エピソード104 アゲハの罪は
「アゲハ!」
怒気を孕んだ声が家の外から聞こえてくる。
洗濯物を畳んでいた手を止めてなにごとだろうかと訝りながら入口を見ると、そこには既に柳眉を逆立てたスイが仁王立ちしていた。
「スイちゃん、そんなに怒ってどうしたの?」
金の瞳は激情を湛えた時に一番美しく輝くのだと改めて見とれながら、アゲハは彼女の怒りの原因を問う。
「調査隊と一緒に行くって、どういうこと!?」
「ああ……そのことね」
ゲンの所へと治療に出かけて行く前にはそんな気配は微塵も無かったので、一体誰から聞いたのか解らないがアゲハが自治区に三日前から滞在している調査団と共に汚染地区へと向かうと知ったらしい。
「なんで教えてくれなかったんだよ!!」
行くことに対してではなく、行くことを黙っていたことを責められて苦笑いする。アゲハは視線を戻して乾いた衣服を手繰り寄せ、端と端を合わせて小さく折り畳む作業を再開させた。
「調査団と一緒に行くのは私の個人的な我儘だから。教えなかったんじゃなくて、言い出しにくかったのよ」
だから怒らないで、と懇願してもスイの怒りは治まる様子が無い。小さな顔を真っ赤にして目を吊り上げている少女は自分でも感情を持て余しているのか、無事な方の左掌を強く握り締めてぶるぶると震わせていた。
「スイちゃん、ごめんなさいね」
ため息をついて謝罪を口にするが、手を動かしながらでは気持ちは伝わらないだろう。そうとは解っていても彼女の真っ直ぐな視線と向かい合えば逃げられなくなる。
危険な汚染地区へ行く理由を聞かれて閉口する自分の姿が容易に想像できて恐いのだ。
今はまだ己の祖先の過ちを口にする勇気がない。
「――また!そうやって謝って、」
悔しそうに顔を歪めてその先を飲み込む。本来ならば言いたいことを途中で止めるような少女ではないので、喉の奥まで出ている言葉を必死で留めて胸の中へと仕舞うことはかなり苦労したに違いない。
結局随分口を噤んだままスイは入口に立っていた。
アゲハがすっかり洗濯物を畳み終え、小さな箪笥へと片付け始めた頃にぽつりと「一緒に行く」と呟いたのだ。
恐らくそう言いだすだろうと思っていた。
だから中々言い出せなくて、その時にどうやって説得するか悩んでいる間にアゲハの口からでは無く、他人の口からスイの耳へと入ったのだ。
きっと驚いて、聞いていないと怒っただろう。
本当に小さな体をしているのに、その中にあるエネルギーは信じられないくらいに熱く激しい。
「それがアゲハの望みなら止めない。だけど、一緒に行く。嫌がられても、断られても絶対に一緒に行くから」
ちらりと盗み見たスイの顔にはもう激昂していた名残は無く、凪いだ海のように静けさすら感じられた。変に冷静な態度を取られても戸惑うばかりで、まるで決定事項のように言いきられた言葉にアゲハは小さく頭を振って抵抗する。
「…………だめよ。連れていけない」
「なんで?」
「なんで、って……それは」
危険だから。
私的な問題だから。
どちらもスイにとっては断られる理由にはなり得ないのだろう。
「一緒に戦うためにここまで来てくれたって言った、あれは嘘なの?」
「嘘じゃない、でも」
それとこれとは話が違う。
スイが戦わねばならない時には一緒に戦うつもりだ。
どんな状況でも、どんな相手とでも。
だがこの件はアゲハが負わねばならない罪の確認であり、その後を見届けた上でなにをすべきかを決めるためのいわば裁判のような物だ。
その場にスイを伴うなどできない。
「アゲハは狡い、自分だけ勝手に決めて」
「そう。私は狡くて冷たい人間なのよ。だからここでスイちゃんを泣かせて怒らせても一緒には連れて行かない」
「違う。アゲハは、」
また言葉を途中で切って苦しそうに唇を噛む。
「……一緒に戦うって言ってくれた時すごく嬉しかったんだ。こんな所まで探しに来てくれて、いっぱい迷惑かけたらからなにか恩返しがしたくて、アゲハの望みを叶えるために協力しようって思ってたけど」
できないよ、と俯いた後でスイは黙る。悲しみが漂う沈黙は重く、息が詰まりそうだったがなんとか手を動かしてやり過ごす。
スイの気持ちは嬉しかったが、これだけは譲れなかった。
「ねえ」と呼びかけられて何気なく振り返って凍りつく。ゆっくりと面を上げたスイの瞳とアゲハの瞳が合い絡め取られた。
「アゲハの罪ってなに?」
簡潔な問いには真実以外は受け付けないと言う意志がはっきりと伝わってくる。アゲハは狼狽して視線を反らそうとしたが、逃げ道を探しているのを見透かされて強められた眼力に屈した。
「贖罪をしなきゃならない罪ってなんなの?」
「………………知ったらきっと、スイちゃんは私を嫌いになるわ」
「そんなの聞いてみないと解らない」
不満げに口の端を曲げるスイに向かって弱々しい笑みを浮かべる。
この国を苦しめる二つの忌まわしき存在である総統と化学兵器使用の影響による汚染の恐怖。
その片方の原因となった人物がアゲハの曽祖父であるという事実はきっと誰が聞いても嫌悪するだろう。
口では曽祖父の罪を曾孫のアゲハが背負うことは無いと言っても、心のどこかでこの状況を作り上げた男の末裔を恨み蔑むのだ。自らの短い寿命が尽きる時や、親しい相手が病でこの世を去った時に思い出して責め立てるだろう。
「教えて」
無慈悲なまでに無垢な瞳が罪の告白を要求する。
「アゲハ」
「……五十年前の戦争で“銀の死神”と呼ばれた兵器と男がいた」
とうとう観念して請われるままアゲハは口を開いた。結局は罪を黙ったまま償おうとすることは真の贖罪と成りえないのだろうと思って。
嫌われることが恐い。
憎まれ、責められることも恐かった。
でもそれより、このスイの正面から注いでくる瞳から逃れることが一番困難で恐ろしい。
「その男は軍で化学兵器の研究をしていたわ。名はオロシと言って私の曽祖父にあたる人物よ」
「アゲハの曾お祖父ちゃん……?」
「そう。曽祖父は自分の研究した兵器を戦争で使おうと総統に許可を求めたけれど、威力は高くても使用した後に残る大気や土壌を汚染する兵器を使うことは許されなかった。曽祖父は自分が作り出した兵器がどんな風に人を殺し、どこまで爆風と熱が影響を与えるか知りたかったの」
作った物を使用してどれ程の効果をあげるか知りたくなるのは科学者であれば当然なのかもしれない。その結果もたらされる恐ろしい環境破壊と汚染すら兵器の威力に付加価値を与えるとさえ思っていたのだろう。
人を殺すための道具を作っている間に、まともな思考すら無くしてしまったのか。
「総統の命令を無視して曽祖父は兵器を投下し、街は壊滅して多くの人が命を失った。南の国からの侵略者も、スィール国の人間も一緒に」
オロシは自分の行動が国に与える打撃と、国民の身体への影響や自然界を著しく壊すことへの配慮ができなかった。そんな男だからこそ自分の子孫がどんな思いで生きて行かなければならないかなど思いやれるわけがない。
「兵器を一度使ったくらいでは曽祖父の気持ちは治まらなかった。思っていたよりも被害が少ないと感じて改良を重ねて二度目を断行し、そして次もまた……。陸軍の兵士に囚われるまで研究は続けられ、兵器は使用された」
一度の使用ならばここまで深刻な問題にはならなかっただろう。
二度、三度と行われた化学兵器の投下は狂った科学者によって強行され、尋常では無い被害と汚染の爪痕を残し南にあった国を滅ぼし、十八万人の尊い命がまるで塵芥のように奪われたのだ。
「……それが、アゲハの罪」
「兵器など使わなくても、あの戦争には勝てたはずなのよ。曽祖父が“銀の死神”を使わなければ、そもそも作らなければこの国は豊かなままだった」
「だからそこへ行くの?」
そうだと肯定すればスイは目を伏せてそっと息を吐き出した。
「そこに行って曽祖父の愚かな行為の跡を見て、私になにができるか確かめて来なくちゃ先へと進めない」
「……そこへ行って一緒に戦わせてはもらえないの?」
「スイちゃん、私は戦いに行くんじゃないもの。自分が負わなければならない罪の重さを明確にするために行くんだから」
それに危険な場所へとスイを連れてはいけない。
少女は納得したような顔では無いものの、おとなしく引き下がってはくれた。ただ「無事に帰ってこなかったら許さないから!」と言い置いて、入口から外へと出て行った。




