エピソード143 特別な存在
闇に沈む統制地区を眺めながら執務室で書類の整理に勤しんでいるキョウを思う。兄の裏切りに深く傷ついたはずの彼女が最初は戸惑い憤っていたが、次第にその想いを頑なな鎧で固めて悲壮なまでの無表情で職務に励んでいる姿は見ていて可哀相になるほどだった。
気丈に強がっているが彼女はそんなに強くは無い。
なにかの拍子にぽきりと折れてしまうような危うさがあるのに、キョウはそれを認めようとはしないのだ。
愛に飢えた彼女は赤の他人にそれを求めるのではなく、ただこちらを見て欲しいと健気に父のために頑張り、兄であり唯一弱音を吐き頼れる存在であったホタルへ依存した。
だが父がキョウを見ることも認めることも無く、そして支えであった兄もまた去って行く。
「不運で恵まれない女だな……」
傍で見ていて哀れに思える程彼女は幸せと縁遠い人生を歩んでいる。
その渇望を家族では無く外へと向けることができれば、どんな男もキョウの誘いならば断わらないだろうに。
潔癖な彼女はそれを由とせず、男女間の生々しい関係を嫌悪しているような雰囲気さえ漂わせている。
父からの愛を切望し、兄に期待しながら妹には嫉妬する彼女が酷く人間臭い感情を持て余して更に堕ちて行く姿は甘美な気持ちをリョウに抱かせるくらいには情が移っていた。
簡単には他人に心を許すような女ではないキョウが、最近では常にリョウを探すような素振りさえ見せ始め、安心させるように軽口を叩けば表面上は苦々しい顔をするが嬉しそうに瞳を輝かせているのだから心が疼かない訳がない。
信用という言葉が親愛の情に変わるのにはどれほど時間がかかるのか。
「どうした?浮かない顔をして」
笑いを含んだ声が背後から忍び寄ってくる。振り返るとカルディアの街を背にヒカリが優美に微笑んで立っていた。黒い石で作られたまるで要塞のような城は闇の中で白い光を放ちながらくっきりとその姿を浮き上がらせている。
多くの兵が隔壁や城壁の上を行き、物々しい警備が敷かれているがそれですらも完璧な守護とはいかない。実際に先日革命軍に攻め込まれたのだから推して知るべきである。
「いい加減、面倒な工作は止めにして一気に片を着けたいな~と思ってた所だよ」
回りくどく時間をかけてこの国を陥落させることを望まれたのは偉大なるマザー・メディアだ。みなが心に何故にと疑問を持ったが、彼女は人という生き物の性や動向を知りたいのだと告げた。
そして我々の可能性を見たいのだと。
彼女を信奉し集まった者たちはその想いの真偽を確かめられるための試練であると受け止め、一握りしかいない能力を賜った者たちは更に重責を負い慈悲深い女神の愛を得るために熱心に働かねばならなかった。
だが四年もの歳月は長すぎ、リョウはここで築き上げた生活の基盤やしがらみを面倒だと思いながらも捨てがたいと思っていることを否定できない。
勿論マザー・メディアに対する忠誠心も愛も揺るぎはしないが、それでも傍近くを離れて暮らしてきた日々の中で寂しさを紛らせるために憩いや潤いを求めてしまうのは人の性として備わった基本的能力である。
ヒカリはどうなのだろうか――。
彼が拠点として身を置く場所はあの城の奥深く。この国の最高指導者たる人物である総統カグラの傍らだ。
周りは全てが敵であり最も危険で気の抜けぬ場所にいながら、崩壊寸前の独裁者の椅子に総統を座らせ続けるために日々ヴァイオリンを奏で続けている。
寂しいと、恋しいと思っているのは間違いないだろうが、その想いをどうやって消化しているのかリョウは知らない。
ただ特定の人間と深く関わったという話も、部屋に女を引き入れたという噂も聞かないのだから彼なりの方法でやり過ごしているのだろう。
誰もが見惚れるほどの美貌を持ちながら勿体無い。
「確かにそろそろ限界だろうね」
「カルディアの参謀部にハモンが戻って更にやりにくくなっただろう?」
シモンとハモンの兄妹が初めた賭けに、ホタルという第三者が介入したことでまた面倒臭い図式になってきている気がする。
「そうでもないよ」
だが軽やかに笑い声を弾ませてヒカリは肩越しに振り返って城を見つめる。
ヒカリの正体に勘付いているハモンが城の中枢にいることで、自在に総統を操るという本来の目的に支障がではしないかと懸念していたがどうやらそうでもないらしい。
「ぼくがその気になれば彼だけでなくカルディアの人間すら全て操れる。心配ご無用だよ」
「……それはそれは。優秀なヒカリの心配なんてするもんじゃないってことか」
「アキラがこっちへ来たこともぼくには有利だね。それに、」
意地の悪い微笑みを浮かべてヒカリは「彼が持ってきた手土産は利用価値がかなり高いから」と囁く。
反乱軍クラルスの頭首にタキを据え、こちら側へと引き込もうとしていたアキラの策は思っていた方向へとは流れずに、彼は海の加護と愛を受けながら拒絶を示した。その結果タキと対立することになりクラルスにいられなくなった侘びとして、アキラはそこに保護されていた副参謀ナノリの愛娘ヒビキを連れてヒカリの下へと頭を下げてきた。
責めずにその謝罪を受け入れたヒカリが、憐れな少女を使ってカルディアの民に恐れられているナノリを御そうとしている。
煩い連中を黙らせることができ、そして反旗を翻して攻め込んでいる総統の子息であるアオイ率いる革命軍を討ち倒せれば当座は凌げるはずだ。
「もう、いやというほど人の愚かさを見たに違いない。これ以上の憐れみや慈悲をかける必要はないのだと母も理解しただろう」
ふわりと幸せそうに微笑むヒカリはここの所ずっと機嫌がいい。
きっとマザー・メディアの特別な存在であったタキが彼女に対しての反逆の意思を示したからだ。
これで彼女の愛と眼差しを独り占めできると安堵し、喜んでいるのだろう。
「頃合いを見てこちらへ御渡りになられるようにお願いしてみよう」
「……長かったな」
待ち遠しかった終わりが訪れることを思い嘆息するとヒカリが「まだだよ」と警告する。
「その前に邪魔な者は全て排除しておかなければ。そして愛情深き母の玉座の用意を」
左胸に手を添えて彼は岬のある方へと熱い視線を送った。
彼の能力があれば人々の心を容易く奪うことも、惑わせることも可能だ。そして風を操る力を持つアキラの能力と合わせればその調べはどこまでも流れて行きこの国にいる全ての者たちの耳から入り込み、脳へと意識を侵入させることができる。
ヒカリが言うようにアキラが統制地区から手を引き、カルディアへと来たことはこれから成すべきことを思えば大変心強いだろう。
「……いまいちなにを考えているのか解り辛いけどな」
それでも仲間であり、そして彼女に気に入られた能力持ちである。
「本来風とは気紛れな物だからね。ぼくは気にしていないよ」
リョウは彼の堅苦しい物言いや仏頂面が苦手だ。そして今にも死にそうな風体をしていながら、きびきびと精力的に動き回る機動力の高さに得体の知れない思いがする。
それすら構わないと許すヒカリの感性も理解ができないが。
「リョウ、きみが本気で彼女を連れて行きたいと思っているのならば、ぼくは止めはしないよ」
むしろ応援しても良いとまで続けてその美しい碧色の瞳を優しげに眇めてこちらを見つめてくる。
“彼女”が誰を指しているのか直ぐに察知できるほど心はキョウを求めているのか。
「きっと……彼女はおれの手を取らないだろう」
共に行こうと誘って断られるくらいならば諦めた方がましだ。
この国がマザー・メディアのものとなり、彼女の足元に平伏さぬ者たちは全て排除されるその時に、リョウがせめて苦しまないで済むように天へと還してやろう。
それがキョウにしてやれる最後の仕事だ。
「やる前から諦めているようでは叶わないだろうね。でも、」
「なんだよ?」
妙な所で言葉を切ったヒカリを睨むながら先を促す。
吐息のような笑い声をたてたヒカリの唇の隙間から白い息が零れて大気に滲んだ。
「彼女は随分きみに心を許しているようだから、強く望めば愛を注がれたいと待っている女性を幸せにしてあげられるのではないのかな?」
身も凍りそうな屋上で長時間居座っても良いことは無い。
早々にヒカリは身を翻して頑丈な鉄の扉へと歩いて行く。音も無く扉が開き、また無音のまま閉じられるのを見送り「本当に……」とリョウは眉を寄せて苦しく呻いた。
信頼が愛情へと変わることはあるのだろうか。
そしてそれはどれほどの月日や時間がかかる?
胸を焦がすような熱情が冷えた身体を温めてくれることは無い。両掌を広げて見下ろし、この手で彼女を幸せにすることは可能なのかと自らに問う。
難しかろうと嘆息し、リョウは指を掌に握り込んで目を閉じた。
このままの距離で、このままの関係が一番いいのだと答えを出してヒカリが出て行った扉へと歩み寄り、重く軋む鉄扉を開けて中へと入った。