エピソード125 海より来たりし男
「動くな!!」
勢いよく扉が開かれ、そこから基地の兵士たちが銃声を聞きつけて十数人一斉に入って来た。訓練された動きには無駄がなく、彼らは拳銃を構えて狙いをつける。
囲まれて沢山の銃口を向けられるという初めての経験にホタルは震え上がった。蒼白になり数歩後退し、背後にいたセクスに庇われた所で「どうして……」と呟く。
「恐らく察知されていたのでしょう」
元々ハモンが全権を譲らなければ射殺する予定だったので、少しずつ基地の兵にセクスに忠実な者を差し入れてその時に備えていたのだが、こうしてまんまと包囲されてしまった。
ハモンに悟られぬように慎重に動いていたつもりだが、全てあの男には筒抜けだったらしい。
「でも、それならば何故僕たちをここへと招き入れる前に拘束しなかったんだ……?」
ちらりと足元に倒れている黒い制服に身を包んだ美貌の男の死体を見下ろす。じわじわと染みを作る血だまりと、焼け焦げた額から見える赤黒いものも生々しい死を体現しており背筋が凍る。
「殺される前に動くべきだったのに、何故?」
邪魔が入らなかったのは潜ませていた兵たちが上手く動いてくれていたのだと思っていた。だからこうして逃げ場を奪われ、今にも火を噴きそうな銃口を前に浮かぶのは様々な疑問だけだ。
「……きっとなんらかの思惑があったのでしょう。私には参謀部の人間が考えることなど解りかねますが」
悠長に会話をしている場合ではないと思うが、兵たちが引き金を引いてホタルたちに引導を渡す気配は今の所感じられない。
確かにセクスが言う通りハモンがホタルたちの行動を予見していながら、敢えて銃弾に倒れたというのならなんらかの思惑があったのだろう。
甘いホタルには殺せないと思っていのか?
だがセクスと共に来たことは知っていたはずで、ホタルにはできなくとも軍人であるセクスがハモンの命を奪うことを躊躇うとは思っていないはず。
ならばハモンは“死”を望んでいたというのか――?
自分以外を低俗だと断じ民を愚民と呼ぶ男が死を切望するほど、この世界に絶望していたとは思えない。
そんな殊勝な男では無いはずだ。
「なにが、目的だったんだ……?」
ハモンに低俗の域を出ないといわれた頭を悩ませた所で一向に正解は見いだせない。本当になにを考えていたのか最後まで解らない男だった。
「うがぁあ!?」
突然入口側に立っていた男が奇声を上げたかと思うと、ぐにゃりと脱力して床に倒れ伏した。完全に力の抜けた四肢はそれぞれが違う方向へと曲がり、横を向いた顔は鬱血したかのように赤黒くなっている。だらりと口から舌を出し、白目を剥いている兵が生きているとはとても思えない。
「なっ――!?」
動揺しているのはホタルだけでは無く、部屋にいる者全てが状況を把握できずに困惑と驚愕で固まっていた。
視線はみんな床の兵士の方を見ており、その先にある開け放たれたままの扉からすっと入って来た人影に気付くのが一瞬遅れる。
「…………無様ね」
侮蔑に満ちた女の声がぽつりと落ちて、ホタルはその声を耳にした途端に震えが走った。耳の穴に直接氷水を流し入れられたかのような痛みと冷たさに総毛立つ。
白皙の面を縁取る黒く艶やかな髪と、同色の瞳を印象的に彩る長い睫毛。細い鼻梁と薄い唇、その間から覗く白い歯と赤い舌が妖艶さを醸し出す。細い身体を強調するかのような黒いタイトなドレスには深いスリットが入っており、歩くたびにそこから美しい脚線美が現れ、見惚れている間に彼女はホタルの横を通り過ぎ徐にしゃがみ込んだ。
「起きて。兄さん」
呼びかけた女の言葉にはっとして、ホタルはハモンと女の顔を交互に眺めた。似通った箇所など瞳と髪の色だけだったが、容姿の冴えわたるような美しさに共通点がある様にも見える。
兄妹といわれればそうかもしれないと思わせるだけのものはあった。
「まだ勝負はついていないわよ」
死んでいるハモンの額にそっと触れて、優しさすら感じる声音で女は目覚めを促す。
「兄さん、起きて」
「―――――っ!?」
手が退けられた先にあった焼け爛れた銃痕が消え失せ、血が流れた跡すら残っていなかった。気付けば絨毯に染みを作っていた血痕も跡形も無い。
「一体、なにが――?」
女がくすりと微笑んで、濡れた黒い瞳を上げた。
「幾つもの薄汚れた魂の恐怖と死を糧に、尊き者の命を繋いだだけのこと」
事も無げに告げられる内容と実際目にしたことを照らし合わせるが、どれほど考えても現実のこととして受け入れられずにホタルはただただ混乱する。
死を無かったことにできるのか――?
これがハモンの言っていた姿なき敵の持つ奇妙な力。
圧倒的な人ならざる能力。
これは既に人の範疇を超えている。
まさに化け物。
もしくは神か。
「……………うっ」
呻き声と共にハモンの伏せられた睫毛が震えた。ぴくりと指が動き、目蓋が持ち上げられ闇色の瞳が再び開かれる。
死んだはずの男が息を吹き返した。
「有り得ない――――!」
セクスすら叫び、驚きを隠せない。
周りにいた兵たちも青ざめて壁際に後退していく。
「……貴女は一体何者なんですか?」
「私はシモン。偉大なるマザー・メディアの使徒」
「マザー・メディア……異能の、民」
砂漠でアラタから宗教めいた集団と戦っていると聞いたことがあることを思い出した。異能の民と呼ばれ、首領自治区だけでなく統制地区ひいてはカルディアまで彼らが入り込んでいる可能性があると警告されたのだ。
不可思議な力を持っていると教えてくれていたはずなのに、ホタルは今の今まで忘れていた。
「あら。知っている人がいるなんて思わなかったわ。あなた名前は?」
「……ホタル」
シモンはふわりと微笑み「素敵な名前ね」と誉め立ち上がる。ホタルとそう変わらない場所に彼女の顔があり、意外と背が高いのだと気づく。
「勝負とは、なんですか?」
先程シモンが兄へと呼びかけた言葉の中で“まだ勝負がついていない”と言っていた。そのことを問えば頭を左へと傾けて横目で悩ましく見つめてくる。
「どちらが先にこの国を手に入れられるか――とでも言っておこうかな。私は兄やあなたの父のような男より、ホタル……あなたみたいな男性の方が好感を持てて好きだわ」
女は手をホタルの肩の上に置き「素直で純粋で聡明さもある」と続けて重たそうに睫毛を持ち上げて瞬きをした。
「兄はあなたの考えを小賢しいと言うかもしれないけれど、狡猾で傲慢な兄やナノリより余程尊い魂を持っているわ」
身を寄せてくるシモンから逃れようとするが、身体が膠着して動かない。肩の上に乗せられた指が曲げられて細い爪が食い込んでくる。
「暗闇の中で光を放つ、希望そのもの――眩しくて、手に入れたくなる」
「や、め」
肩の指先から伝わってくる黒い力にホタルは抗おうと意思の力で足掻くが、流れ込んでくるシモンの闇に押されて流されそうだ。
「穢れた魂では傷を癒すくらいしかできない。でも、あなたの魂ならもっとすごいことができそうね」
楽しみだわと囁かれ、命の危機に置かれて初めてホタルは生きたいという思いが心の底から湧いてきた。
落ち着け。
心と脳は騙せる。
身体すら例外では無い――上手く、制御しろ。
目の前のことに惑わされるな。
そして。
逃げるな。
戦え!
跳ね除けろ――。
「僕に、触るな!」
ぱしりと音を立ててシモンの手を振り払い、両目に力を籠めて睨みつけた。驚いた様に目を丸くして見つめてくる女の顔は子供のように幼く見える。
「――おもしろい」
口の端を持ち上げてシモンが笑い、ゆっくりと歩を刻みながら壁を背に怯えた表情をする兵たちに触れてはその命を刈り取って行く。
死神のように無慈悲に。
実に楽しげに行われる行為を止めさせたくともその方法が思いつかない。
「おぞましい……」
吐き気すら込み上げてくる。
下手に動けずセクスも言葉も無く不愉快さを張りつけた顔でシモンの動向を窺っていた。
不意に「礼を言いますよ――」と地を這うような低い声に、それでも喜びを抑えきれず弾ませて立ち上がったハモンが黒い瞳を輝かせてホタルを見据える。
「ハモン――!?」
先程眉間を撃ち抜かれた男がこうして何事も無かったかのように立ち、喋ることを受け入れることが容易にできずホタルは酷い眩暈に襲われた。
「こうして妹を捕える機会を与えてくれたことを」
「どういう……?」
意味を計りかねて質問するが、ハモンはもうその意識を妹であるシモンへと向けていた。シモンもまた戯れに命を奪うことを止めて入口を背に兄を見ていた。
「久しぶりね。兄さん」
「八年ぶりか」
「私をずいぶん探してくれたみたいだけれど、捕まると知っていてのこのこ出て行くほど馬鹿じゃないわ」
兄妹の八年ぶりの再会の場に居合わせたことをホタルはこんなにも居心地悪く感じたことは無い。
空々しいほどの会話と笑顔に背筋がゾワゾワと逆立つ。
「だが、こうして今ここにいる。だからお前は愚かだというんだ」
「ふふ。でも私が来なければ兄さんは死んでいたわ」
「それが目的だ。そうでもしなければ、お前は出てこないからな」
「助けに来ないとは思わなかったの?」
怪訝そうなシモンに兄は唇を歪ませて応える。
「賭けの最中に片方が死ねばつまらないだろう。お前は昔からそういう所がある奴だったから、必ず来ると思っていた」
「……面白くないわね。まあ兄さんがそれを見越していたことくらい私にも解っていたけれど」
首を竦めてシモンは一歩後ろへと下がる。
ハモンがそれを追うように一歩前へ出る。
「私を捕まえられると、本気で思っているの?」
妹の問いに兄は「勿論だ」と返し、シモンはゆっくりと首を左右に振った。
「ここへ来るまでに相当の人間の命を奪って来たわ。兵などたいした数は残っていない」
それに生と死を自由に操る私に人数をかけた所で無駄だわ、と眉を曇らせる。
確かに彼女の能力を使えば大勢で捕えようと一斉に襲い掛かった所で、触れるだけで命を好きなだけ刈ることができるのならば意味は無い。
ただ徒に死体を増やすだけである。
「死せる海を泳いで来た男でも――か?」
「え?海を泳いで?そんなこと、できるわけ……くっ!?」
シモンが声を詰まらせて前のめりになり、慌ててたたらを踏んで体制を立て直す。そして柳眉を逆立てて振り返った先にいたのは、顔の上半分を覆う仮面を着けた血に濡れた曲刀を手にした男――反乱軍の頭首、タキの姿だった。