鍵
自分にしてはちょっと毛色の変わった話を思いつきました。おそらく最初にして最後のミステリー風です。
タイトルに(仮)が付いているのは、ぴったりのものを思いつかなかったからです。後でいいものがあれば、変わるかもしれません?
いつもの週末、いつもの喫茶店、いつもの時間、いつもの席で、いつものオーダー。向かい合って座るのは、いつもの女性――ここまではいつもの事。違っていたのは、ここから先。
「この後どうする? 予定が無いなら――」
「これ、返すわ」
俺の言葉を遮るようにそう言うと、小さな音とともに彼女はテーブルの上に銀色の鍵を滑らせた。
「……何、これ?」
本当はわかっているのに思わず間抜けな事を訊いてしまったのは、目の前の出来事に頭が付いて行かなかったからだ。
「あなたの部屋の鍵」
彼女は律儀に答えた。
「いや、そうじゃなくて……。なんでこれが出て来るんだ?」
漠然とした不安が沸き起こるのを、押さえつける。しかし無情にも、相手は不安を現実にしてしまった。
「返します。もう二度と会わない」
「会わないって……どうしてっ!」
店に響くような声が出ても、そのせいで人目を集めても気にならないくらい頭に血が上っていた。
「あの人が嫌がるの」
「……あの、ひと……?」
「……ックショウ、人のことを馬鹿にしやがって!」
俺は悪態をついた。
三年間付き合った女に二股をかけられた揚句、フラレて、預けてあった鍵を返された。
そろそろ良い頃合だろうと思っていた。今日は小洒落た店に予約を入れてあった。そこで食事をして、プロポーズして、宝石店へ行って指輪を買って……。飛び抜けて美人ではないけれど、料理の腕はそこそこだし、趣味も似ているし、何より気が合うと思っていた。
なのに……。
「あなたって自分勝手で、なんでも一人でさっさと決めて、あたしの意見なんて聞こうともしない。あたしがどれほど我慢してきたかなんて、考えもしないでしょう?」
呆然としている俺の前で、あいつは今まで溜めに溜めていた不満を吐き出していった。
「彼はあなたと違ってあたしのことを一番に考えてくれるし、あなたと違って優しいし、あなたと違って――」
あの女は「あなたと違って」と何度連呼しただろう。
「悪かったな、思いやりの無い自己中で!」
俺は自棄酒をしこたま飲んで、女の言葉を頭の中でリフレインさせながら、アパートへの道をヨタヨタと歩いていた。
ふと、灯りが目に入った。会社帰りによく寄るコンビニだ。
誘蛾灯に引き寄せられる虫のように、足がそっちへ向いた。いつものようにドアを潜り、雑誌コーナーに立ったが、まっすぐに立っていられない。仕方が無いのでそのまま何も買わずに店を出た。
短い間だったのに、外は雨が降り出していた。一歩足を踏み出したら、ぬれた路面で滑って尻餅をついた。
「大丈夫ですか?」
コンビニの店員が、駆け寄ってきた。
「大丈夫、滑っただけだから」
そう言ったつもりだったが、呂律が回っていないので、自分でも何を言っているのかわからない言葉になっていた。――思ったより酔っているようだ。
心配そうな店員にひらひらと手をふって、俺は雨の中濡れながらアパートへと帰った。
翌日は二日酔いの頭を抱えて、一日中部屋の中で昨夜のことばかりグダグダと考えて過ごした。休みでよかったと思う反面、休みだからこそすることも無くて昨夜のことばかり考えるのだとも思う。取り敢えず丸一日かけて、俺は何とか心と体の立て直しに努めた。
夕方ごろ、ようやく体の方は元の状態に戻った。心が立ち直るのにはまだまだ時間がかかりそうだ。
一日ぶりに何か腹に入れようかと、ぐちゃぐちゃのスーツの上着のポケットを探った時、あるはずのものが無い事に気付いた。元カノ(そう言わなくちゃならないのが辛いが)から返されたはずの鍵が無い!
ズボンからYシャツのポケットまで、全部ひっくり返した。自分の鍵はある。財布もある。免許証も会社の身分証明証、携帯もある。何故もう一つの鍵が無い? もしかして夢か?
試しに彼女のところへ電話してみたら、着信拒否されていた。……現実だ。
そこで、昨夜のことをもう一度順番に思い返してみた。
元カノが置いたテーブルの上の鍵を、ずーっと見ていた。店員に声を掛けられて、レシートと鍵を取った。重さと冷たさを覚えている。そのまま持ってレジへ行き、おつりと一緒にポケットの中に入れた。はっきりした記憶はないが、ハシゴしたバーや飲み屋でも、おつりをポケットに入れる度に鍵が手に当たっていたから間違いなくあった。と言う事は……。
「コンビニか!」
コンビニから出た時、滑って尻もちをついた。あの時落としたとしか、考えられない!
俺は慌てて財布を掴むと、コンビニめがけて走った。
「いらっしゃいませ」
顔見知りの店員が声をかける。
「すいません、俺昨夜ここの前で転んだの憶えてますか?」
「はい。かなり足下が危なくて、雨も降っていたので風邪をひかなければいいな心配してました。あ、そう言えば転んだ時小銭を落とされたましたので、拾っておきました」
そう言って、レジの下からビニール袋に入ったお金を取り出した。
「やっぱり。ありがとうございます」
袋の中を確認したが、本当に小銭ばかりで鍵らしいものは見当たらない。
「ちょっと伺いますけど、鍵はありませんでしたか?」
「鍵ですか? いいえ、気がつきませんでした。部屋の鍵ですか? もしかして中へ入れないんですか?」
店員が心配そうに言うので、
「いえ、合鍵なんです。どこかに置き忘れたかもしれないので、もう一度探してみます」
「そうですか。早く見つかるといいですね。誰かに拾われたりしたら、物騒ですから。できれば鍵を交換した方がいいですよ。こっちでも落ちていたら保管しておきます」
「お願いします」
親切な店員に感謝して、店を出た。
「鍵を換える、か……。金掛かるし、面倒くさいしなぁ」
俺はアパートへの道を戻りながら考えた。
取り敢えず盗られて困るような価値のある物は無い。通帳や現金はなるべくを持ち歩くようにしよう。そうだ、家電は出来るだけ持ち出せないように固定して、最悪買い換える覚悟はしておくか。
とにかく二・三日様子を見てみよう。できればその間に鍵が出てくる事を期待しよう。
◆◆◆ ◆◆◆
ニ週間が過ぎた。
鍵は出て来ていないが、部屋から無くなったものはない。それでも安心できる状態じゃない。誰かが出入りしている気配があるのだ。それも一度や二度じゃない。
最初は気付かなかった。気付いたのは、本当に偶然だった。
鍵を失くして一週間目。その日はゴミ出しの日で、朝、ゴミ袋を持って出た時に玄関で何かに引っかけた。急いでいたので何を引っかけたかまでは確認しなかったが、派手な音がしたから間違いない。ところが夜帰宅したら、散らばっている物も倒れている物も無い。
不思議に思いながらも、弁当の入ったコンビニの袋をテーブルに置こうとして気がついた。
テーブルの上に何もなかった。確か今朝は、飲んだコーヒーとカップを出しっぱなしにしてあったはずなのに……。
シンクを見るとカップが伏せて置いてある。俺は食器を洗っても伏せておくようなことはあまりしない。元カノにも良く「中に水が溜まったままになっている」と文句を言われたものだ。
――誰かが入って来ている!
俺は今まで貴重品を入れていた所へ跳んで行った。
中を確認しようとして、そのまま動きを止めた。恐る恐る手を伸ばした。目の前を掌で一撫でして、撫でた掌を引っくり返してしげしげと眺めた。……埃がついてない。
――掃除、してある?
俺はゆっくりと振り返ると、部屋の中を天井から床まで見て回った。
床の隅や窓枠に埃は溜まって無い。雑誌類は揃えて積み上げられている。テーブルの下にパンくずは落ちていない。トイレの中も予備のペーパーが置いてあるし、床に紙くずは落ちてない。スリッパはキチンと揃えてある。浴室も水滴一つなく乾燥している。
自慢じゃないが、俺は気が向いたときにしか掃除をしない。
ゴミは溜めておくと匂いがするし、虫も湧くからきちんと出すようにしている。しかし、人間、埃や汚れが溜まったからって死ぬわけじゃない。だから仕事が休みで、気が向いたときにだけ掃除をする。以前は元カノが週一で掃除に来てくれていたが、それだってここまで徹底的にしなかった。
――部屋の掃除をする泥棒?
盗みに入ったけれど、盗っていく物が無くて、逆に汚い部屋に我慢できなくて掃除をしていった、とか?――どこかで聞いた事のあるギャグみたいだ。
「いったい誰が?」
俺はその場で考え込んでしまった。
とにかく、俺の部屋に入って来る者がいるのは確かだ。
実害が無いから、警察に届けても相手にしてもらえるかどうかわからない。鍵を換えろと言われるのがオチだ。
おそらく俺が落としたもう一つの鍵を使っているのは間違いないから、それを返してもらえばそれ以上事を荒立てる気はない。逆に、掃除をしてもらった礼を言いたいくらいだ。
ただわからないのは、何度も俺の部屋に入ってくる理由だ。一度で盗り切れないほどのお宝があるのならいざ知らず、普通同じ部屋に何度も泥棒に入るだろうか? しかもその度に何も盗らず、掃除して帰るってのもわからない。何かこの部屋に来る特別な理由でもあるんだろうか?
俺は正体不明の不法侵入者を捕まえようと、ある日一日会社を休んで部屋の中で待っていた。しかしその日は誰もやって来なかった。そういえば、俺が休みの日には現れない。まるで俺が部屋にいるのがわかっているみたいだ。
それでも平日俺が仕事に出ている日は、間違いなく来ている。わざと散らかしておいた雑誌や靴が揃っていたり、ゴミ箱の中が空になっていたりする。極め付きは、前日の夜出しそびれたゴミ袋が出してあったことだ。
どうしてそこまでするのか、まるっきりわからない。会って理由を訊きたいと、一度テーブルの上にメモを置いておいた。メモは無くなっていたけれど、それ以降何のリアクションもない。相手は俺に会いたくないらしい。
「どうしたもんかなぁ……」
俺は溜息をついた。
タイトルの「Brownie」はご存知の方もいると思いますが、家に付く妖精のことです。日本の座敷童子と同じようなモノらしいです。