エピソード107 心に種を撒く
白いテントは大きく、布や衝立で幾つかの部屋に仕切られている。案内された一室に医師のアウラは抜けるような白い肌を惜しげも無く晒して椅子の上に胡坐をかいて座っていた。
二日前に診察してくれた彼女は再び訪れたスイを見てにやりと笑い「よく来たね」と左手に持っていた診察記録を机の上に放り投げる。
「まったく、この暑さではやる気が失せるよー……。あ、偉い偉い。ちゃんと主治医も連れてきたてくれたか」
スイの後ろから髭面のむさ苦しいゲンが入って来たのを確認しアウラが上出来だと誉めてくれた。前回診察時に次来る時は治療してくれた医者も一緒に連れてこいと言われていたので頼み込んで来て貰ったのだ。
最初は面倒臭いだの、忙しいだのと渋っていたがセリに相談した所、「私に任せておきなさい!」と意気揚々と乗り込んで漸く同行を了承してくれた。
「さあ、座って」
促されたが椅子はひとつしかない。
迷っていると顰め面で「それは患者用なんだからお前が座れ」とぶっきらぼうに譲られたのでスイは小さな丸い座面に腰を下ろす。
「で?どうするか決めた?」
赤毛の髪を乱雑に纏めて髪留めで留めているだけだが、それが様になっていた。紺色のタンクトップの胸元から覗く深い谷間と、スィール国の陽射しで焼けた影響かそばかすが浮いている化粧っけの無い素顔は大らかさと解放感で目のやり所に困る。
同性のスイでそうなのだから異性であるゲンはもっと困るだろう。
それだけならまだしも足の付け根近くまで剥き出しになる程の短パンから伸びる足は肌理が細かく真っ直ぐで、むっちりとした腿の辺りが大変際どい。
コルム国の人間はみんなこんな風に小さいことに頓着しないのだろうか。
「ちょっと?聞いてる?」
「え?ああ、はい。手術お願いしたいです」
椅子の上に両足を乗せたまま身を乗り出して覗き込んでくるが、豊かな胸がタンクトップに収まりきれずに零れ落ちそうになっている。
「アウラさん!胸!胸!少しは気にしてくれなきゃ、こっちが困るから!」
何故こちらの方が顔を赤くして注意しなければならないのか。
スイの後ろに立っているゲンがどんな顔しているのか恐くて見られなかった。医者としてこの自治区で働いているのだから、診察で多くの女性の身体を見慣れているから意外と平気なのかもしれない。
それはそれでスイだけが取り乱しているのだとしたらなんだか恥ずかしいし悔しい。
「んふ。羨ましい?」
「べ、別に」
「実際大きいなら大きいで邪魔だから。羨ましがる必要ないけどね」
椅子を軋ませて身を起こしアウラは一枚のレントゲン写真を取り出してゲンへと手渡した。
「……こりゃすごい」
素直に感心してカルディアの大病院にあるものよりも遥かに性能の良いレントゲンが映し出している写真を眺める。
それは二日前に来た時に撮った物で、その際アウラから説明をスイは受けていた。
右腕が動かないのは撃たれた時に肩の骨が欠けて、それが神経を圧迫しているからだと。
「手術して骨を除去すればある程度回復するよ。そんな難しい処置では無いから、一時間くらいですむし」
スイの腕のことなのにアウラは背後に立つゲンと会話をする。なんだか邪魔者のような気がして落ち着かないが、回復の見込みありという内容は正直ありがたかった。
手術も難しい物では無く一時間で終わるのなら尚のこと直ぐにでもして欲しいぐらいだ。
「その代わり動くようにするにはかなりの時間と努力が必要だからね」
楽観するなといわんばかりにアウラの目がスイへ向く。
慌てて背筋を正して「はい」と神妙に返答すれば、彼女は朗らかに笑って立ち上がる。
「その代わり残る傷痕がもうひとつ増えることになるけど、誰かさんの下手クソな縫合とは違って小さく綺麗に仕上げるからそこは心配しなくても良いよ」
「おい、嫌味か?」
明らかにその誰かとはゲンのことだ。
流石に剣呑な声で問い質すが、アウラは楽しげに声を立てて笑い「嫌味じゃなくて本当のことだし」と取り合わない。
ゲンが苛立っているのは顔を見なくても空気で解る。
冷や冷やしながら静観していると、コルム国の女医が無造作に十枚ほどの書類を手にして差し出してきた。
勿論スイにでは無くゲンに、だ。
「ああ?どういうつもりだ?」
「どういうつもりもなにも。この子の主治医はあんたでしょうが。ちゃんと手術には立ち会ってもらうし、手伝いもしてもらうから。そのつもりで」
「冗談じゃねえよ!なんで俺がっ」
苛立ちが過ぎて怒りへと到達している。
こんなことならアウラの言葉を真に受けてゲンを連れて来なければ良かった。
一触即発の状況にスイは居心地の悪さを痛感しながら、どうにかして間を取り持たねばならないとは思ったが、大の大人を前に十六歳の小娘の言葉などなんの力も無いだろう。
「“なんで俺が”なんてことよく言えたもんだわ。この子の傷口を見れば、あんたがどれくらいずさんな治療をしたか解るんだから。しかもうちの研修医ですら、こんな縫合はしない。派手な傷痕を残した償いは次につなげる経験を以て成されるべきだわ」
「くっ、言わせておけば!」
シュッと言う音を立てて書類を腕で跳ね除けて、ゲンは売られた喧嘩を買うべく前に出る。怒りで朱を上らせている顔はいつも浮かべている不機嫌そうな物とは違って、恐怖を植え付けるに十分な迫力があった。
だめだ。
アウラは仕事としてここへ来ているが、彼女たちは自治区の人から一銭ももらっていない。完全な慈善事業である。
善意で活動しているアウラに危害を加えることなどあってはならない。
止めなければ――。
手を伸ばしてゲンの服を掴む。
麻で作られたそれは破れた個所に継ぎ接ぎを当てながらも大事に着ている物。この自治区ではみながそうして物を大切にしながら生活している。
貧しいから。
そう言えばゲンに治療費として金を払ったことは無い。
スイはそんな大金持っていないし、また請求されても支払能力が無かった。
首領であるアラタの命令でスイの弾の摘出手術をして、その後の治療まで無料でしてくれているのだから縫合が下手だとか、傷痕が残るとか文句言えた義理では無い。
アウラもゲンも無料奉仕でスイの治療をしてくれている。
技術の差はあっても、彼らの思いの中に差はないではないか――。
「ゲンさんは!」
豊かで余裕があるから施しをするアウラより、貧しい中で身を削ってでも治療をしてくれたゲンの方がスイには有難かった。
もちろん希望を与えてくれたアウラには感謝をしている。
でも。
「一度も金を払えとか言わなかった!毎日通っても嫌な顔せずに治療してくれたし、あの時助けてくれなかったら、きっと」
死んでいた。
命を救ってくれたのはゲンだ。
「だから償って欲しいとか思ったことない!ゲンさんには感謝しても、し足りないくらいで」
びっくりしたような顔でこちらを振り返ったゲンは、徐々に渋面に変えてスイから目を反らし、取り乱したことを恥じるように頭を掻く。
スイはゲンに命を救われたことを後悔はしていない。
「ゲンさんはこの自治区の立派な医者だ。これ以上悪く言うようなら、治療も手術もしない。行こう、ゲンさん」
立ち上がりクイッと服を引いてスイは出口へと向かう。だが利き手では無い腕でいくら引っ張ってもゲンの身体はびくともしない。
「――――っゲンさん!帰ろうよ!」
両脚を突っ張っても、腰を入れても動かないゲンに業を煮やして怒鳴りつけると「解ったよ……。俺が悪かった」何故か謝られた上に頭を撫でられた。
「そこまで信頼されちゃ逃げられないわよね」
クスクス笑ってアウラが茶化す。
「うっせえよ!」
声を荒げたがそれは照れ隠しだとスイには解る。床に散らばった書類を集めてゲンはざっと内容に目を通す。
それを見てアウラが了承の意だと受け取り日程の確認をする。
「手術は早い方が良いから、三日後に。問題ない?」
「……どうせ俺は手伝いだけだろ。問題ない」
「ゲンさん、いいの?」
一応恐る恐る尋ねるとゲンは嘆息して「どうせ乗りかかった船だ。最後まで面倒見てやるよ」と請け負ってくれたので、スイは嬉しくて大きく頷き微笑む。
治療後に動くように努力するのはスイにもできるが、スタートラインに立つための治療は医者にしかできない。
その大事な手術をゲンやアウラのような信用できる医師に任せられることができるスイは恵まれているのだ。
「ありがとう」
ひとりでは越えられない壁も困難も誰かと一緒なら簡単に越えて行ける。
それが信頼できる人なら尚更安心できた。
人の優しさや温もりに助けられて生きている。
そう実感することばかりが続いていてスイは切なくなる。
もらった優しさや温もりをいつか返せるのだろうか。
してもらったように、誰かにしてあげられるだろうか。
そうできるような人間になりたいと切実に思う。
ひとつ目標ができて、なりたい自分が増えて、スイは成長のための種を手に入れる。
いつか芽吹くように。
今はそっと心に撒こう。