エピソード117 恐怖を乗り越える方法
助かったのだろうか。
それともまた別の人間に囲われる生き地獄が始まるのか。
ベッドに横たわり毛布に包まったまま、鍵がかけられていないドアをぼんやりと眺める。相変わらず指一本動かすのすら辛いが、それは暴力のせいでは無い。乱暴に袋に詰められて運び出された日から男たちから身体の関係を強要されることも、手酷く痛めつけられることも無くなった。
その代わり食事も水も与えられず、ずっと袋の中に入れられて床に転がされているか肩に担がれて移動しているかのどれかだったのだ。
彼らの交わす会話を空腹で意識を朦朧とさせながら聞いて得られた情報は、誘拐したものの利用する方法を巡って意見が合わずに時間だけが過ぎ、業を煮やした三人いた男の内のひとりが裏切ってヒビキをカルディアの人間に売ろうとしていたらしい。
隠れ家を知られたことをギリギリで察知した男二人と女は袋にヒビキを詰め込んで逃げ出した。
それからは一箇所には留まらず、文字通り荷物となったヒビキの処遇をどうするか決められずに彼らは毎日口論していた。
どうでもいい。
そっと瞬きをして浅い息を吐く。
それすらとても体力を使う。
このまま静かに天へと還ることができればいいのに――。
「もしもし?起きてる?入っても大丈夫?」
ドアが揺れるほどの勢いで叩かれ、その向こうから無邪気ともいえる明るい声が聞こえてきた。少女のものに聞こえるが、もしかしたら声変りをしていない少年のものである可能性もある。
恐い。
起き上がる力すら無いヒビキが逃げるとは思っていないから鍵はかかっていないのだろうが、逆を返せば誰でも入ってくることができるということ。
もしかしたら袋に閉じ込められていたヒビキを憐れんで、恐がらせないようにと施錠をしていないのかもしれないがこんな状況ではとてもじゃないが安心できない。
無意識に身体が震え奥歯がカチカチと音を立てる。
誰も入ってこないで!
叫んで訴えたくても声を出すこともできないヒビキの心の願いはあっさりと無視された。
「入るよ?」
軽い調子で言いながらドアが廊下側から引き開けられ、オイルランプと大きな籠を持った少女が入ってくる。
魚脂を使ったランプは臭く、燃える炎が出す黒い煙は先入観からか身体に害があるように見えた。それでも暗かった部屋がオレンジ色の光に包まれると、ほっと身体から力が抜けるから不思議だ。
一旦荷物を下に置き少女はドアの横壁にある小さな吊り棚にランプを乗せてにこりと微笑むとその場で自己紹介を始めた。
「あたしダニエラ。頭首にあんたの世話を頼まれたんだけど、どうする?身体を拭いて服を着るのが先?それとも食べるのを先にする?」
くるくると巻いている焦げ茶色の髪を揺らしてダニエラは首を傾げて意思を問う。黄色い肌をした少女は目尻が下がっていて優しそうに見える。笑うと唇の下からすきっ歯が覗いてやけに人懐っこい顔になった。
「……おなか、」
「了解。やっぱり身だしなみより人間は食の方が大事だよね」
解るわ~と何度も頷きながら籠を漁り、中から蓋付きの小さな鍋とスプーンを取り出して、そのままベッドへと近づこうとして思い出したように止まる。
「そっちに行っても大丈夫?」
ヒビキが小さく顎を動かして頷くとダニエラは急がず、ゆっくりとした足取りでベッドまで来た。
「ここは部屋にテーブルとか洒落たもんないから、ここに乗せるけど……」
示された場所は布団の上だったが、そんなこといちいち聞かなくても別に汚れようが支障は無いので勝手に置けばいいのにと訝りながらも瞬きで大丈夫だと伝える。
「元々ダウンタウンには大した食材ないんだけど、今は本当になにも入ってこなくてさ。お腹いっぱいにはしてあげらんないけど……あんた暫く食べてないみたいだから、いきなり固形物は難しいだろうし丁度いいかもね。口は開けられる?」
蓋を開けてスプーンで中身を掬うとそっと近づけてきた。黄みがかった白いとろみのあるものが乗っており、材料はなんだろうかと思いながらも小さく口を開けてスプーンを含む。
ほのかに甘い味とざらついた感触が舌の上に残る感じから、じゃが芋であることを覚る。丁寧に裏ごしされた後で水を少し足し、少々の塩で味付けただけのものだったが横になっていても食べやすく胃にも優しい感じがしてヒビキは嚥下した後で「ありがとう」と感謝の気持ちを表した。
「いいよ、礼なんか言わなくても。あたしは頭首に言われてやってるだけだから」
少し照れ臭そうに首を振ったダニエラが入れてくれた二口目を飲み込んで、再度耳にした“頭首”という言葉を聞き返すと「あたしたち、反乱軍のリーダーだよ」何故か胸を反らしながら三口目のスプーンを差し出してくる。
「あんたを助けてくれたのが、頭首のタキ。良かったね。助けてくれたのがクラルスの頭首じゃなかったら、あんたまた餌食にされてたよ」
袋が開けられて外を見た時にいたのは二人の若い男だった。ひとりは茶色の髪に金色の瞳をした男で刃物を持っていて、もうひとりは黒い髪に薄紫色の瞳をした陰気そうな男だったはず。
ではどちらかがダニエラがいう頭首なのだろう。
そういえば担がれていた時に聞こえていた会話にそれらしい物があったような気がする。誘拐しヒビキを嬲って喜んでいた男のひとりが“曲刀持ちの頭首”かと狼狽えた後で低く深みのある声が肯定していた。
金の瞳の方がそうなのか。
思い返せば随分と悪党くさい言葉を使っていたような気がするが、袋の中を覗き込んできた男はヒビキの憐れな境遇に同情して端正な顔を翳らせていた。
「でもね。大丈夫。ここではもうあんたに酷いことするやつはいないから」
安心してと笑うダニエラが勧めてくるスプーンを、首を振って断る。何日も食べていなかったせいか、これ以上胃に入れると逆に吐き出してしまいそうだ。
「無理して食べてもよくないしね。じゃあ……どうする?身体、拭く?それとも服を着るだけにする?」
どちらにせよダニエラの手を借りなければならないので両方とも断りたかった。今まで布団にすら寝かせて貰えず、毛布も無く裸だったことを思えば格段に恵まれている。同性とはいえ他人に触れられることに強い嫌悪感があった。
「……解った。じゃあ起きられるようになるまではそのままでいっか」
口を噤んでいるだけでヒビキが嫌がっていると汲み取ってくれたダニエラは「しょうがないよね。こればっかりは」と優しく囁いた。
「鍵、どうする?かけてた方とかけてない方、どっちがいい?」
「かけてる、ほう」
「了解。じゃあ外からかけて、鍵はあたしが持っとくから」
鍋に蓋をして朝になったらまた来ると言い置いてランプを棚から下ろして出て行った。カチリと鍵が下ろされた音に心臓が跳ね上がるが、それを望んだのは自分だと必死で言い聞かせる。
なかなか収まらない鼓動に息が苦しくなって今にも叫び出しそうだ。
相手や場所や環境が変わっても、逃げられないという状況はこれほどの恐怖を与えるのか。
もうやめて。
苦しめないで。
死にたいほどの苦痛と恐怖から逃れられたはずなのに、それを信じられないでいる心と身体は必死で救いを求める。
ダニエラに傍に居て貰えばよかった。
そうすれば少しは違っただろう。
でも、そう簡単に彼女を信じても大丈夫なの?
親切そうにみせておいて、あとで変貌するかもしれない。
統制地区の人間がどれほどカルディアの人間を憎んでいるか身を持って知ったはずなのに。
ダウンタウンに住む人たちならばもっと国や総統、カルディアを敵視しているはずだ。
どうすれば赦してくれる?
そもそも彼らを苦しめ、理不尽な目に合わせているのはヒビキでは無いのに。
代わりに憤りをぶつけられては堪らない。
――死にたい。
それしかヒビキを救う道は無いような気がした。
じゃが芋のペーストを先程口にしたことを悔やみ、全てを拒否して餓死を選べばよかったのだと気づく。
それでも久方ぶりに食べた料理は美味しくて、その記憶が残っている限り吐き出すことも次にダニエラが食事を持ってきてくれても断ることができないだろうなと嘆息する。
「別の、方法を」
食べることを止められないのならば、どんどん食べて体力を取り戻せば自分で動けるようになり選択肢が増えてくると奮い立つ。
どんな手段で終わらせようかと考えていると、知らぬうちに恐怖が和らいでいることを発見した。
ヒビキは恐怖を乗り越える方法を見出せたことに歓喜して、拙い想像力と知識を使って様々な死に方を模索しながらそっと目を閉じた。久しぶりの食事と温かなベッドで眠れることにやはり気が緩んでいたのだろう。
深い眠りに落ち、朝ダニエラがドアを叩くまで一度も起きること無く寝ていたのだから。