほどの荒々しい恨みを籠めた響きを持って第五区に木霊する。
「終幕だ――」
ミヅキが剣を返して地を転がるタキへと近づいてきた。剣先を下に向けて突き下ろそうと腕を持ち上げた、その時だ。
音も無くその凶弾は二人の間に入り込んで来た。
なんだ?と思うよりも早く、ミヅキが大きく身を仰け反らせて転倒する。
「大丈夫ですか?」
銃を構えたまま駆けつけた副官の顔を見て「何故?」と問えば、彼は気の短いフルゴルを止められなかったと苦笑いしタキの怪我の具合を一瞥して眉根を寄せた。
「その男、民間人ではあるまい」
近づいてきたフルゴルはその手にナイトスコープとサイレンサーのついたライフルを持って能力者を気味悪そうに眺める。
スコープを使って狙撃したのならば、離れた場所にいたフルゴルもミヅキの炎で作られた剣を目撃しているはずだ。そして傍に居た副官も暗闇に浮かび上がる炎の剣は見えていただろう。
「止めを――」
ライフルを構え直したフルゴルの気配を感じたか、ミヅキは突然起き上がりライターの力を借りて炎の壁を作り出す。
怯んでいる隙に更に炎は燃え盛り、視界を遮ってなにも見えなくしてしまった。
どこから攻撃が来るかとフルゴルは警戒し、副官が数発炎の向こうへと撃ち込むが音すら飲み込んだ障壁に阻まれて熱で溶けて消えた。
なにかが海へと飛び込む水音がして、炎の壁も瞬時にかき消えた。
逃げられた――。
そして助かった。
その事実に震えるほど安堵している自分がいて、タキは身体の痛みよりも心の傷の方が深いことを改めて意識して沈んだ。
次会い見えた時に勝てる気が全くしない。
リラの治療は容赦がなく、その激痛に現実に引き戻された。
左足全体に及ぶ火傷と、左腿の外側部分に抉られたように残された傷痕。そこから流れる血液とじくじくと体液が染み出る火脹れと患部は見ていて気持ちの良い物では無い。
それでも懸命に処置を施すリラには感謝をしながら、タキは重くなってくる目蓋を必死で押し戻す。
「治療が終わるまでは我慢してください」
タキさんを寝台まで運ぶ力は私には無いのでお願いしますとソキウスに懇願され、能力を使い疲れ切った身体と痛みによる消耗を補おうと欲する睡眠に抗う。
「地下鉄から侵入を試みたフォルティアのみなさんはタキ様が命じた援軍によって無事、第五区へと到達しました。後は我々が海軍基地への攻撃を彼らと共に行いますので、暫くは身体を休めて治療に専念してください」
副官は一礼して部屋を出て行く。
フルゴルの元へと戻るために。
「ありがとう」
その背に感謝の意を告げると、驚いたように振り返り「いいえ。成すべきことをしただけです」と返答して扉は閉められた。




