エピソード120 海を行く者
第八区と首領自治区を隔てるのは棘のある有刺鉄線で作られたバリケード。
ダウンタウンに住む人間でも首領自治区へと入るのを躊躇うほど汚染濃度の高い場所だが、数時間滞在したからと言って劇的に寿命が縮まるわけでも、病を発症するわけでもない。
第八区の南の端からバリケードを越えて首領自治区の街までの距離はそう遠くは無いのだ。
人影が見えるくらいはっきりと街の外観が見えるので、その僅かな距離でどれほどの危険度が変わるのかとタキは幼い頃からずっと思っていた。
きっとそう変わらない。
首領自治区の人間は自分たちよりも南に住んでいる、彼らより安全だと思いたいだけなのだ。
それでも面白いほど人が寄りつかない場所へと足を運び、破れたバリケードの間を通って自治区へと入り、海へと向かう道を見出せたのは幼かったタキにとって唯一の楽しみだった。
十五年前もここを潜って海へと向かい、そこで彼女と出会ったのだと思い返しながら、未だに塞がれずそのままになっている綻びを見て薄く笑う。
成長し流石にそのままでは通り抜けられるだけの幅が無く、タキは潜るのを諦めて掌が傷つくのも厭わずに鉄線を掴むと足先を引っかけて伸び上がる。あの頃は小さくて乗り越えることなど選択肢には無かったが、改めて十五年の歳月に深い感慨を持つ。
ガシャンと音を立てて飛び降り、降り立った首領自治区の大地は硬く踏みしめるごとに膝へと響く。
右手に陸軍基地の灯りを見ながらタキは一路海を目指す。
真っ暗な夜の闇をたった独りで歩くことになんの不安も無い。
アジトはアキラが、第七区の解放にはハゼと親方、それに第六区のフォルティアが力を貸してくれる。
中天に輝く月とその周囲に散らばる宝石のような星の瞬きは静かな行軍を見守っていた。
身体の芯まで冷え切りそうな風を受けながら、それでも薄着で出たのは温かい上着を着ても意味が無いからだ。
貧相な草が所々に生えている大地が次第に白く柔らかな砂地へと変わる。歩くたびにシャラシャラと儚い音を立て、規則正しく打ち寄せる波の音と共に月夜の浜辺は美しく、ただそこに存在していた。
「また、ここへ帰ってきた……」
この白い砂は海に住む生きものたちの骨が打ち寄せられてできているらしい。死せる海となり、彼らは方向感覚を失い病み苦しんで浜へと上がって来た。海の中でしか生きられないものたちが陸上へ逃げるしか道が無かったのだと考えると、胸の奥が掻き毟られるようななんともいえない心持になる。
きっと異常な光景だったに違いない。
「今は感傷に浸っている場合じゃ無いな」
タキは持ってきていた顔の上部しか覆えない仮面を着けて、ゆっくりと呼吸する。海水に濡れないようにとビニールに包んだ曲刀を背中に括り付け、静かに鳴動する海へと進んで行った。
痺れるほどの冷たさと、痛みを感じる寒さに奥歯が鳴る。膝が浸かり、腰まで沈み、やがて胸まで届く深さまで来ると両手で水を掻きながら海岸沿いに北上した。
原子力発電所とその奥にある軍の基地のお陰で暗い中でも進むべき道は解る。皓々と夜間に灯りを灯す場所はくっきりと闇に浮かび上がっていた。
腐り異臭を放つ毒素を多く含んだ海水は一口飲めば腹を下し、大量に飲めば身体に異常が出るほどの汚染水だ。そんな海の中を好んで泳ごうなどという奇特な男はタキぐらいだろう。
ねっとりと絡み付く海の水は四肢の動きを妨げ、大きく動かしていてもさほど進んでいるようには感じられなかった。
それでも確実に巨大な建造物がまるで押し潰さんばかりの迫力で迫ってくる。海側に並んで三つ建っているのが原子力発電の元である原子炉と呼ばれるものらしい。原理はよく解らないが、中で燃料となる物質が化学反応して発生した熱を使って水を沸騰させ、蒸気で発電機を回し発電していると聞いた。
国全域に行き渡る程の電力を作り出すためにはこれほどの大きな物が必要なのだろうが、それにしても圧倒され思わず怯んでしまいそうな強大さだ。
陸地側の軍の基地の方が小さく見える。
サーチライトが海の上を薙いでいくが、これは不審な船が近づいて来るのをいち早く発見することに重点を置かれているので、泳いで近づくタキの小さな影など歯牙にもかけず通り過ぎて行く。
誰もが死した海を泳いで上陸するとは考えていない――。
そここそが盲点であり、タキにしかできないともいえる奇襲作戦。
警備は薄く、基地を落とすための足掛かりとしての侵入経路としては申し分ない場所だ。だがそれを実行するには海水への恐怖と、のちのち身体に影響を与えるだろう危険を度外視しなければならないが。多くの者たちはその作戦に否定的だろう。
だからタキは単独で動いている。
ハゼを先に第六区へと向かわせてフォルティアと合流させ、親方たち組合連合軍は第七区で所定の位置から討伐隊との戦闘を開始するのに合わせて進軍する予定だ。
アキラにアジトを任せて、他のクラルスのメンバーに見つからないようにこっそりと抜け出した。
たったひとりで基地を落とせるなどと思ってはいない。
タスクでさえも仲間を連れて襲撃し、混乱させた中を切り開いて勝ち得たのだから。
ただ第七区の解放に援軍を出させないように、敵を引きつける必要があった。クラルスとフォルティア、そして組合連合の人数を合わせても討伐隊の兵数には及ばないからだ。
地の利だけで勝利を得られるほど簡単ではないだろう。多くの人数を割ければ拮抗した戦いを展開することも可能だが、これ以上は人員を動かすことができない。
「水が味方であることが俺にとって幸いなんだろう」
波に背中を押される形で岸へと辿り着き、コンクリートで作られた堤防の内側へと入り込む。灰色のコンクリートの上にぽたぽたと黒い水滴を垂らしながら辺りを見回すが、案の定見張りの人間は遠くにも近くにもいない。
命を蝕む危険すら抑止力にならなくなるほど国民が怒り狂って押し寄せてくるという想定を、国や軍がしていないということに国民をどれだけ軽んじているのか解る。
自由と権利を奪い、考える力を削いで制御しようとしてきた彼らにとって、自分たちは奴隷のような存在なのだろう。おとなしく言いなりになって働いてくれれば問題ない。反抗し不満を爆発するような者は排除すればいい。
愚かな民になにができるというのか。
嘲笑うかのように突き付けてくる国の統治者たちに「俺たちにも、できる」と教えてやらねばならない。
地べたを這うだけの小さな虫でも、力を合わせれば巨大な木さえも倒せると示してやる。
そのためには人々の気持ちを新たな国へと向けなければ。
希望と歓喜の中で迎える新しい歴史が華々しく輝く未来へと繋がるように。
「自由と誇りを、取り戻す――」
曲刀を背から下ろして包んでいたビニールを取り除く。タキは白く冴えわたる刀身を暫し眺めて力を集める。
タスク、どうか俺たちの夢を叶えるために力を貸して欲しい――。
そんなつもりもないのに裏切るような形になった最後のやり取りは、鮮烈な眼差しと荒ぶる姿のまま。弁解も謝罪もできないまま逝ってしまったタスクとの永遠の別れは、今でもタキの中に後悔と傷痕を残している。
頭首の座を奪ったタキをあの日のように怒りで目を血走らせながら恨んでいるかもしれないのに、心の中でクラルスをどこへと導けばいいのかと問う相手はやはりタスクしかいないのだ。
憎んでいてもいい、恨んでいてもいいから、全てが終わるまではどうか俺たちを導いて欲しいと願う。
虫の良い話しだと思うだろうが、それでもこの状況をタスクは面白がって見ていてくれているような気がする。
「ただの、願望だが……。タスクと共に、俺たちは戦っている」
面を上げて見つめる先は闇の中で光を放つ場所。
一歩進むごとに黒い足跡が残る。
冷たい風を切って進みながらタキはそこへと至る道へ確かに歩を刻んだ。