エピソード121 緊張を超えて行く者
今日は一段と冷たい風が街を吹き抜けている。
車のヘッドライトは闇を切り裂きながら沈鬱な工場地帯と軍の施設の間に走る道路を進む。先日反乱軍に襲撃された壁は無残に崩れ、修復するまでの応急処置として土嚢を積み上げ鉄骨と鉄板を組んで壁を作っていた。
被害は道路にまで及び、陥没した場所が多く在り、それを迂回しながら車を走らせているセクスの横顔を後部座席から見つめてホタルは小さく嘆息する。
寒さだけでなく緊張から指の先が冷たくなっているのを擦り合わせて温めたが、一向に改善されずに諦めて顎を引き俯いた。
道路は以前と比べ悪路へと変わっていてガタガタと揺れるが、運転が巧いのか車の性能がいいのか振動はそれほどなく、車に酔うことも無い。
「ホタル様、ここを曲がれば直ぐ基地へと入ります」
そう声をかけられはっと面を上げると、窓の向こうの景色が随分と変わっていて驚いた。左手に第八区の古びた街並み、右手に大きな金属を扱う工場があり、正面に眩いほどの光で包まれた建物が厳重なフェンスに囲まれて見えている。
壁ではなく向こう側が見えるフェンスにしてあるのは、近づく不審者にいち早く気付くためだろう。
見回りの兵が目を光らせて小銃を手に三人一組が等間隔に歩いているのが目に入り、それだけ警備に力を入れて兵を割いており、一度反乱軍に落とされた基地を二度と渡すものかという執念のようなものを感じた。
両開きの門は固く閉ざされ、物々しい雰囲気で兵たちが護っている。
そこへ徐行しながら車を近づけセクスが窓を開けて書類を差し出す。運転者がセクス中尉であることに気付いた兵は目を瞠り、書類を受け取るか敬礼するかで悩んで両方を選択し同時に実行した。
あまりの動点ぶりに笑いが込み上げ、必死で俯き堪えたが肩が揺れるのは止められなかったようでセクスの苦々しい気配と兵の困惑した視線に居た堪れない思いがする。
書類に目を通して兵が通行の許可を伝えるとゆっくりと門が開いて行く。その間に反乱軍やテロリストが襲撃しないかと兵たちが銃を構えて警戒している中を車で先へと進んだ。
「……笑い過ぎです」
「すまない。あまりにも門兵が取り乱すから、余程セクス中尉は恐れられているんだなと思ったら我慢できずに」
「私が反乱軍に襲われ死線を彷徨うほどの重傷を負ったと知らぬ者はいません。その男がこうしてハンドルを握り、運転しているのですから」
驚きもするでしょうと車を基地の正面入り口へと向かわせながらセクスは反論する。
確かに通常ならばまだ病院で傷を癒し、弱りきった身体と筋肉をリハビリで回復させようとしているくらいの病状であるはずだ。
彼の驚異的な身体の強さと、痛みすら跳ね除ける気力にはいつも頭が下がる思いでいっぱいになる。軍人全てが怪我や痛みを堪え、短期間で動き回れるまでに持って行けるとは思えない。
きっとセクスだからこそできるのだ。
自分にも他者にも厳しい彼だからこそ。
「……緊張が解れたようなので、この件に関しては目を瞑ります」
「ありがとう」
指先はまだ冷たいが、張り詰めた緊張の糸は緩んでいた。通り過ぎて行く車にも視線をやり、警戒を続ける兵たちを見送りながらホタルは深呼吸をする。
極度の緊張はよくないが、適度な緊張感は必要である。
「僕の我儘と反抗期に付き合ってくださって、本当にありがとうございます」
これが失敗すれば生きて言葉を交わすことができないのだと思ったら、我慢できずに感謝の気持ちを伝えていた。
ルームミラー越しにセクスが鋭い一瞥をこちらに向けて険しい顔が引き締まる。眉間に深く刻まれた皺を見ていると震えだしたくなるほどの威圧感があるが、それを受け止めてやんわりと微笑むと少しだけ心に余裕が生まれた。
ヒビキと父が心を通わせることができたのは、激しい拒絶に怯むことなく笑顔で全てを受け入れていたからかもしれないと思う。母によく似た面差しと、純粋で優しいヒビキだからこそ父も妹を溺愛した。
恐怖で竦み、顔色を窺うことしかできなかった息子を父が失望と共に見下したのも解る気がする。
今ならできるかもしれない。
ヒビキのように、恐れず微笑んで話しかけることが。
「……制服を着ている時は指揮官として振る舞うのではなかったのですか」
「感謝は指揮官としてでは無く、一介の学生として伝えておきたかったから」
セクスの視線は直ぐに前方へと向けられる。運転中に余所見ばかりされては安心して乗っていられないので、そうしてくれた方が助かった。
消え入りそうなため息が運転席で洩れ、セクスが正面玄関前へとハンドルを切る。
「貴方ほど優柔不断で決断力に欠ける指揮官はおりません。参謀部ナノリ様の御子息でありながら単なる学生として生きてこられたのだから仕方ないでしょう。ですが貴方は変わられた」
苦言から始まった言葉はやがて諦めの後で希望へと変化する。
「この国を変えようと動き、考え、努力しているのを見てきました。私の方こそ短い間でしたが心弾ませこの国の未来を語る時間を与えてくれたことを感謝しています。年甲斐も無く若い頃に戻ったかのようで面映ゆい感じがしますが」
楽しかったと率直に伝えられた想いにホタルは胸がジンッと熱くなった。十程も歳の離れた二人の間に、友情に似たものが確かに通ったのを実感して歓喜する。
これが最後だと思いたくない。
もっと沢山会話を重ね、多くのことを教えてもらいたい。
「セクス、絶対に」
成功させるぞ。
感動のままに強く口にすると「当然です」と涼しい顔でセクスが応じる。
「相手が、ハモンでもか?」
「優秀だと持ち上げられてはおりますが、まだ経験は浅い。元々参謀部の人間は人の心の機微に疎いところがあります。それは他人だけでなく、己の心にも」
「あの鉄のような男の心の隙に付け入るところなどあるのか……」
「あの男を倒せぬ者に、ナノリ様と戦う資格はありませんよ」
弱気な発言をしたホタルをすかさず叱り、セクスは車の速度を落とす。
正面玄関にも多くの兵たちが立っており、停止した車の前にひとり、運転席側にひとり、そして後部座席を覗き込んで確認するのにひとり着く。
ジロジロと睨みつけるかのように見られるのは心地いい物では無い。
だが毅然と顔を上げ、動じていないフリをする。そうすることで侮られることを避け、自分の中の動揺を鎮めるのだ。
心と脳は騙せる。
そして身体すらも。
上手く制御しろ――。
大丈夫だと言い聞かせ、外から開けられたドアを潜って車から下りる。
多くの視線が“なにしにきたのだ”とホタルを眺めているが、その質問に答えてやる必要はない。
何食わぬ顔で彼らの前を通り過ぎて立派な玄関から基地内部へと進む。少し後ろをセクスが続いて、案内役の兵がホタルの前を早足で歩いて行く。
始まる。
怖気づくのではなく奮い立たせて、ホタルは前を行く兵に気付かれぬように深呼吸した。