エピソード138 裏切り者のプライド
「子供はできたか?」
「アラタとは仲良くしてるんだろう?」
「次代の首領の顔が早く見たいもんだ」
そう言って交わされる言葉のひとつひとつがどれほどセリを苛んでいるか彼らはちっとも解っていなかった。首領の妻として望まれていることの一番重きを置かれている勤めが子供を授かることだと十分に理解している。
セリとてそれを強く望み、この手に愛しいアラタの子を抱く日を心待ちにしていたのだから。
「子供は可愛いわよ」
「寝顔を見ているだけで幸せな気持ちになれるんだから」
「うちの子は手がかかって困るけど、できの悪い子ほど可愛いって本当よね」
出産を終えた彼女たちの家に家事を手伝いに行けば必ずそう言って子供自慢をされた。時々は言うことを聞かない子供の愚痴を聞かされることはあっても、それすら幸福であると表情は雄弁に語っていた。
異能の民との戦闘で忙しく、自治区を不在にすることも多いアラタの代わりにセリは住民のため甲斐甲斐しく世話を焼く。話を聞き、要望を吸い上げて会議を開くこともあった。
自治区には元々の住民の他に移民として他国の人間が移り住んできている。彼らと住民との間に起こる諍いや擦れ違いを間に入って仲を取り持ち、誤解を解くことも仕事のひとつだった。
住民たちは総じて明るく、前向きな人間だ。
親切と言えば響きはいいが、結局は余計なお節介や詮索好きなだけである。
自治区の外からくる人間には警戒心を抱くが、町に暮らす住民の数はそう多くは無く全員が顔見知りである気安さからか歯に衣着せぬことが往々としてあった。
解っている。
彼らが心配し、善意から言ってくれていることは。
解ってはいてもまるで責められているようで、セリの身体に問題があるという引け目や負い目が更に心を蝕んで行く。
自治区の女の中にも妊娠できない者や中々子供のできない者もいたが、それでも少数であり子供の産めない女に住民たちは憐みの目を向け、言葉では無く態度で役立たずだと糾弾する。
もしセリに生殖機能が無いことがバレたらと思うと恐ろしくて堪らなくなる。
一生アラタの子供を授かることは無い。
信じたくは無いがそれが事実であり、決して覆されることのない真実だった。
三ヶ月に一度訪れる調査団の医療団に相談し調べてもらったのだから間違いない。子供ができない身体なのだと知った時、底の無い穴の中に落ちたような気がした。
感じたこともない絶望と、どこに向けたらいいのか解らない怒りを持て余して思ったことは「アラタに知られたら、離縁される」という恐怖だった。
それでも首領の妻として子供を産めない女は不適応者であり、次の首領がいなければ自治区がどうなるか解らぬほど愚かな女ではないし、アラタの愛を失いたくないが為に間違いを犯す馬鹿な女になりたくは無かった。
涙ながらに告白し離縁を望めば彼はそっと抱き締めてくれ、己も身体に問題があるのだと懺悔した。
互いの身体に理由があったのが解り、アラタの代で世襲による首領は失われるのだと覚悟した。
そう、諦めたはずなのに。
アラタは真実を住民たちに報せずに秘して黙し、そのせいで彼らに子供はまだかとセリはせっつかれた。
代々血を繋いで来た首領の側に不備があるとは露とも思わずに、問題があるのならセリの方にあるのではないかと直接的な言葉を向けられたこともあった。
アラタが口にしない真実をセリが言えるわけも無く、ただ曖昧に笑って誤魔化すので精一杯。
住民たちに接している時間が多いのはセリの方で、その分彼らの探るような言葉や視線に晒される。日々繰り返される些細な言動がどれほど苦痛だったかきっとアラタには解るまい。
そして自治区の人間たちにも。
悪意のないはずの言葉が静かに澱のように沈み、セリの心を徐々に腐らせ鈍らせていった。
誰の言葉が決定的な闇を胸の内に引き込むことになったかを知ることはできない。それほどまでに日常的であったし、自治区の人間全ての言動がセリを追い込んだのだから。
表面的には笑顔で会話しやらねばならないことに邁進したが、心の中では常に毒を吐き聞くに堪えない暴言が嵐のように渦巻いていた。
そんな自分が死にたくなるほど嫌だったが、悪気が無ければなにをしてもいいのかと思えば更に憎しみが増したのは確かだ。
アラタが町にいる間はいい。
彼は優しく、互いの秘密を知る者同士セリを思いやり愛してくれた。
だがそれ以上に首領の後継者をどうするか、ということについては消極的で現実から目を反らしているように見えて不満は募った。
子供ができず非難されるのはセリのみで不公平だと感じ、そこでまた嫌な自分を見つけて苦しむ。
結局セリには逃げ道もなく、本当の意味での理解者もいなかった。
そうして疲れ果てて。
近づいてきた女の言葉に耳を疑ったのだ。
「貴女の悩みを取り除き、望みのものを手に入れる機会をあげてもいい」
彼女はそう言ってセリのあかぎれだらけの手を取り、目の前であっという間に治して見せた。初めて見る異能の力に驚き、そしてその素晴らしさに震えるほど感動した。
それだけの力があるのならセリの身体の問題を取り除くことは可能だろう。
諦められずにいた自分の子供を産む夢を叶えられるとちらつかされて一旦は断ったが、止むことなく続く日常的な言葉の責苦に耐えかねて女の力に縋りついた。
異能の民となることを誓ったセリに彼女が求めたことは意外にも少なく、その日が来るまで潜伏して自治区の人間の信頼を得ろということだけだった。だから今まで以上に住民に尽くし、嫌な仕事を率先して引き受けた。
そうすればするほど彼らの思いは強くなり、更にセリの心を真っ黒に染め上げる。
住民を憎み、子のいる女たちを恨んだ。
彼らを裏切り、命を奪うことすら些末な事のような気がして。
「だから後悔してないわ」
罪を犯したことは認めるが、そのことで良心の呵責に苦しんではいないとはっきりと答えれば、目の前に膝を着いて視線を合わせている美しい顔をした男が「セリさん」と困ったように名を呼んだ。
突然汚染地区の中心に行きたいと言って調査団と出て行き久しぶりに会ったアゲハは痩せて少し顔色が悪く見えた。
銀糸のようだった髪も鮮やかさがなく薄汚れた灰色のようで、内側から輝いているようだった肌もくすんでいる。ただ澄んだコバルトブルーの瞳だけは相変わらずで、二粒の宝石のようにセリを優しく見つめていた。
「ところでアゲハは前に進むためのなにかを見つけられたの?」
彼が汚染地区へと行くために挙げた理由を思い出して問えばゆっくりと頭を振る。
どうしてもいかなくてはならないのだと思いつめた顔で出て行ったくせに、なにも見つけられないまま戻って来たとは。
「随分無駄な時間を使っちゃったわね」
嫌みな言い方にアゲハが微苦笑して小さく頷く。
「本当にそう思います。あの場所で教えられたことは全部子供の頃から学ぶべきものばかりだったから」
自分は人生の殆どを無駄に過ごしてきたことになると自嘲気味に呟いた。
見つけられなかったという割には、どこかすっきりしたような顔をアゲハはしている。はっきりとした答えを得ることはできなかったが、なにか大切なものを知ることはできたのだろうとうっすらと感じた。
「セリさん。お願いですから自治区を出て、調査団と一緒にコルム国へと逃げて下さい」
再度の頼みにセリは歪んだ笑みを浮かべて「嫌よ。逃げない」と拒む。
どうやって裏切り者を監禁する小屋へと近づいたのかは解らないが、アゲハはするりと入口から入って来た。そして捕らわれている二十八人に向かってコルム国への亡命を勧めたのだ。
馬鹿なことを。
国外へと逃げるつもりならば最初から裏切ったりはしないし、そもそも異能の民に身を落とすこともしない。
ここにいる全ての人間は銃殺されることを覚悟していたし、今更逃げ道を示されたところに飛びつけば決意も覚悟もそれだけのものだったのかと思われることも面白くは無かった。
裏切り者には裏切り者のプライドがある。
「コルム国へ行けば子供が産めるようになるかもしれないんですよ?」
「そんなこと、」
アラタの子でなければ意味がないのだ。
だがもうアラタの愛がセリに向けられることは無い。
子を欲しいが為に異能の民になったのに、そのせいで彼の気持ちを失ってしまったのだから我ながら呆れる。
そもそもこうなることは解っていた。
ただ踏ん切りをつけられるような明確な切っ掛けが欲しかったのだ。
子供を諦めることを。
首領の妻としての立場から降りることを。
自分ではできないから、異能の民へと堕ちることで終わりにしたかっただけ。
「私はみんなが憎くて堪らなかったから異能の民になったのよ。自治区が無くなればアラタも首領を辞められる。彼はやっと自由になれるから」
「異能の民は人の弱みに付け込む汚い方法でセリさんたちを利用した。私はそれが許せない。信じていた人に裏切られることほど辛いことは無いし、信じてくれている人を裏切ることも同じくらい苦しいはずでしょう?」
同意を得ようとアゲハは小屋にいる二十八人の罪人を見渡して問う。半数が俯き、半数が顔を毅然と上げてそれを受け止めた。
勿論セリは後者だ。
「死ぬことで楽になれると思っているのならそれは間違いです」
嘆息後にきっぱりと言い切った言葉には少なからず実感が伴っていたように感じた。
「人を殺めたことに対する罰が死刑ではとても釣り合わない。それも後悔していないのなら尚更意味がない罰だと思います。自分が犯した罪を見つめて、正しく理解した上で反省し、生きていきながら罪を背負い、罰を課すことが相応しい」
自治区の人間では無いアゲハにいくら罪や罰について論じられたところで痛くも痒くもないが、だからこそ一般論を述べられているのかもしれないと思わされる。
セリたちは自治区から出たことが無い。
全ては首領を中心に住民たちの意見で物事は決まる。ここにはここの決まりや正しさの基準があり、それ以外の方法があることなど考えたことすらなかったと苦く思う。
「だから安易に死なせたくないんです。コルム国へと行きどれほど愚かなことをしたのか認めた上で、なにができるか自分で考えて来てください」
「自治区の住人では無いアゲハに私たちを裁く権利はないわ。首領が銃殺を命じたのなら、私たちはそれを受け入れる」
まるで決定事項のように告げられた言葉に腹が立ち、セリは断固として拒絶を示したが不思議そうな顔でアゲハが首を傾げる。
「セリさんたちはもう自治区の人間では無く異能の民でしょう?どうして首領の意思を尊重する必要があるのか解らないんですが」
「――――!!」
自分たちは異能の民である前に自治区の人間なのだと、恥ずかしげも無く言えるわけがない。
自分たちは裏切り者で。
住民たちは二度と受け入れてはくれないのに。
「さあ、急いでください」
アゲハはひとりひとりの拘束を解きながら促すが、誰も立ち上がろうとしないことに苦笑いして見せた。
「これ以上アラタさんを苦しめるようなことはしないでください」
「アゲハ――」
「自治区が無くなってもアラタさんは自由にはなれないと思います。それどころか守れなかったこと、セリさんたちの思いを汲んであげられなかったことを悔やんで責めるはず」
改めて口にされずとも解っている。
セリはアラタの妻だったのだ。
彼の性格は知っている。
「彼が苦しみ悩んで銃殺を選ばざるを得なかったことに関して、みなさんは責任を取るべきだと思います。少しでも首領の気持ちが軽くなるように、今できることはなんですか?」
質問に戸惑い男たちは互いに顔を見合わせた。顔を伏せていた半数の者たちがゆっくりと立ち上がる。
「私はみなさんよりも大きな罪を祖先から引き継いでいます。だからこそここで見て見ぬふりは出来なかったんです。私も今自分のすべきことを探している途中で。だから偉そうなことは言えないんですけど」
生まれ持った性質はみな悪では無く善であるから。
「必ずやり直せます。限りある人生を精一杯生きて、自分にしかできないことをしてください」
生きて罪を償えと。
背中を押されて出て行く半数の男たちを見送り、セリは唇を噛み締める。
「セリさんはもう大きな代償を払っていると思います。アラタさんを失い、帰る場所を永遠に失うんですから」
「いいの、それは望んで捨てたんだから」
もう放っておいて。
早く苦しみから解放されたい。
「私は欲張りだからスイちゃんもセリさんもアラタさんにも幸せになって欲しいんです。その為にはセリさんに死なれては困るから」
お願い。
「アラタさんのために、そしてスイちゃんのために……ここでは死なないでください。本当に苦しくて、どうしようもなくて死を選ぶのなら私は止めません。でも、ここでは死なないで欲しい」
どこか別の場所でと懇願されてセリは微笑んだ。
「解ったわ」
「……ありがとうございます。でも私はセリさんに生きていて欲しいと思っていることを忘れないでください。それはアラタさんもスイちゃんも同じ気持ちでいるから」
その言葉を敢えて胸に留めずに消し去る。
セリの命は他者に惜しまれる命などではない。本当はアラタの命令で自治区の人間の手によって壮絶な死を欲していたが、さすがに彼らの負担を思えば申し訳ない気もした。
だから暫くの我慢。
それくらいは問題ないと顔を上げてセリは立ち上がった。