エピソード123 夢を笑う者
通された部屋はまるで個人の書斎のような有様で、運び込まれた多くの書籍と資料が書棚に収められていた。そこに収まりきれずにソファやテーブルにまで侵食し、ついには床の上に積み置かれている。
十分な大きさの執務机の上が多くの書類と資料に埋まり、これでは仕事などなにひとつ捗らないだろうとホタルは内心で呆れた。
だがこの部屋の主である男は涼しげな顔を崩しもせずに、訪った客人を立ち上がりもせずに迎えた。ちらりとホタルを見て、直ぐに後ろに控えるセクスへと視線を走らせ、僅かに眉を動かして不快さを窺わせる。
「こんな時間に中尉を伴って訪ねて来るとは……何事ですか」
紙を捲る音が空疎に響く。
既にハモンの視線はホタルにもセクスにも無く、分厚い本の上へと向けられていた。討伐隊を率いる不甲斐無い息子に父が派遣したハモンの籍は参謀部にあり、隊内部ではホタルの立場の方が上だが、全てにおいて従わねばならぬというほどの強制力は持っていないのが現状だ。
だからこそ客人を客人として扱わないハモンに対して不満を抱いたとしても、ホタルには彼を責めることも罰することもできない。
あくまでも対等、いや、上だと示す態度があからさまなのだ。
一応隊員の前では一歩退き、丁寧に接してくれているが、内情では見た目ほどの思いは爪の先ほどにも抱いていない。
「討伐隊の全権を私に譲渡して欲しい」
ハモンがいる限り、ホタルの手に反乱軍討伐隊を自由に動かせる力は入らない。統制地区との歩み寄りを円滑かつ平和的に進めるにはその権利を彼から奪わなければならなかった。
今の討伐隊はホタルのものでは無く、ハモンによって動かされる駒でしかない。
「セクス中尉に感化され、叶わぬ夢でも見ましたか」
嘲りの混じった声音にホタルの頬に朱が昇る。短く「違う」と反論するが、「どうですかね」失笑と共に呟かれる言葉。
セクスにでは無く、友人の姿に勇気を得たのだ。そしてアオイの謀反が目を覚まさせ、背中を押してくれた。
そもそも叶わぬ夢では無い。
叶えてみせるとホタルは一歩前へと進み出た。
「反乱軍討伐隊を率いよと命じられたのはお前では無く、私のはず。それなのにまるで自分の隊のようにハモンが動かすことは越権行為なのでは?」
「私は参謀ですので、指揮官に代わり智謀を巡らし、作戦を兵へ伝えるのが仕事ですから。不慣れな指揮官を支え、行き届かぬ箇所に働きかけて動かすこともまた職務のひとつだと心得ておりますが……。どうやら認識の違いがあるようですね」
小さく頭を振って子供染みたホタルの言い分など幾らでも煙に巻いて誤魔化すことは可能だと示す。その余裕綽々な態度に苛立ちが募るが、ここで感情的になっては思うつぼだと深く息を吸う。
「そもそも学生である貴方になにができると?思い上がりも甚だしい。まさに愚の骨頂」
闇色の瞳がギラリと底光りしてホタルを絡め取ろうと舌なめずりをする。足元を掬おうと打ち寄せる波のように何度も揺さぶりをかけてくるのがハモンのやり口だ。
「高い場所からしか物を見ないハモンには、きっと同じ景色を見ることなど出来ないだろう。愚かだと笑っていればいい。いつか吠え面かいて悔しがることになる」
「おやおや。随分と俗っぽい言葉を使うようになりましたね。ナノリ様もこれではお困りでしょう」
わざとらしく目を瞠り、ハモンが気の毒がって額を押えた。父を引き合いに出せばホタルが動揺すると思っているから敢えて名を出すのだ。
昔なら萎縮して、口を閉ざしただろうが今は違う。
「父には既に見限られている。今更どう思われようと構わない」
「……ならば何故、討伐隊の全権を欲しがるのです?父に刃向い認めて貰おうという小さな虚栄心を満たすためですか?それとも手柄を立てて誉めてもらおうとでも?」
不可思議そうにこちらを見つめてくるハモンは、権限と力を欲する理由をホタルが父に振り向いて欲しいからだろうと決めつけている。
ちらりと微笑んでそんな物のために動けるほどの傲慢さも、勇気も持ち合わせることができなかった弱い自分の姿を近くで見ていた癖にハモンはなにも解っていなかったのだと納得した。
「そんなものとうに諦めた。求めるだけ無駄だったのだと気づいたんだ。だからこそ今この手に力を得て成すべきものは、富と権力や優越感を護るためだけの愚かな自尊心を捨て、共存していく道を選択するため」
「共存?」
語尾が上擦ったのは笑いを堪えているからだ。さもおかしそうに肩を揺らして笑うハモンなど見たことが無い。それは愉快さからでは無く嘲笑からくる笑みで、聞いていて不快になるだけの嫌なものだった。
「それこそ愚かな考えだ。ナノリ様が御子息の不出来さを呪うのも仕方のないことですね。低俗を通り越して愚民と同じ位置に立っておられるとは」
「愚民――!?」
憚る事無く国民を愚民呼ばわりし、自分以外の人間は全て低俗であると暗に含めていた。
「貴方も可哀相な方だ」
憐みの籠った眼差しを向けられるが、暗い穴のような瞳の奥でチラリチラリと揺らめく炎のような感情が僅かに感じられる。
赤では無く漆黒の炎。
「一生懸命に努力した所で低俗の域を出ることができず、愚かな理想や夢などに誑かされて身を落とすとは。どんなに頑張ってもナノリ様が愛しておられるのはヒビキ様だけ。決して貴方を見ることは無い」
「なにが言いたい」
「ナノリ様が心を砕いて護っておられるのはヒビキ様の健やかな成長と輝く未来だけ。その為に利用されているのだとお気づきでは無いのですから、ホタル様もキョウ様も人がいいとうか、浅はかというか」
吐息と共に失笑を乗せて次の言葉が継がれる。
「今回の一件、全てが軍国主義を貫いていくために必要な布陣だったということです」
「どういう……?」
「総統閣下の周りに目障りな人間が張り付き、閣下の目と耳を奪ってしまわれた。突然マラキア国を責め落とし、領土を拡大するのだと言い始め随分お諫めしたのですが聞く耳を持っていただけなかった。その結果、我々参謀部が描いていた歴史からずれが生じ、修正をせんがため北への侵攻にアオイ様を推し、その代わりにホタル様に反乱軍の討伐を任せる案を提案した」
屋敷へと戻った時に呼び出された父に命じられた時のことを思い出す。あまりにも唐突で理解できなかった理由がこうして明かされることでまるで他人事のような気持になるから不思議だ。
「本来なら幾ら総統閣下とはいえ唯一の後継者たるアオイ様を戦地へと出すことを承服することはなかったでしょう。ですが今は通常の思考をお持ちになることはできない。その点をつき、私たちは思惑通りにアオイ様を国から追い出すことに成功しました」
「何故、そんなことを」
「その間にあの男を排除し、閣下の目を覚まさせようとしていたのですが、想定していたよりも早くマラキアとの戦争に決着が付き、更に悪いことにアオイ様が反旗を翻して攻め込んできた」
さすがにアオイが謀反を起こすなど参謀部すら見通すことはできなかったのだ。一体マラキアでなにがあったのか、詳しい経緯を聞ける機会があれば是非伺ってみたいと思う。
与えられることなどないだろうが。
「早々に片付くと思っていた反乱軍討伐も御存じの通り遅々として進まず、陸軍の尻拭いまでさせられて長々とこんな所にいるはめになりました」
“こんな所”が陸軍基地になのか、それとも統制地区なのか解らない。両方のような気がして、ハモンは国民が住むこの地区を嫌悪しているのだと悲しくなる。
整然と整えられたカルディアの街よりも、雑然としているこの街の方がホタルは好きだから。
「ナノリ様は閣下を毎日訪問し、常に傍にある楽師を観察し隙を窺っていたようですが、あれは普通の人間では無い。そう簡単に排除するなど出来ないと何度申し上げても聞き入れてもらえませんでした。その点だけナノリ様は理解して下さらなかった」
常々ハモンが懸念を洩らしていたことの一端が垣間見え、ホタルは顔を引き締めて耳に神経を集中させた。
「だからこそ討伐を終えて早く戻らねばならないのに」
「普通の人間では無いとは、どういう意味だ?」
「言葉通りですよ。ホタル様。前回警告したはずです。目に見える者だけが敵ではないと。その筆頭があの者たち」
「言葉、通り……」
ならば普通の人間とは違う存在がいるということなのか。
反乱軍のアジトで枯れた噴水に水を湧かせたのは自然を操る力を持った者たちの仕業だということか。
だとしたら最早ホタルたちに勝ち目はない。
その者たちの狙いや思惑がなんなのか、敵なのか、それとも味方なのか。
解らぬままでは不安で、動きようがない。
「そもそも貴方に全権を渡しては終息を迎えるどころか、逆効果でしかない。この国は軍国主義を貫かねば最早生き残ることなど出来ないと言うのに」
「何故そんなに父も、お前も軍国主義であることに拘る?」
「私のことなどどうでもよろしいでしょう。ですがお父上のことならば聞きたいでしょうから教えてさしあげますよ」
歪んだ笑顔の後で語られたのは更に歪んだ父の思い。
「貴方がたの祖先“銀の死神”が犯した罪深い所業を、甚大な被害をもたらしたが勝利を得られたと擁護してくれる今の国の体制が続くことこそがナノリ様の望み。法治国家となればその罪を断罪され、家督も家名も取り上げられる。先祖の汚名を着せられ、世間に蔑まれながら惨めに生きる人生をヒビキ様が歩まぬように」
ただそれだけを願って、父は生きている。
「もしその楽師とやらから総統閣下を引き離したとして、正気に戻った時にアオイ様が生きておられなかったらとは考えなかったのか?」
「私たちにはアオイ様がいらっしゃられない方が、都合がいいとでも申しましょうか。あの方は御しやすくはありますが、気弱で甘い方ですので軍国主義の指導者としては不向きですから」
つまりマラキアで死んでいてくれた方が良かったということだ。そのために軍を率いらせ他国へと侵略させた。
「でも、そうなったら誰が次の総統に」
「まるで世襲制のように現総統の子息が次の総統を継いできていますが、実際は違いますので幾らでも相応しい方いらっしゃるかと」
短慮で暴力的、そして傲慢であれば理想の軍国主義国家を築き上げてくれるだろう。それを影から上手く操り誘導して、歴史を思うがまま紡ぎ出そうと言うのか。
そこでハッと気づく。
「僕もキョウも、アオイ様と同じ――?」
戦いや任務の中で命を落としたとしても父は構わないと思っているのだ。だからこそハモンは利用されていると憐れんでいた。
「討伐隊を率いるように命じられた時にナノリ様ははっきりと仰ったのでは?家を継ぐ必要もない、後は好きにしても良いと」
「確かに、」
そう約束した。
だがその裏に子供の生死すら興味がないのだという思いが隠されていたことに気付けなかった。
あまりにも残酷で、救いの無い真実だろうか。
ホタルは内側から聞こえる魂の叫びに震え、それでも失望して膝を折らずに持ちこたえた自分を褒めてやりたかった。
父の愛情が自分を見ていないことなど解っていたこと。
今更そんなことで傷つくなどそれこそ愚かだ。
「……全権を渡すつもりはないんだな?」
「当然でしょう」
笑い含みの返答にホタルは素早く銃を抜き引き金を引くことで意思を伝えた。身体に伝わる反動の衝撃と、漂う硝煙の匂い。凄まじい音が鳴り響いて、どさりと床にハモンが倒れ込むのすら冷静に眺めていた。
「ご立派でした」
黙って控えていたセクスがすっと前へと進み出る。狙いも甘く未熟なホタルの銃の腕では命を奪うことはできない。撃たれた勢いで倒れたハモンは左腕を押えて半身を起こすが、立ち上がる前にセクスの銃口を額に当てられ身動きを封じられた。
「純粋に願う者の夢を笑う者の願いが成就することは無い。必ずこの国は生まれ変わり、歓喜と共に人々は新たな一歩を踏み出すことになるだろう」
まるで予言のように厳かにセクスは低い声で語り、ハモンに反論させる暇を与えぬまま銃は発射された。
黒く冷たい容姿の男は死して倒れる時までも完璧に美しく伏したのに感動し、ホタルはひとつの山場を越えたことに安堵して小さくため息をもらした。