エピソード118 喜ばしい再会
「どんな様子だ?」
小鍋を抱えて部屋を出てきたダニエラに少女の様子を尋ねれば顔を曇らせて「びっくりするぐらい食べて回復してきてる」と返答した。
回復しているのなら何故そんなに浮かない顔をしているのか。
疑問が表情に出ていたのだろう。ダニエラがくすりと微笑んで、どういったらいいのかなあと呟く。
そのまま炊事場の方へと歩き出すので、タキは説明を得るためにゆったりとした歩調で後ろをついて行った。
あの少女を保護してから五日経っているが、身元に関することはなにひとつ喋ろうとしない。漸くベッドの上に起き上がれるようになった少女は昨日身体を拭き上げ身づくろいを整えたとダニエラから報告を受けている。
タキはあの日以来顔を会わせていないので、現在少女がどれくらい回復しているのか解らない。
「……目が、やばいっていうのかな」
強いて言うならと上げられた問題点に、麻袋の中から見上げてきた恐怖と怯えの感情以外は消え失せた灰青色の大きな瞳を思い出す。
幼さの残る丸い頬と小さな鼻と罅割れた唇。肩までの髪は縺れ、痛々しいほどに痣の残る顎や横頬。剥き出しの肩にも痕が消えない程のひっかき傷が見えていた。
なにをされたのかは聞かなくても解る。
女としてはなによりも屈辱的で、心も体も深く傷つける所業を日常的に受けていたのだと。
「解るんだ。あの子、多分よくないことを考えてる」
目を伏せたダニエラとあの少女は年齢的にそう変わらないくらいだと思うが、ダウンタウンで育ったことがダニエラを少しだけ大人にしていた。
「あたしも友達も似たような経験あるけど、あの子よりましだから。自由を奪われてずっと……なんて、本当に」
想像もつかない絶望感が少女の中にあるはずだと目を潤ませる。
「だって、あの子泣かないんだよ?取り乱して、泣いて、叫んだっておかしくないってのにさ」
「……代わりに泣いてやるなんて、優しいんだな」
目の前の巻毛に包まれた頭をそっと撫でてやると、すんっと洟を啜り上げて「別に」と呟く。
「恐くて、恐くて、たまらないのに、用が済んで放置された後のあの惨めさは女にしか解らないと思う」
ここ第八区ではどの女も危険な目に合っている。子供であろうが関係なく、時と場所を選ばずにその身を喰らおうと狙われているのだ。昼であろうがひとりで歩く時は注意を怠ってはならず、襲われた時にどう対処するか常に考えておかねばならない。
警戒すべき対象が見知らぬ人間だけでないことも問題で、多くが孤児院の大人であったり、両親が死んで身を寄せた親戚だったりするのだ。中には孤児院の年長者からという話もあるくらいで、女に生まれたことをダウンタウンの女性たちはみな悔やみ嘆く。
殆どの件が表ざたにできず、泣き寝入りしている女がどれほどいるか。
ダウンタウンで清いまま成長し、恋に落ちた男とその日を迎えることができる女はまずいない。
だからこそタキは必死でスイを護り、この街から逃れようと努力してきた。
もしスイが同じ目にあったと聞いたらそいつを赦さないだろうという自信がある。
探し出してあらゆる方法で恐怖を植え付け、じわじわと殺してやる。なるべく痛みを長引かせて、簡単には死なないように。
不幸なことにダウンタウンに住む女たちはそうやって護ってくれる存在が傍におらず、二度、三度と同様の経験をしてはやがて諦める。
そういうものなのだと割り切らねばとてもじゃないがダウンタウンでは生きていけないからだ。
「そんな目に合わずに済む国を、作ろう……」
「うん。期待してる」
目を眇めて微笑むがダニエラは心底から期待しているようには見えなかった。諦め受け入れるしかなかった自分が暮らす世界がそう簡単に変わるとは思っていないのか。
それとも他に望む国の形があるのかもしれない。
子供たちが夢を見られる国であればとタキは願うが、彼らはどんな国を望むのだろうか。
聞いてみようかと思っていたら「タキ、客人だ!」と正面入り口の方から男が走って来て手招きする。
「……すまないが、あの子をよろしく頼む」
「任せて!」
右目を瞑ってみせてダニエラは足早に炊事場へと入って行く。それを見送って、タキは来た道を戻って正面入り口へと向かった。程なくして見えてきた空間に見覚えのある顔を見つけて驚いて立ち止まる。
潮風に吹かれて黒く焼けた肌に骨ばった厳つい顔。首にも肩にもしっかりとついた筋肉が服の上からでもよく解る。背の高いタキとそう変わらないくらいある上背と地声が大きいせいで威圧感を感じさせるが、その茶色の瞳はとても温かく働く者たちを見つめていた。
「――――親方」
「タキ!無事だったんだな!最近金の目の男が反乱軍の頭首になったって聞いて半信半疑で訪ねて来たんだが……」
港で積み荷を降ろす仕事を営んでいた親方は、無戸籍者を多く雇用し従業員を大切にしてくれていた。タキも五年世話になっていたが、仕事中に保安部から狩られそうになって仕事仲間たちと散り散りに逃げ出してそれっきりだった。
「てっきり戻ってこないから、保安部に連れていかれたんだと思ってたが……。本当に良かった、無事で」
「……連絡せずに、すみません」
頭を下げて謝罪すると親方が「なにいってんだ!水臭い」と大股で近づいてきて両肩を掴んできた。
その力強さに励まされ、タキは改めて親方の存在の大きさを再確認する。
少年から大人へと変わる大事な五年間をずっと見守り、導いてくれたのは親方だった。曲がったことが嫌いな性格で、間違ったことは間違っているとはっきりと指摘し、それが陰湿では無いから素直に受け入れられたのだ。
できなかったことができるようになったら誉めてくれ、給金を渡す時には「ご苦労さん。また頑張ってくれよ」と安心させてくれる。
父のように、時には兄のように厳しさと優しさの両方で育ててくれた。
根気強く。
「仕事は――」
どうなっているのかと聞きかけて、国が出した法のせいで第七区の工場は全て操業を止めているのを思い出す。
積み荷を降ろす仕事も五人以上必要とするので、堂々と営業することはできない。
「それなんだが。今日来たのはお前の顔を見るためだけじゃなくてな」
頭を掻きながら親方は苦笑いをする。
なにやら話があるようなのでタキは「こっちへ」と促して廊下を歩いて行く。並んだドアの前をいくつも通り過ぎながら親方の様子を窺うと、物珍しそうにきょろきょろと見回していた。
「……立派になったなぁ」
感慨深げに呟かれた言葉に苦笑して自分は後を引き継いだだけで、立派なのはクラルスを立ち上げたタスクなのだと答える。
「クラルスは沢山の仲間がいて、初めて機能する。俺はたいしたことはしていないんだ」
「そいつが解ってるだけでもたいしたもんだよ。偉くなると働いてくれる人間がいて当然だと思うもんだからな。タキはマシな方のリーダーだ」
間違いないと認めてもらい少しだけ自信がつく。まだ色々と問題が山積している状態で、手探りしながら動いていると不安や疑念ばかりが頭を過る。
目指している方向は確かか、みんなの気持ちはどうなのか。
正しい方法や進むべき道を模索しながら、未来の姿を追い求めて進むしかない。
近道や正解はきっと無いから、自分が信じた道を行くしかないのだ。
「……他に保安部に連行された仲間は?」
あの日勤務していのは十五人程だった。その内の何人が逃げ延び、捕まったのかとずっと気にしていたのだ。
「クイナだけだ」
天然パーマのボサボサ髪に凛々しい眉のクイナの顔を思い出す。少年のようなあどけなさを持っていたあの男が捕まった――。
あまりの衝撃に口を利けずに黙り込むと、まるで慰めるかのように「それでもクイナ以外はみんな助かった。かなり奇跡的なことだ」と親方が言った。確かにあの状況で十四人の仲間が逃げ延びられたことは奇跡だ。
だが逃げられなかったひとりの側になってしまったクイナのことを思うと心が塞いでいく。
特に弟のシオも同じように捕まり、北へと連れて行かれたのだから尚更だ。
何度助けられなかったことを悔いたか。
ドアを開けると現れる急な階段を足早に上りきり、上がって直ぐの部屋へと入る。色鮮やかな敷物が出迎えてくれ、タキは靴を脱いで中央まで行き腰を下ろす。
沢山の部屋がこのアジト内にはあるが、内密の話や作戦に関わることなどをする時にはなんとなくここを使っていた。
タスクがこの部屋を好んで使用していたからか、ここにはまだ匂いや気配が残っているような気がして、一緒に話を聞いて参加してくれているのではないかと勝手に思っている。
「……すごい絨毯だな」
高そうだと親方も上がる前に靴を脱ぎ、タキの前に座った。
向かい合って座りながらも視線は敷物の上を眺め、どちらが口を開くかと牽制しあって先に観念したのはやはり親方の方だった。
「今日は、オレは第七区工場組合の代表代理でここへ来た」
「工場組合?」
組合に入っているとは知らなかったが、そもそもそういう内情を従業員に話して聞かせる必要も無く、タキ自身も興味のない内容は例え耳にしていたとしても頭に残っていなかっただろう。
「オレの会社はちょうど第四区と第七区に跨っている港にあるが、所属している組合は第七区の方なんだよ。で、知ってると思うが休止しちまっているせいで組合の幹部連中は頭を抱えてる」
親方の説明によれば組合員は毎月決まった額を納め、事故や故障で営業ができなかった時に保障することになっているらしい。今回の操業停止の損失分を賄えるだけの基金が底をつき、組合員からの不満が出ているがこれ以上はどうにもできない現状なのだそうだ。
工場が停止し、街へ商品が行き届かないままでは住民の生活もままならない。殆どの工場が食品を加工している所が多く、他には生活に必要な物を生産する工場や鉄工所などが第七区にはあった。
親方が経営している港での荷下ろしができなければ、他国からの材料や食品が入らずに工場は稼働できない。
「機械ってのは毎日手入れして動かしてやらないと、途端に腹を立ててうんともすんとも言わなくなる。一日でも早く操業を開始しないと、工場は使いもんにならなくなっちまうんだ」
「……それをクラルスになんとかしてもらいたいと?」
言いたいことは解るが、厳密にどうして欲しいのか。
親方は目を光らせて「第七区を、第六区のように解放してもらいたい」と訴えた。
「第六区は特殊なケースだ。同じように、とはいかないだろう」
第七区の南にある大部分が陸軍基地と接しており、討伐隊を追い出して解放を成し遂げたとしても、直ぐに陸軍基地から兵隊が派遣され激しい消耗戦となるのは必至だ。
工場が再稼働し、街に商品が安定して流入することができるようになれば申し分ないが、全ての工場を陸軍や討伐隊から守り抜くなど難しいだろう。
「だがな。ここで食品工場を動かすことができるかどうかで救われる人間がいっぱいいるんじゃねえかとオレは思ってる」
確かにその通りだ。
今一番必要なのは食料で、人々は生活用品が欲しいわけでは無い。ダウンタウンの飢餓を救うためにハゼが今軍の施設の襲撃に備えているくらいなのだ。
「工場は食品工場を優先して動かすと約束してもらえるのか?」
「勿論。因みにクラルスには工場稼働して生産した商品の一割を納める」
「……一割」
「少ないって思うかもしれねえが、組合員への保障もせんといかん。それ以上は難しい。その代わり解放のための戦いに必要な人員はこちらからも出す」
動かせる人数がまだ十分とは言えない今のクラルスに、人手を確約してくれるのはとてもありがたい。
「解った。いずれは手を打たないといけないのなら、今がいいだろう。力を借りられるのなら、他にいうことは無い」
「助かる!」
笑顔で手を差しだされ、タキは分厚く大きな掌を見つめながらそっとその上に己の手を重ねた。ぎゅっと握りしめられた温かさと力強さに元気づけられ、こうして親方と手を携えて大きなことを成し遂げることになるとは正直思っていなかったので鼻の奥が痛んだ。
「詳しいことは、また組合長を連れてきて詰めよう。それでいいか?」
「ああ……」
現在の第七区の状況や討伐隊の動きも親方たちの方が詳しい。商売人である彼らの方が作戦を立てるのには向いているかもしれないので、任せても良いだろう。
こうして改めて考えてみると随分他人任せなやり方で大丈夫なのかと自分でも思うが、やはり向き不向きや適性があるので無理にできないことをしようとする方が手酷い失敗をする。
立場的に多くの命を預かっている以上、失敗は許されず、被害は最低限に抑える必要があるのだ。
適材適所。
今のクラルスは頭首ありきではなく、みんなで支え動いているのだ。
だから問題は無い。
このままで大丈夫だ。
新しく心強い仲間を得られたのだと思う。
血はまだ流れる。
革命が成るまでは。
疾く――。
心は急くが慎重さを忘れてはならない。
そう言い聞かせて、戦いの準備が始まる。