エピソード113 愚かな私
運命は残酷だ。
そして暴力は全てを奪い支配する。
床に爪を立てて起き上がろうとするが、身体のいたるところが軋んで痛み寝返りはおろか、身動ぎすらままならない。
自分の力で逃げ出す気力はとうに潰えている。
最初の数日はきっと助けが来るとこの国の法や軍の力を信じていたが、一週間もせずにそんな甘い考えを持っていた自分を責めて絶望した。
「……とう、さま」
涙すら枯れ果てたか、父を呼び、兄姉を思っても視界は歪まず汚い床を映すばかり。
家をこっそりと出て統制地区へと向かってからどれほどの時間や日が経っているのか、数えることすら止めたヒビキには解るはずも無い。
あの日は友人の紹介で家出をした人間の行方を捜したり、婚姻した相手の不義密通を密やかに調べたり、秘匿している情報をあらゆる手段を使って暴き出すことを得意とした人物と会う予定だった。
アゲハのことを探してもらおうと思って赴いた約束の場所は、学校の近くにある小さなカフェ。ヒビキも友人たちと何度か通ったことのある馴染の店だったから安心して向かった。
車を使わずに歩いて出たのは苦しい言い訳を重ねて嘘をつかねばならないことの煩わしさと、統制地区へ出かけることを止められることが解っていたからだ。
何処にいても探し出すと決めた出鼻を挫かれたくない思いがこの結果を生んだ。
危機感が薄かった。
そして甘かったのだ。
残酷な現実という物を真実の目で見ることができていなかったヒビキは、どんな人も少なからず愛と優しさを秘めていると信じ思い込んでいた。
愚かで浅はかだったのだ。
確かにどんな人物にも思やる気持ちや情を持っているだろう。だがそれは心や環境や状況に余裕があって初めて発揮できるもので、今の統制地区に暮らす人たちに愛やら優しさやらを求めることがそもそもの間違いだったのだ。
彼らが口数少なく勤勉に働いていたのは厳しい生活に疲れ果てながらも、漸く得ている仕事を失わないため。食べるため、生きていくために必死だからだ。
それをヒビキは上辺だけ見て彼らの美徳であると決めつけた。
「……うっ」
カーテンの引かれた窓を見ようと頭を擡げようとするが、首筋が引き攣ってピクリとも動かない。
諦めてじっと床の木目を睨む。無理して窓を確認しなくても部屋が明るいので今が日中であることは解る。
やはり彼らにも慈悲はあるのかもしれない。
すぐには殺さずに、こうしてヒビキを生かしているのだから。
もしかしたらなんらかの目的のために利用しようとして殺さないのかもしれないとすぐに打ち消して、それならば早く利用するなり行動に移せばいいのにと思う。
こうして監禁され毎日暴力を受け、乱暴に辱められ、死なない程度に水や食料を与えられる責苦が終わるのならば死すら受け入れる。
そうだ。
始めから死を選んでいればよかったのだ。
アゲハを探そうと思わずに、家族の幸せや命を奪う宿命を断ち切りたかったのなら、そうした方が遥かに楽だったのに。
愚かな私。
生に執着したがために死よりも辛い苦難の道を選択してしまった。
家族の間を繋げ、溝を縮めることが自分の役目だと必死で心を砕いてきたが、こうして床に這いつくばり屈辱と痛みで動けなくなっている今は何故そんなことに囚われ犠牲になろうとしていたのかとかつての自分を罵倒したくなる。
無駄な努力などしても同じだ。
どれほど間を取り持とうとも、父にも兄姉にもその気がなければ改善などされる訳がない。
母の代わりになどなれるはずもないと解っていたくせに。
写真でしか見たことのない母は丸顔で大きな瞳をした女性で、いつも柔らかな微笑みを浮かべて映っていた。結婚式に撮られた美しいドレスを着て寄り添う母を父が見たことも無いような満ち足りた表情をしていた写真がとりわけヒビキの印象に残っている。
美しく整った顔立ちの父とは違い、凡庸な容姿の母が唯一持っていた強みはその慈しみの心だったのだろう。
“銀の死神”の異名を持つ二代前の当主が起こした不祥事は父の人生をも蝕み、心を凍りつかせ他者を信じられぬ人間へと変えた。
陰口、あからさまな嫌がらせ、隠されないままの明確な悪意は常に父を監視して干渉してきた。何処にいても居場所は無く、心の落ち着く場所などどこにもない。
父ですらそうなのだから、“銀の死神”を父に持つ祖父のサボウなどはもっと口汚く責められ、過酷な人生を余儀なくされただろう。
そうまでして子孫を残し、家柄を残すことになんの意義があるのか。
早々に取り潰してしまえばいいものを。
そうすれば逃げられた。
苦しまずに済んだのだ。
そう思っていたが、こうして全てを奪われて初めて解った。
金や地位は少なくとも身の安全を買うことができる。カルディアに留まることで衣食住の心配をする必要も無く、煩い外野たちの声を締め出して耐えてさえいれば楽な暮らしができるのから。
人は強欲で、転落する人生を好んで望む者などいない。
今更食うに困り寝る場所すら無いような暮らしはカルディアの人間にはできないだろう。
きっとアゲハも家を出た時は苦しんだはず。
ヒビキも初めて味わう空腹による飢餓感と抗えない暴力への虚無感に打ちのめされ、自分がどれ程護られて恵まれていたのかを知った。
いつまで続くのだろう。
どれほど傷つき苦しめば解放されるのか。
心と身体に刻みつけられるこの国に虐げられた民の怒りが治まることなど無いように思える。
「いっそ……」
死にたいと殺して欲しいと願う。
罅割れた唇を噛み締めたくとも余力は残っていない。
そんな状況では人生を自分で終わらせられる方法など考えつかなかった。逃げ出す気力も、希望を抱き続ける強さも最早ヒビキの中には見つけられない。
諦めの境地で誰かが死を与え、終わらせてくれるのを待つだけ。
「ああ……!」
床に着けた耳に荒々しい靴音が聞こえる。急で狭い階段を上り短い廊下を数歩で詰めて薄いドアの前に人が立つ気配がした。
ここを訪れるのは三人の男とたまに食事か水を持ってくる女が一人。どうか女であって欲しいと願うが、彼女が来たのは昨日の朝だったので経験則によると次に来るのは明日の朝か夜である。
鍵が開けられ乱暴にドアが開けられた。
何度経験してもその行為に対する嫌悪感と恐怖には慣れずに身を震わせる。服はおろか下着すら身に着けず、ただ床に転がされているだけのヒビキには普通なら隠しておきたい箇所すらも男の目の前に無防備に晒さざるを得ない。
身を縮め、己の身体を抱き締めるようにして護りたくとも指一本動かすこともできぬままではささやかな抵抗すら許されていないのだ。
「や……!」
悲鳴は喉の奥で凍りつく。
今回は靴音が更に近づいてきた。
いつもならひとりだけなのに。
それでも怖気が走る程嫌なのに、複数の男と一緒になど耐えられない。
痛みよりも恐怖が勝ち、ヒビキは腰に伸びてくる男の手を拒む。弱々しい抵抗だったが初めての時以来の抵抗に男が舌打ちをして頬を殴打される。床にごつりという衝撃が響き、頭が真っ白になった。
やめて。
酷い、これ以上の辱めなど受け入れられない。
腰を太い腕に抱えられるようにして持ち上げられ、ヒビキは腹に当たる硬い感触と浮遊感に内心で怯えながらも首を捻る。手足がぶらぶらと宙に浮いて男の背中をぼんやりと逆さまになって眺めていることに気付く。
朦朧とする意識の中もうひとりが近づき衣擦れの音をさせているのが聞こえ、なにか得体の知れないことをしようとしているのではと恐慌状態に陥った。
必死で手足をばたつかせても、男の腕はしっかりと腰を握っており逆に男の肩が腹に食い込んで痛いだけだ。
衣擦れが止み、男が頷いたのが見えて恐怖する。
「やめ」
ヒビキを抱えている男の左手が膝の裏を抑え、足先からゆっくりと下ろされる。纏わりつくざらつく布の感触に服でも着せてくれているのだろうかとちょっとだけ警戒心が薄らぐが、それが頭の上まですっぽりと覆い入口を閉められたところで布袋の中へと入れられたことを覚った。
その後でまたガツリと頭部を殴られて意識が遠くなっていく。
おとなしくなったのを見届けて男がまた持ち上げ、歩き出したのを最後に長く監禁されたこの部屋にヒビキが二度と戻ることはなかった。