エピソード106 ぐるぐる回る世界で
向かい風に押されながら白い船は行く。
掲げられている国旗は白地に月桂樹の葉と鳩が描かれたコルム国のものだ。力強くは羽ばたく鳩の姿と青々と輝く月桂樹の葉は自由と平和を意味しているらしい。
コルム国は都市国家として始まり、様々な技術や知識を持つ人材を広く受け入れ発展した。清濁併せ持つ独特の感覚と柔軟に変化していくことを許諾する国民性は、やがて多くの人種を取り込んで他には無い想像力と考え方や方法により沢山の物を生み出している。
特出して世界に評価されているのは、細胞から臓器を作り出す技術。
多くの研究者たちが躍起になって日夜励んでいる研究のひとつだったが、彼らは全く別の研究をしていたチームが偶然その方法を見つけたらしい。
世に出された論文を見た研究者たちは悔しがるどころか賞賛し、こぞってその技術を学ぼうとコルム国へと押し寄せてきているのだと自慢げに船員が話してくれた。
見た目は白く美しい船体を持つこの大きな船は、中に入ると突飛な内装や作りをしていて落ち着かない。小さなことに頓着しない性質の人間が多く、新しい物好きで好奇心が強い彼らは汚染地区の街へ行きたいと頼み込んで乗り込んできたアゲハを質問攻めにして困らせた。
三ヶ月に一度二週間もかけて大型船でやってくる調査団は、化学兵器による汚染がどれほどの影響を人体と自然にもたらし、どれほどの時間をかけて浄化されるのかを研究している。その際船に乗って来るのは科学者と医療チームで、医療支援と研究に力を入れているコルム国は派遣する人物に超一流の腕を持っている人材を選んでいた。
積み込まれている機材や医療用品も全て最先端の物が用意されているというのだからその力の入れようには驚かされる。
「自国に三度も強力な化学兵器を使用した国など他には無いからね」
笑顔で真っ白な防護服を着込みながらブギウズが高価で最新鋭の機材や装備品を前に目を丸くしているアゲハに悪気なく説明した。
確かに他国にならば解るが、自国に三度も使用するなど正気の沙汰では無いだろう。
数多くの国がこの世界には存在するが、スィール国のような愚かな国は他にないのだとはっきりと言われては自己嫌悪に陥るしかない。
ブギウズは気さくな男で汚染濃度を計測する装置や防護服を整備調節する技術者だ。だが技術者とはいっても科学的知識は専門の科学者とも対等にやり取りできるほど高く、彼ひとりでも国外に出れば是非と乞われるほどの能力を持っている。
「だからこそ僕たちはこの国へ何度も調査にくるのさ」
器用に片目を瞑って見せてブギウズが防護服に不備がないかを念入りに調べて満足すると、次はアゲハが装着するのを手伝ってくれた。
「防護服も万能じゃない。汚染されにくくするだけで、完全に遮蔽できるわけじゃないんだ。僕の目下の関心事は危険を如何に減らせるかで、最終的には安全で高性能の防護服を作り出すことが目標だね」
「最新鋭の防護服でそれなら、スィール国の防護マスクなんてしているだけマシってくらいの代物なんでしょうね」
仰々しいだけの防護マスクを着用する人間は少ない。軍の人間が第八区で行き倒れたまま死んでいる遺体を汚染地区へと運ぶ際に使用するぐらいの物だ。
殆どの人間は汚染地区へと近づくことを恐れ、首領自治区を訪れることすら忌避する。近づかず統制地区にいれば安全だと思っていることが解るくらいに防護マスクは一般的では無かった。
「申し訳ないけど、時代遅れで効果など高が知れてる」
肩を竦めて流暢なスィール国の言葉を操るブギウズは軽妙な喋り方で昔は栄華を誇っていた国の現状を時代遅れと酷評する。
五十年停滞を続け更に今は急降下しているこの国は、周辺国の同情を引くくらいに衰退しているのだ。
「君の行きたい所へもうすぐつくけど、僕たちの言葉には素直に従うこと。いいね?」
「はい」
それはこの船に乗ることを頼み込んだ時から堅く誓わされていることだ。
彼らは街の近くまで行くが、汚染量が高い場所から先へは決して近づかない。最低限の安全が保障されなければ重大な病を発症し、簡単に死ぬことになると知っているからだ。
遠くから眺めることで満足できなければ連れてはいけないと言われている。
それでもいい。
彼らの力を借りなければアゲハはその街の姿を見ることができないのだから。
逆になにからなにまで用意し、貸してくれるのだから有難いばかりだ。
「汚染量が一定量を超えた場所では警報が鳴るから、その時は鳴らない場所まで移動して。防護服に異常がある場合は違う音が鳴る。なんらかの原因で穴が開いたり、隙間から汚染濃度の高い空気が入って来たとか」
「……そういうこともあるの?」
「あるある。防護服を着る時におざなりに着ると肌が完全に隠れていなかったり、ほんの少しの隙間があるのを見逃したりする。そういう奴は早死にするんだ」
慣れが一番怖いからね、と答えてブギウズは慎重に着せたアゲハの防護服を点検する。念入りに確認して袖と手袋が重なっている部分や、靴と裾の部分がきちんと防護できているかを見ていた。
手袋も靴下も二重三重で装着する念の入れようだが、それでもまだ安全が確約できないというのだからどれだけの場所か解ろうものだ。
そんな場所にしたのは曾祖父であるオロシである。
これから目にする街の姿を想像しようとしたが全くできずに、自分の想像力の貧困さを嘆けばブギウズが「想像するもなにも。あそこにはなにもないよ」と苦笑いした。
「なにも、ないの?」
「そう。全て風化して砂に飲み込まれているから。実際そんな物をどうしても見たいって君の気持ちがよく解らない。僕たちみたいな研究バカなら違う目的でそこへ行きたいと切望するけどね」
防護服のフード部分を持ち上げてしっかりとアゲハの頭部を覆い、更に透明のバイザーが取り付けられたマスクを装着して密着させて防護服と同じ素材の帽子を深く被らされた。
そして小型の酸素ボンベを担いでマスクの口の部分へとチューブを嵌めて、ボンベの調節と最終チェックをして解放される。
かなり暑く動きにくい上に、小型とはいえボンベは肩に食い込む。
既にじっとりと汗をかき始めているが、こうまでしないとこれから先は外へと出られないのだと唇を噛んだ。
ブギウズが同様の装備を整え終える頃には船は動きを止めて、艦内放送で目的地へと接岸したと流れる。促されゆっくりと進み甲板へと出ると、同じ格好をした船員が上陸準備を済ませて二人を待っていた。
直ぐに科学者たちが五人程船内から出てきて合流し、慣れた足取りで渡し板を下りて行く。アゲハもその後に続いたが、砂地に足を着けるまでで相当な体力を消耗し酸素ボンベの重さに挫けそうになる。
「大丈夫かい?」
通信設備も備わっている防護服は明確にブギウズの笑い含みの声を届けてくれた。それに大丈夫だと答えて、どこまでも沈み込んで行きそうな白い砂を踏みしめて歩き出す。
サラサラと音を立てて流れて行く白金色の砂は美しいが、歩きにくく一歩進むごとに泣き言を言いそうになるアゲハの決意や覚悟を嘲笑っているかのようだった。
一列に並んで砂丘を超え、道なき道を進む苦行にどれほど進んだだろうかと振り返れば、影を落とす足跡を辿ればさほど船から離れていないことを突き付けられて呆然としてしまう。
「アゲハ、まだ先は長いよ」
研究者たちは机に齧りついて頭を働かせていると思っていたが、こうして重い装備で砂漠を行く姿を見ればなんと逞しく体力ある男たちだろうか。
アゲハの方が早々に音を上げているのだからなんとも情けない。
無理を言って着いて来たのだから遅れないように着いて行かねばと必死で足を前に出すことだけに集中する。
影は濃く足元に落ち、強い太陽の光を遮る物が無い砂の世界で時間はまるで止まったままのようだった。
どこまで行っても同じ景色で、時間の流れすらこの場所では意味を持たない。
動く生き物が存在することすらここでは異質で、吹き抜ける風だけが変化を与えることのできる不思議な世界だった。
美しい――。
生命の息遣いの無いこの世界はとても静かで、暴力的に奪われたであろう人々の悲しみも憎しみという感情すら残っていなかった。
あるのは無のみ。
だからこそ見る者に色んなことを投げかけてくる。
白金の砂が風に舞いキラキラと美しく輝く景色。
大気に滲む白く大きな光あふれる太陽が空をも白く照らす色無き世界。
生命の存在を許さぬ厳しさと、時間も変化も意味を失う絶対的な力。
過酷さと苛烈さで熱く滾る大地。
全てを飲み込む砂の脅威。
自然とは常に畏怖する存在であり、どんな時も理不尽に人を襲うのだ。
それは古も現代も変わらない。
「……人は愚かだ」
科学が進み便利さを手に入れ、天気や天災を予測する術を手に入れて自然を思い通りに操れると、制御できると驕ったのだ。
自然への畏敬の念を失った人間が自然界の摂理を逸脱し、制御不能へと陥った。
きっとオロシはその典型的な愚者である。
化学兵器を使用して自然に多大な影響が出たとしても、いずれは元へと戻るだろうと簡単に考えていたのだろう。
その結果がこれだ。
物言わぬ自然がこうして人の愚かな行動を静かに表して見せているのに、みんな目を反らして見ようとはしない。
「アゲハ、見えてきた。あそこが街のあった辺りだよ」
ブギウズが指差した先に見えたのは歪な砂丘の方だった。遥か先にあるその場所をよく見ようとして数歩近づいた途端に耳障りな音が耳元で鳴り響く。驚いていると後ろから腕を引かれて元の場所へと戻される。
音が止まったことでさっきの音が一定の汚染量を超えた時になる警報だと思い至った。
「ここから先は行かないで。僕たちはこの辺の測定を記録するから、ゆっくり見ているといい」
熱心な研究者たちは機械を取り出して測定したり、砂を採取したりと動き始める。
アゲハはその場に留まり、じっと砂丘を見つめた。なんの変哲もない砂の丘は風が吹いてもその形を変えることは無い。歪な形は横長で、輪郭を辿ると細長く飛び出した物体があるのが解る。
家の柱かなにかだろうか。
できるのならばそこへ行き、砂を除けて在りし日の街の姿を確認したい。
こんな遠くからなにが解ると言うのか。
期待を胸にやって来たのに、なにも見いだせない虚しさにアゲハは膝を着きそうになる。
震える脚を知らず前に出していた。
一歩。
二歩――。
喧しく鳴る警報を意思の力で締め出して更に前へと進む。少しでも街の姿が見える所まで近づきたいと言う思いだけでアゲハは歩いた。
ずっと注目されるのが嫌で幼い頃から自分で壁を作っていたことをふと思い出す。壁の向こうから人を観察して、近づかなければ傷つくことも傷つけられることも無いと思っていた。
遠くから友達や父や国や統治者たちを眺めて解っていた風に装って、批判したり勝手に絶望したりしていた自分の姿は逆に彼らからどう見えていたのだろう。
傲慢で自尊心ばかり強い人間に見えていたに違いない。
なにもしない癖に文句ばかり言って、肝心な時に逃げ出すような薄情で臆病なアゲハには父や統治者を詰る権利も憤る資格も無かったのだ。同世代の友人でさえ逃げ出さず、置かれた状況や環境に耐えてその足で立っていることを思えば、彼らの方が優秀で勇敢であることは既に証明されている。
なにも解ろうとしていなかった。
アゲハは安全な場所から自分の中の狭い世界の基準で彼らを量っていたに過ぎない。
危険を冒して触れなければ本当のことなど解らないのに。
遠くからでは外側の一部分しか見えないのだと、何故あの時気付けなかったのか。
鼓膜を震わせる音が喧しくて頭が痛い。
気付けば胸の辺りが苦しくて吐き気がする。
透明の板を隔てた向こうに見える景色がぐらぐらと揺れて二重に見えた。
風が強く吹いてアゲハは足を取られて転倒する。柔らかい砂の上に倒れたはずなのに、硬い衝撃がこめかみに当たった。
手を着いて半身を起こすとさっきまで聞こえていた音とは違うリズムの警報が鳴る。
「………………ブギウズが言ってたもうひとつの、」
倒れた時の衝撃で防護服に異常が出たらしい。
頭が真っ白になり、どうしたらいいのか解らずに視線を彷徨わせる。訪れる死の恐怖に怯え、危機感を煽る音が冷静さを奪う。
ザリッ――――。
身じろいだ際に砂とは違う音と感触が掌に伝わる。
「これ、」
咄嗟に手で砂を除けるとその下から黒く焼けた石の板が出てきた。元々は道を覆う石畳の一部だったのだろう。罅割れて、煤にまみれたその板の表面を辿るようにして周りの砂を除けて行く。
街から伸びる道路の横に整備された歩道だったのか。数枚を残して捲れ上がったまま砕けて消えたその姿は砂の下で眠りについていた。
遠く離れた街と街を繋ぐ道路すらこの有様ならば、投下された街は跡形もないだろう。
「なにも、残らないなんて」
きっと骨の欠片さえ残っていない。
まるで蜃気楼のようにアゲハの目の前に激しい閃光と爆風で吹き飛ばされる建物や人々の姿がまざまざと映しだされる。
熱風と炎が街を一瞬で包み、空が黒く染まった。窓が割れ、建物は倒壊し、全てを飲み込むように地面が落ち窪む。有害物質を含んだ空気を吸った人々が倒れ、苦しみながら息絶えたその身体すら火は焼きつくして。
燃やせる物が無くなるまで炎は手を伸ばし、有毒な空気は風に乗り周辺の街へと被害を広げた。
「酷い――」
あまりにも無慈悲な光景にアゲハは座ったまま後退する。
なにもできない。
こんな力の前では無力だ。
「贖罪など、」
甘く耳触りのいい偽善だ。
そんな物で罪が償えると思うな――。
どこかからか聞こえてくる声に怯え、這いつくばって逃げ出す。
ほら、また逃げようとしている――。
笑い声が追ってくる。
アゲハは恐慌状態になりながら砂の上を這いずりまわった。
お前はなにをしてくれる――?
我々に。
どうせなにもできまい。
目に見えぬ者が笑っている顔さえ見えるようで必死にブギウズたちがいる場所へと這い進む。
解らない。
なにができるのか。
どうすればいいのか。
「助け――」
悲鳴を飲み込んで鳴りやまぬ妄言と警報に屈する。
目を閉じてぐるぐる回る世界の中で逃げ惑いながら辿り着いた先で、疑問と迷いの答えを垣間見た気がするがはっきりと解る前にアゲハは気を失っていた。