エピソード99 全ては悲願のために
高く聳える壁の屋上から見る景色はなにものにも遮られず、統制地区の方へと目を転じれば無規則に建ち並ぶビル群が地面から生えているかのように起伏を与え、その奥に無機質な工場の平たい屋根や無数の煙突が存在している。
夕暮れに照らされながら赤く燃える統制地区はダウンタウンの粗末で汚い街並みで緩急を与えながら、その先の首領自治区を含めて見渡す限りの荒野が広がっていた。
西側にある第一区は水力発電所以外の灯りは無く、研究所の建物も治安悪化の煽りを受けて早々に操業を切り上げてカルディアの研究者たちは自家用車に乗って帰宅している。
第一区の南部と接している第六区歓楽街はいっそ毒々しいほどの煌びやかな灯りを点け始め、色の無い統制地区を鮮やかに彩っていた。
「…………穢れてはいても、それなりに美しいよな」
リョウは誰も寄り付かない手摺の無い屋上のギリギリ際に立ち、強い風に吹かれながら感慨深い思いで街並みを見下ろす。
国土が半分以上汚染地区へと変わった後、狭い土地の中で無秩序に造成され広げられてきた統制地区はあまりにも不格好だった。ごちゃごちゃとしていてビルとビルの間に無数の路地や小さな空間があり、その死角でさまざまな犯罪が起こり、国に仇なす者たちの集会所となっていた。
「統制地区とは名ばかりの、無秩序で無法が行きかう街」
苦笑いして目元を緩めるが、夜の訪れを感じさせる冷たい風が北の山から吹いてきて慌てて顔を引き締めて腕を擦る。
幾ら取り締まっても全ての路地や空き地を把握することはカルディアの人間には不可能で、土地勘のある統制地区の犯罪者や反逆者たちを追い詰め捕えることは難しい。
そして行方の解らない無力な少女をこの街で見つけ出すことも。
リョウは行方知れずのヒビキがどうなろうと別段困らないが、血を分けた妹である少女の安否を気に掛けるキョウの手前案じているふりをしている。
見つかっても見つからなくてもリョウたちの目的に支障はない。
だが殆どの時間を共にするキョウが職務を疎かにするほどヒビキを心配し、行方を探そうと躍起になっているのを見ていると正直速く見つかってくれればいいのにと思いはする。
見つかった所で“無事”とは言い難いだろうが、この際生きていてくれればそれ以上は望まないと彼女は思っている。
同じ女として妹が耐え難い屈辱や痛みに精神を病んでいる可能性を強く危惧していることは間違いないだろう。
カルディアの御令嬢だと解るおっとりとした雰囲気のヒビキが統制地区を無防備に歩けば、治安が悪化していなくとも邪な思いを持った人間や国へ恨みを持つ人物から悪質な感情をぶつけられることは容易に想像がつく。
行方をくらませて統制地区へとひとり赴いた妹もそのことに気付けぬほど愚かな少女では無いようだった。
元より覚悟の上だったろう。
覚悟はしていても実際その身に起こったことを受け入れることは難しく、激しく後悔した所で時間は戻らない。
「今どこでどうしているのやら」
「そう言うのなら探して差し上げればいいんじゃないのかな?」
独り言のはずがそれに応える声が屋上に笑い声と共に華やかに響き渡った。振り返ると総統の城を背に美しい金の髪を風に遊ばせながら微笑んでいる男が立っていた。
碧色の澄んだ瞳に透き通るような白い肌。まるでよくできた彫像のような容姿を持つ優美なヒカリは生身であることが不思議なほど現実離れをしている。
「そこまでしてやる義理は無いだろうし、正直どうでもいい」
視線をカルディアの方から外して統制地区へと向ける。眺めるのなら豪奢な屋敷や整った街並みのカルディアなどより、雑多で色の無い街並みの統制地区の方が好みだ。
天気が良ければマザー・メディアの住む西に突き出た岬をはっきりと見ることもできる。
あの地を離れて四年余り。
ずっとここから遠く眺めることしかできない寂しさはリョウだけでなくヒカリも抱いている思いだろう。
おれよりも強く恋慕の念で胸を焦がしているはず――。
ヒカリは異能力を持つ自分たちの中では特別な存在として君臨している。幼い頃にマザー・メディアに拾われ、慈しむように育てられた男。彼だけがマザー・メディアを真の意味で“母”と呼ぶことができるのだ。
それ故にヒカリが持つ影響力は絶大で、誰からも一目置かれる存在として認められていた。
誰よりも強くマザー・メディアを信奉し、彼女の悲願達成のために誠心誠意その身を捧げている男。
マザー・メディアの愛を一身に受けているヒカリに対する嫉妬は確かにあるが、彼女が最初に能力を与えたのは彼では無いということは少しばかり溜飲が下がるような思いがする。
その点においてヒカリは自分たちと同じ。
優劣は無い。
初めての贈り物は水底より死の砂浜に泳ぎ着いた場所で出会った金の瞳の男の子へと渡されたのだ。
マザー・メディアは太陽の匂いを纏う子供に初めて愛おしさを感じ、抱き締め自身の力の元である水を操る能力を授けた。
通常ならば異能力は彼女を強く慕う信奉者にのみ与えられるもの。
それを金の瞳の子は純粋たる愛と出会いの奇跡だけで無償でその力を贈られた。
異能力を持ちながら仲間では無い特殊な存在。
彼女は今でも彼を想い、そしてその未来を見守っている。
特別なヒカリと特殊なタキ。
彼らが出会った時、なにが起こるのか――。
「なにを考えているのかな?」
隣に立ちヒカリが顔を覗き込むようにしてくるので、一歩後ろに退き「別に?」と笑いを張りつける。
面白そうだなと不謹慎にも思っていたことが伝わらないように慎重に声を操りながら今後の予定を問う。
「おれが反乱軍の頭首を殺っちゃったから、作戦変更だろ?」
「その必要はない……」
第三者の声が頭上から落ち後頭部を下げて見上げると、風を利用し空を移動してきたアキラがふわりと両手を広げて減速し屋上へと舞い降りてきた。
「必要ないって、どういうことだ?」
「タキを次の頭首へと押し上げる。そうすれば問題は無いだろう」
「いやいやいや。あるから。問題」
あんなに意志薄弱で自分の能力を生かせない男が反乱軍の頭首になり、有象無象の連中をうまく動かせるなど考えられない。
目の前で頭首を殺されても、リョウに反撃はおろか怒りをぶつけることさえできなかったのだ。
いくら衝撃が大きく動揺していたからとはいえ、立ち去る仇を詰りもせず見送るような男には荷が重いだろう。
第一ヒカリへの思いやりがあるならば、ここでタキを作戦の中心へと組み込むことなど提案できるような物ではない。
このアキラという男の考えることは他者への細やかな気遣いが無さ過ぎる。死にかけた時に感情を全て捨てて来たのかと思える程だ。
アキラはタキをこちら側へと引き入れようとしている素振りもあるので、一体なにを考えているのかリョウには理解できなかった。
「上手く行きそうならそうしてもらっても構わないが……。当の本人は乗り気なのか?」
雅な微笑みを浮かべてヒカリは仲間の無礼を受け流す。今更相手の気持ちを汲めないアキラの言動に振り回されるほど器が小さい人間では無いと証明するかのように。
内心は穏やかじゃないだろうが。
「拒絶はされた。だが風が吹けばタキは必ずその地位を手にするだろう」
「またそうやって不確かな風が導く未来をあてにするのかー……」
風は一定では無い。
強くもあれば弱くもあり、荒ぶる時もあれば止む時もある。
方向も特定できず、酷くあやふやだ。
それをアキラは常に優先し行動する。彼の能力がそうあれと諭すのか、それとも彼自身の性格がそうさせるのか。
風とは本当に厄介な物だ。
「不確かでは無い。“必ず”と言ったはずだ」
眉を寄せて嫌悪感を表す所を見ると感情が無いわけではないらしいと、希薄ながら気持ちを時折見せることから解る。
「解った、解ったよ。どのみちおれの軽率な失敗が原因だしな。従いますよ」
「ちゃんと役目を果たせ」
「うっ……解ってるけど、なんでアキラに言われなきゃならないんだか」
リョウが目を離しさえしなければキョウが反乱軍の頭首に攻撃されるようなことにはならなかったのは認める。
勿論反省もしているが、それをアキラに叱責されるのは癪だった。
「オレは自分の役目を忠実に行っている。お前と違ってな」
「じゃあちゃんとあの頭首がおれに殺されないように見張ってりゃよかったんだ」
「オレの役割が頭首の監視であるのならそうしていた。だがそうではない」
解っているだろうと冷めた声で続けられ、リョウは口の端を下げて不満げな顔を作る。
彼女の願いを叶えるためにはその場での臨機応変さが必要だ。事態は流動的で予測はできないのだから。
「役目や役割をこなしながら、事態に柔軟に対応することも必要だろ?」
頭の固いアキラには通じないし、理解できないだろうが。
「柔軟に対応した結果が頭首を殺めることに繋がったとでも?」
「そうだよ!」
睨み合いにまで発展した所でヒカリがため息を吐いて間に入る。
「もう、いい。そこまでだ……」
注がれる碧色の瞳には二人を諭すかのように力が込められていた。アキラは表情を消して黙り、リョウは「悪い」と謝罪して俯く。
「今は仲間割れをしている場合では無い。総統の息子がカルディアを攻めてきているし、マラキア国が支援をしているから少々厄介だ。頭首が倒れ反乱軍は統制力を失い、街は混乱と飢えに疲弊し始めている」
にこりと笑みヒカリが「だが、僥倖もある」と囁いた。
「全ての道が閉ざされたわけでは無い。まだ沢山の道が我々の前には用意されているのだから……。案じることはなにもないよ。この地を母の愛と慈悲に包み全てを満たす悲願の日まで、共に戦おう」
リョウは頭を垂れて「全てはメディア様のために」と応じれば、同様にアキラも「メディア様のために」と呟く。
満足気に微笑むヒカリも「我が母のために」と岬を向いて愛情あふれる声を洩らした。