エピソード103 ダウンタウンの浄化
壊れて使い物にならなくなった荷車を、あちこちから拾ってきた材料で修理してタキが引き、後ろをソキウスが押す形でダウンタウンをゆっくりと進んでいた。
朝から夕方まで街を移動し、その先々で転がっている遺体を回収してダウンタウンと自治区を隔てるバリケード横の広場で降ろして火を着けて焼くという作業は思っていた以上に過酷だった。
体力的な物が問題では無い。
最初は分厚いビニールの手袋を重ねて着けていても腐敗の進んだ躯の感触と臭いに参ったが、それもじきに慣れてあまり気にならなくなる。
暑いのに厚手の長袖長ズボンを身に着け死体を抱え上げて荷台に乗せる際にポトポトと落ちる白い米粒のような蛆虫も、ぶんぶんと鬱陶しい羽音を立てて飛び回る蠅も心を無にすることができればなんという物でも無かった。
積めるだけ積んだ荷車を引いて空地へと向かい、二人がかりで降ろした後にライターで火を着け燃え上がる炎の中で、魂の抜け落ちた身体が姿を変えていくのを眺めている時が一番辛い。
親しいわけでも無く、顔すら知らないタキとソキウスに見送られて荼毘にふされる彼らの最期を思うと虚しくなるのだ。
タキは彼らの死を悼んで火葬している訳ではない。
生きている住民たちのためこの街に安全で生活しやすい環境を取り戻そうとやっているに過ぎないのだ。不衛生で見苦しいからと自分本位の行動で勝手に集められ、十人程の他人と一緒くたに燃やされる彼らの無念さはいかばかりだろうか。
轟々と燃え上がる炎と立ち昇る黒い煙を見ていると、それが彼らからの憎悪に満ちた叫びであるように思えタキの心は暗く重くなっていくのだ。
「……彼らの死因の殆どが飢えと外傷によるものでした」
空へと上がって行く煙を眺めてソキウスがぽつりと呟く。確かにどの遺体も腐敗と発酵により浮腫んだように膨れていたが、持ち上げると軽くて逆にその儚さに胸を突かれる思いがした。
「その外傷もきっと少ない食べ物を奪い合ってできたものでしょうね」
「そうだろうな……」
ダウンタウンに住む人たちは恵まれない生活に慣れている。空腹に対しても多少の耐性はあり、それを誤魔化す方法や対処法を身に着けている者たちが多かった。
タキもまた何日も食べ物を口に出来ず、水を飲んで飢えを凌いで生きてきた経験がある。
そう告白するとソキウスが浮かない顔で深く首肯した。
「人の身体の六割が水分でできているんです。なにも食べられなくても水さえあれば三週間は生きられます。逆に水が無ければ一週間で死んでしまう……」
彼らもきっと空腹を紛らせるために水を飲んで胃を膨らませていたのでしょうねと赤く燃える火を睨む。
「でもその水は命を縮める汚れた水です。特にここでは最低限の消毒しかされていない。飢えと死から逃れるために摂取する水が病を呼び、やがて死を招く……皮肉ですね」
地味な顔立ちながらソキウスは穏やかな人柄が面によく出ている。眉を下げて悲しげに俯くその姿は空へと還る彼らの親族のように映った。
関係の無い人間の境遇に感情移入し、死を悼むことができる彼はとても純粋で優しいのだろう。
タキには母親がスイを産み落としたと同時に息を引き取った際、その遺体を置き去りにしシオの手を引いて孤児院へと移った経験がある。母の死を悲しんで途方に暮れ、躯に縋ってなにもできなくなるのが子供らしい姿だっただろう。
だが涙も無く、タキは即座に切り替えて行動した。
生きるための決断だったが後から考えるとあまりにも非情だったのではないかと思えた。その後母の遺体がどうなったのか見に行くこともしなかったし、あの場所へ近づくこともしなかった。
結局自分のことが一番大事だったのだ。
母が死んでも泣きもしない可愛げのない子供だったし、成長してもタスクが目の前で殺されても涙ひとつ零さない。よほど自分は冷たい人間なのだと痛感してため息を吐く。
「私はカルディアの人間なんです」
唐突な会話を始めたソキウスは口角を上げて微笑み「ちょっと昔話をしても構いませんか?」と確認してくるので小さく首肯する。
「大学では常に一番の成績を治め、誰よりも真剣に医療を学び、努力を惜しまず技術を身につけて誰よりも意欲も腕もある医師となるのを夢見ていました」
きゅっと唇を噛み、助手は肩を震わせた。涙を堪えるように天を仰ぎ、何度か深呼吸して感情を押し殺すとゆっくり顔を元の位置へと戻す。
「下級住民として生まれたせいで正当に評価されず、カルディアで二番目に大きな病院で看護師の仕事をしていました。自分より劣る人間が医師として働き、多くの患者を診察することに憤ってはいましたが嫉妬はしていませんでした」
格差社会の中で育ち、諦めることに慣れ切っていたから。
「そんな医師たちが執刀して助かる患者は多くはありません。勿論中には立派な医師として働いている方もいます。ですが大半の医者は中級より上の住民者たちで、彼らは単なる社会的地位を得るためだけの職ぐらいにしか思っていない」
「……それが原因でこっちへ?」
「看護師は医療行為を行うことができません。知識も技術も資格もあるのに、看護師ではなにもできない。助けられるはずの人間が目の前で死んでいくのを黙って見ているしかない現実に悩み、倦んで……我慢できずに病院の備品を持てるだけ盗んで逃げだしました」
慣れてはいても毎日繰り返される医療現場での格差や、社会の歪さを目の当たりにして色々と苦しんだだろう。諦めていても救うことのできる命に手を出すことを許されないがために無為に失われていく現実はソキウスにとって罪の意識のみが増していく苦行だったに違いない。
自分の力や思いだけではどうしようもない現状に諦念することもできなくなり、逃げ場を求めて統制地区へと遁走した。
「発作的に飛び出し我に返った私はとんでもないことをしたと後悔しました。仕事を放棄した上に備品を横領した私がカルディアに戻ることはできません。あそこでは下級住民の罪は例え小さな犯罪だとしても厳罰が処される。何十年も牢の中で無料奉仕して暮らすくらいなら、統制地区で夢を叶えようと一念発起してやって来たんです」
くすりと笑って「でもだめでした」とソキウスは首を横に振る。
「手持ちの金もたいした金額でも無かったですし、カルディアしか知らない私はまんまと騙されて全てを失ってしまいました」
「ソキウスは見るからに騙しやすそうだから標的にされたんだろう」
「そのようです」
楽しげに声を上げて笑うソキウスの顔には巻き上げられてしまった全財産に対しての執着を感じられない。愉快な失敗談のように話す口振りに、強がりも悔しい気持ちも皆無だった。
ただ晴やかに微笑む。
「仕方がないので生活するためにあちこちの診療所を訪ねて働かせてもらえないかと頼み込みました。医師の資格を持った私ならば喜んで雇ってもらえると思っていたんですが、またしても甘かったのか断られ続けました」
「……何故だったんだ?」
「そんなものなくても治療はできるという自負が彼らの中にはあったからです。下手に知識や資格を持っている人間を雇えば、あれこれと口を出されて面倒だというのが本音でしょう。自分よりも最新の技術を身に着けていることに対するやっかみもあったと思います」
ソキウスが働く場として選んだ場所は二十年ほど前までは統制地区の人間も大学へと通えていた時代があり、その時に医師の資格を手に入れた人たちが自分の子供へと知識と技術を伝え診療所という形で患者を診る医者崩れの者たちが商っている。
金額の高い病院より安価であり統制地区の住民に一番身近な存在だった。
「結局どこにも雇ってもらえずに私は行き倒れてしまったんです」
夢と希望に燃え、志も腕もあった若人がカルディアでも統制地区でも受け入れられなかったとは悲劇である。
「そしてあの地下鉄のリラの診療所で目を覚ましました。その縁で彼女の助手として働かせてもらってるんですから、本当に不思議なものです」
医者を目指していた男が助手に甘んじ、無免許医であるリラを支えて多くの人を救っている。二人の間には語られない沢山の過去や思い出があるのだろう。
その中にソキウスが医師よりも助手として生きることを選んだ経緯がある。
それが彼らの強い絆となっているのは、遣り取りや処置中の阿吽の呼吸から見て取れた。
「革命が成功すれば少しは暮らしやすくなるんでしょうか……」
不安そうにこちらを見てくる瞳にタキは安易には頷くことができない。彼が案じているように総統が変わり軍国主義の歴史が終わったとしても、次にやってくる時代が必ずしも国民にとってより良いものになると決まった訳ではないのだ。
もしかしたら生活がもっと苦しくなり、国としての機能を果たすことができぬまま崩壊してしまう可能性もある。
「それでも今よりは、確実に希望を持つことができる」
「……そうですね。物事が変化をする時には予想もできないことが起こる。それが吉と出るか、凶と出るかは誰にも解らないものですから」
燃え尽き黒い墨と灰の中に燃え残った骨の残骸を二人で眺めて、汚染地区から吹く風に頭髪を揺らし、なんともいえない匂いを連れて統制地区へと流れ込む。
「壁があるのが当たり前のこの国から、壁が取り払われた時にどんなことが起きるのか……。楽しみでもありますが、少し怖いんですよ」
風通しがよくなれば多くの人たちが自由を手に入れ、夢をその胸に抱けるようになるかもしれない。もしくは偏見や格差によって更に多くの争いが起きて血が流れるのかもしれない。
ソキウスの言うようにその日を考え心が弾みもすれば、まだ見ぬ未来へ不安を感じもする。
「最初は上手く行かないかもしれない」
習慣も物の考え方も優先順位も価値観も違う人間が、共に生きようというのだから初めから上手く行くはずがないのだ。
時間をかけて歩み寄り、互いに意見を出して話し合えば改善していけると信じている。
「同じ言語を使う、同じ国の人間なんだ。いずれは解り合える」
「カルディアの方が変わろうと動いているんですから、望みはありますよね」
まるで自分に言い聞かせようとしているかのようだ。
そうあって欲しいと願うかのように。
「私はカルディアの出身ですが、統制地区の暮らしが気に入っているんです。拾ってくれたリラにも、第六区の人たちにも、甘く夢見がちだった愚かな私に現実を教えてくれた騙した人たちにも感謝しているんですから」
ソキウスは辛くても幸せな今の生活や人間関係が変わるのが恐いのだと気づき瞠目する。変化していくのは良いことばかりでは無い。貧しくても善良だった人間が金を手にした瞬間に欲深い者へと豹変してしまうこともあるだろう。
逆に人を騙してばかりいた人間が悔い改めて慈善の気持ちに目覚めることもある。
なにが人を変えるかは解らない。
ソキウスの心配を笑うことはできなかった。
「壁が無くなることで統制地区がカルディアのように変わってしまうのではないかと怯えているんです」
意気地が無くて恥ずかしい限りですが、と本音を打ち明けてくれた彼にタキはそっと首を横に振る。
急激な変化を望んでいる者ばかりではないのだとソキウスは教えてくれているのだ。変わることに順応できる人間もいれば、適応できずに弾き出されてしまう者も出てくる。そのことを忘れるなと自身の思いを籠めて伝えてくれた。
「俺も、恐い」
血を流し、人を傷つけ、命を奪わねば手に入らないものにどれほどの価値があるのか。
それでも黙っていれば沢山の罪も無い人が国に見殺しにされてしまうのが解っていて、抗議しないこともまた違う気がする。
ここで起たねば取り返しがつかない所まで来ていることも明らかだった。
それが何故自分であらねばならないのか――。
他にも適任者はいるだろうが、その人間を見出すだけの時間的猶予も余裕も無い。
戦うと決意し動き出しているだろうホタルのため、そして第六区の住民たちやアポファシスとフォルティアのメンバーからの支持とナギたちロータスの後押しと思いを受けて戸惑いながらも決意したのに。
「恐いんだ、まだなにも始まっていないのに」
近道を選んで手に入れようとした反乱軍の頭首の座に就くことを拒絶され、次の行動を決めかねているということはまだ覚悟が足りないのだ。
たった一度断られただけで諦めるくらいの決意ではことを成すなど難しいだろう。
「俺は、タスクのようにはなれない……」
強い指導者として多くの人を引っ張っていけるような人種ではないという自覚はある。タキに少しでもタスクの自信や強さがあればと悔いた所で手に入るわけでもない。
「私は前の頭首とは面識がありませんが、戦場では猛々しく戦い普段はとても鷹揚で懐の深い方だと聞いています。ですが裏切り者には容赦の無い一面もある、独裁的な人物に権力を与えることは少々危険な気がして……私自身はクラルスの活躍に懸念していたんです」
申し訳なさそうに微笑んでソキウスはそれでもはっきりとタスクが力を手にすることに対して危機感を抱いていたと告白する。
「ですから、タキさんが彼のようになってしまうと困ります。タキさんはそのままでいいんですよ。変わる必要なんてないんです。何度も文句を言われても愚直にリラの所へ重傷を負った人を運んで、カルディアの人間も統制地区の人間も同じように助けようとするタキさんだからこそ私もリラも信じてこの国の未来を託せるんですから」
「……助けた人間よりも殺した人数の方が多い」
「仕方ありません。貴方は殺すことに悦びを見出す殺人鬼ではないでしょう?なにかを成すには戦わねばならないことも多々あるんですから。私たち医療に携わる人間も失敗を犯して人を死なせてしまうこともある……それを正当化してはいけませんが、人は完全無欠ではありません。誰もが過ちを犯す。その後でどう考え、どう行動できるかが大切なんじゃないかと私は思うんですよ」
もしなにから始めればいいのか解らないのならば、ひとりひとりの話をゆっくりと聞いてみたらどうですか?と助言する。
「話を聞く……?」
「そうです。タキさんならば私が不安で恐がっていると話しても茶化したり、笑ったりせずに黙って聞いて受け止めてくれると思ったから話すことができたんです。きっとみんなも同じようにタキさんになら抱えている悩みや、不安を話してくれるんじゃないですかね」
「話してくれるだろうか」
くすりと笑んでソキウスは「はい」と返事する。
「不思議とそうさせる雰囲気を持っていますから」
多くの人々と話して色々なことを聞けたら、彼らの望みや願いを形にする取っ掛かりになるかもしれない。
なにをしたらいいのか解らずに迷っているよりは、小さなことかもしれないが始めることで見えてくる物があるだろうから。
「そうだな。そうしてみる」
「はい。答えはでなくても、人は話すことで気持を整理することができますから」
そんなものかもしれないと頷いて、タキは荷車の手摺を掴んで歩き出す。ソキウスが暫しの間黙祷してから後ろ手に回り、荷を下ろした後の軽い荷台に手を添えて押した。
やるべきことができたことでタキの足取りが軽くなり、ここ数日ですっかり街中から死臭のする放置遺体が減ったことも心を軽くしていた。だが死者の数が減った訳では無いことは忘れてはならない。
飢えと貧しさから起こる争いや死が無くならない限り人々は救われないのだから。