エピソード105 小さな勇気を集めて
悔しい。
アゲハは自分自身の罪ではなく曽祖父の罪を被って苦しんでいる。
この国を苛む汚染という病を作り出した化学兵器を生み、使用した人間の末裔なのだと告白されて驚いたが、アゲハという人間を知っているスイには恨む思いも怒りでさえも湧いてこなかった。
戸惑いだけが強く残り、置いてきぼりにされたような孤独感が胸の中にある。
シオに頼まれて引き受けなくても良いのにスイを背負い込んでしまったように、曽祖父の罪にまで責任を感じてしまうアゲハは優しすぎるのだ。
もっと自分勝手で傲慢な人間なら先祖の犯した過ちなど気にも留めずにいられただろうし、スイだって口汚く罵ることができただろう。
「アゲハは狡い」
悪くも無いのに謝って、冷たくて狡い人間なのだからスイが泣いても怒っても気にせずに置いて行くと嘯いて。
本当は人一倍気に病んで傷つく癖に。
無理矢理にでも一緒について行きたかったが、スイが傍にいては自分のことを優先できないだろう。
危険な場所に連れて行ってしまったと後々まで引きずって後悔させたくも無かった。
これ以上アゲハの負担にはなるのは望んでいない。それならば帰って来るのを黙って待つしかなく、先へ進むための足掛かりとなる前向きな旅ならば笑顔で送り出すのがスイの仕事なのだと無理矢理思い込もうとするが上手くいかなかった。
もやもやとした思いを抱えたままスイは市場へと向かう。人も多く賑やかな場所の方が余計なことを考えずに済み、そして気も紛れるだろうと喧騒の中へと身を置いた。
三日前に到着した調査団は海を挟んだ向こうの大陸からの物で、スイが聞いたことのない国の人たちが大きな白い船でやって来たらしい。三ヶ月に一回という頻度で汚染状況や、その影響が人体にどんな風に現れるのかを調査している彼らは住民の健康診断を街外れで行っている。
スイの怪我も診て貰えとゲンとセリに勧められたが、研究のために訪れている人たちの手を煩わせるのも悪いからと遠慮した。
そもそも自治区の人間では無いスイにその権利は無いだろう。
調査団は首領自治区に長く住む人たちの健康を調べ、適切な処置をするためにやって来るのだから。
そっと肩から右肘まで撫で下ろし、相変わらず痺れたままなのを確認すると虚しくて堪らなくなる。
本当は医療技術の進んだ調査団の医師に二度と治らないと言われるのが恐いのだ。
なんの努力もせずに腕が動かないと嘆き悲しむことがどんなに愚かであるかは解っている。それでも動かないままかもしれないと言われるのと、動かないままであると断言されるのでは違うのだ。
まだ、受け入れられない――。
「セリ?」
市場の端に停まっている車の横でセリが街の若い男衆となにやら真剣な顔で話している。なんだろうかと近づいて行くと漏れ聞こえてきた内容は第八区にアジトを持つ反乱軍の頭首が死んだというものだった。そのせいで武器が入ってこなくなり、異能の民との戦いに支障が出始めていると愚痴っている。
どうやら自治区に武器を流していたのは反乱軍らしい。軍の武器を奪い不要な物を自治区に横流しすることで資金を得ていたのか。
ふと革命の象徴として使われていたあの美しい蓮の花を思い出す。
泥の中から逞しく花を咲かせていた反乱軍の花が散ったのか。
この地に数週間いたせいで統制地区が今どうなっているのか考えもしなかった。知ろうと思えば知ることはできたはずなのに、タキと会うことを断念してからそこへと意識を向けることを避けていたから。
でも反乱軍の頭首が死んで、武器が入ってこなかったらタスクたちが困ってしまう。
自治区の人たちも身を護る術がないままでは戦えない。
対岸の火事では無いのだと漸く危機感を抱く。
「――――っ!」
でもこの腕ではなにもできない。
なにかあった時に自分の身すら守れないのでは、ただの足手纏いでしかなかった。
また誰かの庇護に縋るしかないのか。
タキやシオに護られていた時のように。
あの時でも不服に思っていたくせに、今はそれすらできない。
今でもセリやアゲハに支えられて生活をしているのに。
助けてもらえることに甘えて、良くなる努力も結果を受け入れる勇気も持てずに逃げてばかりいる。
それで本当にいいのか?
いつまでも誰かが傍に居てくれるなんて思い上がりも甚だしい。
「本当の強さへの手掛かりを掴んだんじゃなかったの?」
己に問いかける。
怯えている小さな自分に呼びかけて。
腕が元のように動くようになれば堂々とタキに会いに行ける。
アゲハだって背負い込む荷物が少し軽くなるじゃないか。
諦める前にまだやれることがあるのなら、精一杯足掻いてみてもいいはずだ。
「――恐れるな」
大きく息を吸いゆっくりと吐き出しながら唱える。そうすることで体中に散らばる小さな勇気を集めて奮い立つことができるから。
スイは決心が揺らぐ前に街外れへと駆けだした。右肩から先が動かないから今までのように機敏に速くは走れないが、それでも足は繰り返し前へと出て歩を交わす。リズミカルな足音を久しぶりに耳にして心は自然と浮足立った。
大丈夫だ。
例え残酷な宣告を受けたとしてもそれは解っていたことじゃないか。
もしかしたら少しくらいはいい言葉を聞くこともできるかもしれない。
完全には治らなくても、物を掴むくらいまでに回復できれば御の字。
今だって不幸のどん底なわけではないから。
息を乱して辿り着いた街外れには診療を待つ自治区の人間が長い列を作っていた。彼らは強い日差しの下で根気強く並んでいる。
スイは最後尾に着くと額に浮かんでいる汗を左手で拭った。
街外れは硬い白茶けた大地が広がっていて、所々罅割れている。雑草すら少ないこの地で自治区の人たちは生きなければならないのだ。
過酷な環境だがそれでもみな明るい。
列に並んでいるからと言ってみんなが重い病を患っている訳ではないようだ。小さな子供を抱いた母親や、健康そうな少年に女性と男性もいる。肺を病んでいるのか咳をしている人もいるが、見た目ではみなどこも悪そうに見えない。
タスクやセリのように子供ができないという点だけが欠けている人間も多いのだからそれだけで判断はできないが。
健康診断という名目で来ている人もいるのだろう。
汚染地区の傍で暮らすことを自分たちで選んだとしても、その弊害を恐れない訳ではない。
化学兵器が使用されなければと国や総統を一番恨んでいるのは自治区の人たちかもしれなかった。
そんな場所でアゲハはどんな思いで日々暮らしていたのだろうか。
知らなかったとはいえ随分と残酷なことをしていたのだとスイは悔やみ、そしてなんとなくアゲハの苦しみの根深さを垣間見た気がした。
この国から化学兵器のもたらした汚染が無くならない限り、アゲハたちはずっと苦しむのだろう。
次の子孫たちも同じように。
悲しみと苦しみの連鎖を断ち切ることは難しい。
アゲハは罪の始まりである現場へと行き、なんらかの答えや解決策を見つけることができるのだろうか。
見つかって欲しい――。
償っていると実感が湧けばきっとアゲハも少しは救われるだろうから。
スイは苦い思いを噛み締めてぐっと飲み込む。
まだ希望はある。
恐れるな――と自分に言い聞かせて。