いやよいやよもすきのうち
○登場人物
浦澤雅人・うらさわまさと(24歳、信念で必ず人は分かり合えると思う正直者)
天崎侑子・あまさきゆうこ(24歳、物事は近道で効率よくが信条の屈折者)
若桑大五郎・わかくわだいごろう(50歳、営業部部長)
成枝朝芽・なりえだあさか(44歳、営業部係長)
土場勝人・つちばかつと(42歳、営業部の先輩)
「はい。では、今夜お待ちしています。失礼いたします」
携帯を切り、勇みよく会社の自動ドアをくぐる。
この春、入社3年目。新鮮さは失わず、まだ表情に希望は保たれている。弾むような
足取り、流れるような言葉。何にでもひたむきに駆ける姿は現代人には見習うべきもの
といえよう。
「すいませぇん。乗りまぁす」
張り上がった通りのいい声に、閉まりはじめていたエレベーターの扉が開く。そこに
飛び込むと、「すいません、すいません」と数人はいる室内の1人1人に伝えていく。
応えてくれる人間はいない。彼にはそれは大した問題ではない。
エレベーターを降りると、受付の女性。他の社員なら素通りかコクリとする程度しか
対応しないところを、彼は「戻りましたぁ」と営業先の相手にするのと同じ度量で対応
する。
そう。この男、とにかく真っすぐなのだ。
「浦澤、ただいま戻りましたぁ」
クリーンオフィスの自動ドアをくぐると、営業部どころか社内に響き渡るんじゃない
かぐらいの快活な声を発する。さすがに3年目にもなると他の社員も慣れてきて、適当
な返事をするに留まっている。
「係長、先方の田代様にお話を聞いていただけることになりました」
「あら、よかったじゃない」
「はい。今夜お食事をさせてもらうことになりまして、その席でこちらの話を聞いて
もらいます」
「うん。抜かりなくね」
「はいっ」
頭を下げると、デスクへと戻る。
「いやぁ、土場さんに紹介してもらったチョコバナナケーキ、大好評でしたよ」
「そうだろ。先方、甘いもの好きって言ってたからな。あのケーキでおちない甘党は
いないってもんよ」
左隣のデスクで自慢げに鼻を高くするこの男、土場勝人。入社当初からコンビを組み、
営業のノウハウを教えてもらった。42歳独身、頭髪の衰退と結婚に危機感を感じる今
日このごろ。
「さすがです。だてに長く現場にいないですね」
「お前、それ嫌味だろ」
ちなみに、いまだに平社員。
「言っとくけどな、上が詰まってるから俺はいつまでもここにいるだけだぞ。そうじ
ゃなけりゃ、今頃は出世街道まっしぐらよ」
「その話、何十回も聞いてます」
爽やかでハキハキとした返事。本人に何の嫌味もないことが逆に土場の安定感を損な
わせる。
彼が働く会社、クリーンオフィス。都内のビルの2フロアに社をかまえ、まぁそこそ
こに粋はいいと言える。クリーンオフィスの仕事は主に営業。営業部門に自信のない会
社、新規の開拓に営業人員を用意できない会社、またはクリーンオフィスの持つ営業の
パイプにあやかりたい会社から依頼を受け、営業活動を行うのが役目。全権を任される
こともあれば、依頼主の企業の戦力として参加することもある。つまり、他社の営業の
代行を務めるスペシャリストというわけである。当然、そこにいるべき社員は限られて
くる。人当たりの良さで信頼を勝ち取る人間。そして、戦略で相手を崩す人間だ。
その時、香り高い甘さとともに人影が過ぎていく。好みは二分されるだろうぐらいの
香りの強さは彼女の特徴だ。
「天崎、戻りました」
言い置く程度の言葉。淡白な表面。彼とは対になりえる天崎侑子、入社3年目。
「係長、タワーエルとの契約、無事に終了しました」
「そう、よくやったわね」
「いえ、先方がとても乗り気だったのでなんとか出来ました」
「そんなことないわ。次も期待してるわよ」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げると、天崎は彼の向かいのデスクへ戻る。
「侑子ちゃん、今日も良い匂いだねぇ。これはバラかな」
「ラベンダーです」
「そうそう、ラベンダー、ラベンダー」
強めの香水にいつも反応する土場とそんな反応はどうでもいい天崎の毎日のやりとり。
若い女性に興味ありありの男と先の薄い男性に興味なしの女。少しでも交流を持とうと
する男と少しでも交わそうとする女。
「しっかし、侑子ちゃんは凄いねぇ。その年でそんだけ仕事できちゃうなんて男顔負
けだよ」
「たまたまです」
「いやいや、実力でしょ。ホント、こいつに見習わせたいよ」
「頑張ってますよ、俺だって」
必死にアピールする。それは正しい。確かに我ながらとても一生懸命だ。ただ、彼女
と同期入社ということは彼にとって不運なことかもしれない。
天崎は社内でもトップを争うほどの契約数をとってくる。入社3年目、しかも女性と
は到底思えない実績だ。彼女とコンビを組んでいる先輩社員の伝谷は出来すぎる後輩に
すでに根をあげている状態になっている。媚びないスタイルのため、先輩たちからは多
少の陰口をたたかれている。本人もそれを知っているが、成績の劣る年上社員の僻みだ
と認識している。
そうしてる間に、部長の若桑が会議から戻ってきた。土場とは違い、内面も外見も兼
ね備えた上司である。
「浦澤、天崎、ちょっと来てくれ」
若桑に呼ばれ、窓際の部長のデスクへと集まる。
「実はな、成枝くんと話し合ったんだが。お前らも3年目になるわけだから、そろそ
ろ先輩の背中は卒業させようということになった」
卒業、まさか一人立ち。
「いやいや、僕なんかまだまだですよ。土場さんがいてくれないと困ります」
謙遜ではなく言った。正直、まだまだ自分がそんな位置にいるとは思えない。
「そうは言ってもだな、新しいステップに進むことは必要だ」
言ってることは分かるけど、そんな自信はない。
「経験を積むことは大事なことだ。それでまた一つ大きくなれるんだぞ」
そこまで言われると・・・・・・拒みきれなくなってくる。
「いいな、浦澤」
「はい」
そう言わざるをえなかった。まぁ、認めてくれてるわけだから悪いことではない。
「天崎もいいか」
「はい」
冷静に天崎は言う。相当の自信だ。
「じゃあ、さっそく今日から2人でコンビを組んでくれ」
その言葉に、彼も天崎も止まった。
「2人で、ですか」
間があってから天崎が言った。
「あぁ、2人でだ」
疑問が答えに結びつき、顔を見合わせる。一人立ち以上のまさかの展開だった。
「天崎の契約が終わったんだったな。じゃあ、浦澤の進行してる契約をやってくれ」
よしっ、と若桑は手を2回叩く。背中を押し出すように。
理解がしきれないままにデスクへ戻ると、すぐに土場が寄ってきた。
「いいなぁ、お前。侑子ちゃんとコンビ組めるなんて」
「いやいや、同期とコンビってアリですか」
「いいじゃねぇか、触発し合えて。まっ、お前の場合はもう大差つけられてるから関
係ないだろうけど」
ムッとすると、その分だけ土場に笑われた。
「浦澤くん、ミーティング」
会話を遮り、天崎が割ってきた。それだけを言い残し、さっさと歩き出していく。
「あっ、ハイ」
置いてかれないように着いていくと、天崎は社員用の休憩スペースにあるテーブルを
選択した。クリーンオフィスには会議室や応接室もあるが、新米のミーティング程度で
は使用を自粛するのは暗黙の了解だ。なので、軽い用事はここで済ませてしまう。もち
ろん、軽食や飲み物やタバコで小休憩をする同僚の無駄話が飛び交う中で進めなければ
ならない。
「そっちの契約、どういう状況か教えて」
イスに座るなり天崎はメモ帳を取り出す。こういう時、普通ならコンビを組む事にな
った感想でも出てくるものじゃないだろうか。それがいきなり仕事の打ち合わせとは大
層なものだ。
契約の進行状況を説明していくと、天崎は淡々とそれを聞きながらメモをとっていく。
彼女から質問されたのは契約の内容よりも先方の人間性についてがほとんどだったのが
疑問に思った。
「そう。じゃあ、今日の接待、私も着いてくわ」
そう言い残し、天崎は席を立つ。
「関係書類、私の分コピーしといて」
言い捨てるようにして、天崎はその場を後にしていく。仕事の出来る人間の印象も受
けたが、あっさりとしすぎて腑に落ちない部分もあった。
その日の夜、天崎とともに居酒屋を訪れた。居酒屋といっても大衆のものではなく個
室ごとに区切られている店だ。彼にすればワンランク上の店のつもりだったが、天崎は
疑問が拭いきれなかったらしい。
「どうして、先方との食事が居酒屋なのよ」
「先方がフランクに話せるところがいいって言ってたからだよ」
「フランクの意味、間違えてない」
不満そうに天崎が呟く。それにイラッとくる。自分にとっては高めの設定にある店を
用意したのに、こんな言われようはないだろう。
「いつもこういうところで飲んでるの」
「いえ、もっぱらチェーン店ですけど」
「ふぅん」
鼻につく返事をされ、またイラッときてしまう。成績がいい分、鼻の長さまで立派に
なっているようだ。
「そういうそちらさんは」
「私はバーでしか飲まないから」
バー、って。また鼻につく感じだ。ただ、バーで飲む姿を想像するとしっくりきてし
まうのが悔しい。
その時、部屋の扉が開き、先方が部屋へと入ってきた。思考は一気に切り替わり、姿
勢がピンとなる。
「お待ちしていました、どうぞ」
そう笑顔で促すと、横から抜けていく気配がした。天崎だった。
「お掛けいたします」
天崎はそう先方の着ていたコートを受け取り、壁にあった掛けどころに備えていく。
その動作はとても手慣れていて自然だった。完全に出遅れた気がした。
こちらと先方の2名で乾杯をすると、会話は何でもない世間話から入っていく。正直、
そんな話をするためにここに来てるわけじゃないのはどちらも分かっている。単なる形
式だ。どこの誰が始めたのかは分からない、接待での会話の流れというものを着実に踏
んでいく。ここでは天崎はあまり目立ってこなかった。その分、ここぞとばかりに話を
弾ませていく。
一通りに盛り上げると、仕事の話へとシフトしていく。あえて流れは変えない。相手
の気が乗っている時にそうすることでこちらの案も良い気のままに取り込んでもらえる
ように。その進行に相手方も悪い印象は見せなかった。ここに来てもらえてる時点で、
相手もある程度は乗り気であるわけだし。
仕事の話を最後まで終えると、その後も軽い世間話をした。結局、最後まで天崎は前
に出てこなかった。世間話や彼の説明に補足を加えるぐらい。社内トップクラスの成績
やらさっきまでの調子はどうしたんだと思いたくなるほど、彼のサポート役のように終
始していた。
帰り際に、天崎は最初と同じようにして先方のコートを背中に掛けていく。見送りを
終えると、隣からフッと気の抜けるため息が聞こえた。
「終わった、終わった」
さっきまでとは別人のように言い捨てると、こっちはお構いなしにどんどん歩き出し
ていく。着いて行くと、面倒くさそうな表情を向けられた。
「何か用」
「何か用、って。別にそういうんじゃ」
「もう仕事じゃないでしょ、ここ」
数分前までの様はどこにいったんだってくらいに煙たげにされる。
「そりゃそうだけど。さっきの接待どうだったとかあるじゃん。どうせ、駅まで一緒
なわけだし」
そう言うと、仕方なしにって感じで歩を緩めてくれた。
「何、反省会とか勘弁だけど」
「そんなんじゃなく。ちょっと聞きたいこともあったし」
「何よ」
「さっき、接待の時にどうして一歩引いてたのかなって思って。全体的に僕に任せて
た感じだったし」
あぁ、と天崎は呟く。
「あなたのためじゃないわよ。基本、女に主導権握られると男はプライドが傷つくで
しょ。先方にそう思わせないために引いてたのよ」
そういうことだったのか。そこまで考えてたとは。
「なるほどね。てっきり、僕の進めてた契約だったからサポートに回ってくれてるの
かと思ってた」
「それもあるけど。それもあなたのためじゃなく、先方があなたから話されるのがい
いんじゃないかと思ったまでよ。まぁ、あなたのプライドがどうなろうが知ったことじ
ゃないし」
いちいちムカつくな。わざとだろ、絶対。伝谷さんが嫌になったのも分かるな。
翌日、先方からの電話があった。いくつか修正してほしい点を挙げられたが、根本的
な部分での否定はなくてよかった。きちんと誠実に対応していけば、きっと契約しても
らえるだろう。
「こんな言ってきたの、向こう」
昨日と同じく小休憩スペースでミーティングを始めると、天崎の第一声がそれだった。
「しょうがないだろ。先方には先方の思惑があるんだから」
「だからって、これは言いすぎでしょ。まさか、これ全部受けるつもりじゃないでし
ょうね」
当然のように言われる。ある程度は先方の思惑に応えたいタイプの自分としては少し
怯む。
「もちろん。先方とも折り合いをつけていくけど」
当然のように返した。本当は当然とまでは思っていなかったけれど。
「どうするつもり」
天崎はこっちを窺うように言った。なんだか、力量を試されるようで緊張してくる。
どう言えばいいんだ、この場合。いや、いつも通りでいいだろう。なにも変える必要な
んてない。というより、天崎に緊張してる方がおかしい。
「7割ぐらいのめればいいかなって思うけど」
理想は5割といきたいけれど、こちら側が折れたところも見せたいからそのぐらいが
いいだろう。こっちの誠意も伝わるはずだ。
「はぁっ。7割って嘘でしょ」
目の前の天崎は信じられないように言った。こいつは一体何を言ってるんだ、ってふ
うに。
「そのぐらいでいいだろ。こっちの誠意も見せたいし」
「何が誠意なのよ」
「向こうの提示の半分以上を受け入れたっていうふうに見せたいんだ」
「意味分かんない。そんなの、1割でも誠意よ」
1割、って。そりゃないだろ。
「それのどこが誠意だよ」
「向こうの提示の少しでものめばいいのよ。それで誠意じゃない」
「違う。そんなの先方が不快に思うかもしれないだろ」
「思わせないわよ。っていうか、あんたそんなやり方でやってきたの」
あんた、ってオイ。それはいくら成績優秀だからって言いすぎじゃないのか。いかん
いかん、ここでキレてたら子供と同じだ。
「あぁ、これでやってきたよ。何が悪い」
「信じらんない。誰か注意する人いなかったの。あっ、土場さんだからか」
オイ。こっちはよくても土場さんまで出すなよ。
「俺はこれでいいんだ。大体、そっちこそそんなやり方でよくやってこれたな」
「えぇ、やってきたわよ。より損失のない方法で結果を出してきたの。文句があるな
らどうぞ」
挑発的な態度に沸点に達しそうになったけどこらえるしかなかった。怒ってもどうも
ならないだろうし、天崎が結果を残してるのも事実だったから。
「どうやって1割で成り立たせるっていうんだ。先方が納得しなきゃ意味ないだろ」
「じゃあ、私がやるから任せてもらえる」
「嫌だ」
それは無理だ。ここまで自分が進めてきた契約なんだから、ここで何かごちゃごちゃ
させるわけにはいかない。
「何でよ。私がやった方が良くなるんだから任せなさいよ」
「そんな保障がどこにある。後でどうこうなってからじゃ遅いんだ」
「あのね、保障とか言い出したらキリがないじゃない。そんな安全に寄り添おうとし
てるから、そういう考えしか浮かばないのよ」
「大きなお世話だ」
だんだんヒートアップしていくのを抑えられなかった。休憩をとっていた社員たちの
視線を集めながら、お互いの自論をぶつけ合うと一時的な停戦に入る。もう引き下がれ
はしなかった。こんなに自分側の利益ばかりを追求したやり方でやらせるなんて許され
ない。
「悪いけど、今回は僕のやり方でやらせてもらう。僕が進めてた契約なんだからいい
だろ」
「あっ、そう」
強引に綱を引っ張ると、向こうは簡単に手放した。諦めたのか馬鹿馬鹿しくなったの
か。どちらにしろ、天崎にやらせると危険なことにもなりかねない。というより、これ
から本当にコンビ組まなきゃならないのかよ。こんなの続けてたら身がもたない、先が
思いやられるな。
それからは案を練り直し、先方の希望の半分を受け入れるということに落ち着いた。
自分の願望としては7割だったけれど、一応これからのパートナーということもあるか
ら天崎の言い分も考慮したつもりだ。まぁ、通常のやり方でやろうとすると大体は若桑
や成枝や土場に修正するように言われてしまうんだけど。
その案を携え、天崎と先方の会社を訪れた。先方の会社はウチよりも立派なビルの3
フロアに社をかまえている。大きさや階数だけでなく見晴らしのよさや清潔感などから
もそれは見てとれる。
「何をソワソワしてんのよ」
右隣の天崎に言われ、自分がそうしていることに気づいた。緊張すると体のいろんな
場所を触ったり、何度も息をついたりしてしまうのは癖だった。自分では沁みついてい
ることなので普通に近いことと思っているが、初めて目にする人には多少変に映るのだ
ろう。
「してないよ」
「してるでしょ。気になるからやめてよ」
嫌そうにされる。こっちとしては緊張すると出てしまうものなので諦めてもらいたい。
じゃあ緊張するなと言われても、それはそれで難しい。それに、ある程度の緊張感なら
持っていいものだと思うし。
「気にしなければいいだろ」
「はっ。まさか開き直り」
言ってろ、言ってろ。今は君にあれこれ感情を向けている暇はない。
「言っとくけど、今ごろ気にしたってしょうがないのよ。なるようにしかならないん
だから」
「分かってるよ、そんなことは」
「まっ、別に関係ないけど」
なんだよ、それ。せっかく良い言葉をかけてくれたのかと思ったのに。やっぱ、どう
にも合いそうにないな。
その時、先方が応接室へと入ってきた。自分や天崎への感情は遮断し、今ここに集中
を向ける。先方は先日の食事での接待の時の2人だった。
軽い挨拶程度の会話を終えると、本題へと入っていく。先方の提示してきた案へのこ
ちら側の返答。天崎の無茶な案を折り、押し通した僕の案を説明していく。先方は表情
こそ歪まなかったが、前向きに捉えてくれてるようにはまず見えなかった。
実際に先方の返答は渋りを含めたものだった。そこをなんとか、とこちらも引き下が
らずに粘る。交渉は粘りと折り合いだ。粘れるものは粘って、ダメなようなら折り合い
をつけることも大事になる。天崎も同じようにしていた。自分の使っていない言葉や向
けていない方向から説明を足し、踏みこみすぎないところで適度に止まっている。
結局、両者の思惑は平行線に終わった。まだまだ交渉の初期段階なので、そこまで結
果を求めていなかったのでこのぐらいというところだろう。今日の時点ではこれで満足
といえる。
最後にまた挨拶程度の会話を加え、帰ろうと立ち上がるとカランコロンという音が部
屋に小さく鳴った。天崎がペンを落としたようで、相手方の方へ転がっていったのをす
ぐに拾って「失礼しました」と微笑んでいた。別段何というふうにも思わず、部屋を後
にしていく。
「あれ、なんとかならないのかしら」
先方の会社を出ると、天崎がため息まじりに発した。自分へ言われているのか、先方
へ言っているのかに迷う。とりあえず、促さずに次の言葉を待つ。
「だらだら話すの。早く始めればいいのにとか終わらせればいいのにとかイライラし
ちゃうのよね」
いまいち掴めなかった。僕が分からないというようにしてると、天崎は「最初と最後
の方のやつよ」と付け足す。それで把握することができた。先方との話し合いの中での
始まりと終わりにした挨拶程度の世間話のことを言っているんだろう。といっても、案
についても触れてるからただの世間話というわけじゃない。それに、相手との間合いを
縮めるためにも必要なものだ。
「あれはあれで必要なんだよ」
「分かってるわよ。だから、別に止めたりしないじゃない。けど、もっと簡潔にやれ
ないもんなのかしらって思うだけ」
言い捨てるようにぶつけられていく。投げようのないイライラを自分を的にして済ま
せてるんだろう。こっちからすればいい迷惑だ。
「あのな、君はそうやって大口や愚痴をきかせてるだけじゃないか。横から茶茶を入
れるのも大概にしてくれないか」
「はっ、何言ってんの。あんたが自分の契約だからって勝手にやってるんじゃない。
私のやり方じゃ気にくわないんでしょ」
わざとこっちの怒りの種を伸ばさせるような言い方だった。爆発させてやりたい衝動
に駆られるけれど、それじゃ向こうの思うつぼのような気がしたからおさえた。
「あぁ、そうさ。君のやり方はこれまでは通ってきたかもしれないが今回のには合っ
てない」
「合ってるとか合ってないとか、そんなの決めるのは先方でしょ」
「そんなもの聞かなくても分かる」
言い合いのようにまでなったが、ここで天崎の方が引くように言葉を止めた。
「あっそう」
そう言い残し、さっさと先を歩いていく。なんだか向こうの方が大人なような気にな
ってムシャクシャは消えないままだった。
それから3日、先方との案の練り直しに四苦八苦していた。クライアントと先方、双
方にとってどうするのがベストになるのかを数えきれないぐらいに頭に働かせていく。
一応天崎ともミーティングをしたりしたが、基本的に彼女は自分の主張は出さずにサポ
ート役に徹していた。それはありがたくはあったけど、これまでの彼女の言動や社内ト
ップクラスの成績からすると不気味ともいえた。
その作業が佳境に入っているときだった。それはあまりに突然、終結された段階とし
て突きつけられる。「別件を頼まれたから」と2~3時間外出していた天崎が帰社する
と、成枝のデスクまで書類を差し出してこう言った。
「進めていた田代様との契約、結んできました」
耳に入った瞬間、何を言ってるのか理解できなかった。だって、今まさに自分がその
契約の案を作っているんだから。でまかせにしてはずいぶんタチの悪いものだが、そう
ではないのは分かった。係長に報告をしているんだから、そんな冗談を3年目の人間が
するわけがない。
じゃあ、一体どういうことなんだ。全く理解は進まない。
「分かりました。よくやったわね」
書類を確認すると、成枝はそう天崎をねぎらった。話が終わり、向かいのデスクへと
何ということもなく座る。こっちに対して何の言葉もない。
「おい」
たまらず声をかける。
「何」
「どういうことだよ」
「どういうことってどういうこと」
白々しく返してくる。
「ふざけるな。契約結んだってどういうことだ」
「そういうことよ」
「嘘つくな。そんなことがあるはずないだろ」
そう言いつけると、天崎は息をついて手元の書類を渡してきた。それを受け取り、内
容に目をとおしていく。そこにあったのは紛れもなく契約が結ばれたというものだった。
嘘だと思いたかったが、それは現実逃避にしかなりそうにない。
「ちょっと来い」
余計に理解に苦しみ、そう雑に告げて歩き出す。もう自分の想像の中では状況の枠を
組み立てるのは困難だと悟った。
営業部を後にし、誰もいない会議室の中へ入る。いつもの小休憩スペースでする話で
はなさそうだからそうした。
「ねぇ、許可もなく使ってもいいの」
部屋に入ってくるなり天崎は言った。今にかぎってはその語調により感情をたかぶら
せられる。
「もう一度聞く。これはどういうことだ」
渡された書類を見せ、再び問う。他に誰もいない分、さっきよりも言葉は強くなって
いた。
「だから言ってるじゃない。そういうこと」
天崎からの返りは変わらない。
「そんなことを聞いてるんじゃない。どうして君がこんなものを持ってるんだ」
「契約をとってきたからよ」
「いつ」
「さっき」
「どうやって」
「そんなのわざわざ説明しないわよ。面倒くさい」
馬鹿にされたような気分でならない。天崎から言葉を返されるたびにその思いは増長
していく。
「まぁ、しいて言うなら・・・・・・あなたが嫌がってた私のやり方で、ってところ
かしら」
その言葉は今手にしているこの契約書類から読みとれた。契約は先方の提示の2~3
割ほどを受け入れたものになっていた。当初の7割、その後に妥協した5割よりもまた
下に押さえた結果だった。
「どうして一人でやった。勝手な行動もはなはだしいぞ」
「あなたがちんたらやってるからじゃない。こういうのはね、スピードも大事なの。
慎重にやりゃいいんじゃなく、時間が経つにつれて相手もこの交渉に新鮮味がなくなっ
てくってこと。あんたみたいなとろとろしたペースじゃそれがなくなるのよ」
あんた、ってまたかよ。いい加減にしてくれ。
「じっくりやることも大切だ」
「それは言葉を良くしてるだけ。そのときそのときのタイミングってもんもあるの。
流行の流れを読んでるうちにピークは下降してるし、回転寿司のネタを見極めてるうち
に鮮度は落ちてるし、家電の性能を見てるうちに新商品は並んでるの。それを無視した
ようなやり方がいつでもどこでも通用すると思ったら大間違いよ」
天崎の言葉に返答に詰まる。その言葉は確かに納得せざるをえないものではあるから。
怒りはとめどなく込み上げてくるにしても彼女は結果を出している。ただし、いくらな
んでも強引が過ぎる。
「だからって、あまりにも一方的すぎる」
「なら、あなたに言ったら許可したっていうの。絶対しないでしょ」
するわけないだろ、こんなの。
「僕がいないことはどうした」
「別件にまわったことにしたわ。残念ながら大した話題にはならなかったけど」
悔しくてたまらなかった。出し抜かれたことも、あっさりと結果を出されたことも。
自分はこの契約になくてもよかった存在なんだと認識すると空しささえ生じてきた。天
崎のやったことは許さないにしても、突きつけられた現実に心は強く傷つけられた。
「勝手な単独行動は悪かったわよ。でも、これであなたのやり方は見直すべきだって
分かったでしょ。悪いこと言わないから私のサポートに回っておいたら」
そう言い残し、天崎は部屋を後にしていった。一人になった会議室の中の孤独感が今
の自分にぴったりだと思えてきた。
それからも同じ境遇は連続された。仕事を任されると、当初は2人で取り組むものの
契約の交渉案を練る段階になると必ず意見がぶつかる。そうやって対立している間に天
崎は勝手に契約をとってきてしまう。
僕はクリーンオフィスにも先方にもクライアントにも納得してもらえるところを探そ
うとするのに、天崎はクライアントを重視して先方のことはお構いなしにする。確かに、
依頼者の利益に重点を置くのは間違っていない。会社は依頼者からのお金で成り立って
るわけだから。ただ、その交渉は先方を含めた三角の関係になっている。なら、そのも
う一つを無視するようなやり方は違うはずだ。そう信じ、連戦連敗にも引き下がること
はしなかった。
でも、そのたびに折れそうになるのも確かだった。
「何でなんですか。僕の何がいけないっていうんですか」
無様な負けっぷりを続けているのに見かねたのか、土場と伝谷から飲みに誘われた。
そこでまた無様な潰れ方をし、日頃のうっぷんを撒き散らすようにくだを巻いていく。
「お前が悪いわけじゃねぇよ。ただ侑子ちゃんが出来すぎるんだよ」
土場からのフォローはありがたいけど、そんなふうには割りきれない。
「あいつは例外だから。特別。それでお前が気を落とすことないよ」
伝谷からの言葉は現実味があった。きっと自分と同じように天崎にやりたいようやら
れたんだろう。そういえば、2人が言い合いをしてる場面を目撃したことがある。あの
ときも天崎の方が押しきっていた印象だった。結果を残してる分、彼女の言葉には力が
ある。
「まずあの図々しさをなんとか出来ないんですかね。こっちに何の相談もなく契約を
とってくるなんて常軌を逸してる。いくら僕が反対するからって言っても、普通は断り
ぐらいするだろ」
愚痴を言っているのは分かってた。ただ、それでも吐かないとこの思いはどうにもし
ようがなかった。
「そんなら、断ってたら許可してたのかよ」
「・・・・・・してませんけど」
「じゃあ意味ねぇだろ。そんな落ち込む前にちょっとでも侑子ちゃんに近づけるよう
に頑張れ」
頑張れ、って言われても。そもそも根本的な部分が違うわけだから。天崎は元々の勝
ち気な性格があって、契約をとってくるごとに自信をさらにプラスさせてより強力にな
っている。自分が彼女と同じ境遇ならそうなったかとなればそうはなっていないだろう。
多少は強気にもなっただろうが僕はあくまで僕のままだ。
でも、このままでいいはずはない。コンビなんだからこんな状態ではいられない。ど
うにかする必要はある。
「僕、なんとかあいつに自分を認めさせたいです。上に立つことは難しくても、僕な
りのやり方で無理でしょうか」
「まぁ難しいだろうな。お前と侑子ちゃんじゃ差がありすぎる」
そんなことは充分承知している。そうだとしても何か現状を覆せるようなとっておき
はないだろうか。
「いや、弱味を握るとかならいいんじゃないか」
そのとき、伝谷がひらめいたように呟いた。
「そりゃ、そんなもんがあんなら悟空がシッポつかまれるみたいになるかもしんねぇ
けど。でもよ、弱味を握るなんていやに幼稚なやり口だろうよ。そんなもん小学校や中
学校どまりだろ」
土場はそうはねたけど、こっちはその言葉で想像を始めていた。天崎の弱味、そんな
のなさそうだけどあるのなら確かに弱点にはなりうる。ただ、土場の言うようにそこに
つけこむのは姿としてみっともない。弱肉強食の対抗ならともかく仲間ではあるわけだ
から。
「第一、侑子ちゃんに弱味なんかあるのかねぇ。何もかも完璧にさらっとこなしてそ
うだしな」
それはそうだ。弱味だとか弱点だとか、それ自体が仕事をしている彼女には見受けら
れない。
「俺、一つ思ってることがあるんです」
自分の中で半ば諦めで完結させようとしたところ、伝谷がちょっと待てとばかりに入
ってきた。
「あいつ、もしかして女を使ってるんじゃないかって」
瞬間では理解できない一言だった。捉え方の次第で深さの変わる言葉。
「どういうことだよ」
「色気で相手おとしてるんじゃないか、って思って」
「はっ。何だよ、それ。変な接待してるとでも言うのかよ。馬鹿馬鹿しい。考えすぎ
だぞ、お前」
「ただ、そうでもないとあの契約の早さはおかしいんですよ。普通にやってたらあれ
だけの短期間で契約を結ぶなんてまずないです。何かしら特別なことでも動いてないか
ぎり」
伝谷の言いたいことは分かる。天崎の契約をとってくるスピードは並大抵のものじゃ
ない。コンビ間の意見の食い違いが露呈されてから数日内には全てを完結させている。
それをおかしいと思うのは当然だろう。だからといって、そこまで突拍子もない意見を
持ってくるのはさすがに彼女に失礼だ。それが彼女の実力なら、これは僻みでしかない
わけだし。それに、意見の食い違いが生じる前から水面下で先方にモーションをかけて
るのかもしれない。
それから数日、新しく任された契約を行っていると案の定に天崎と言い合いを続ける
毎日になっていた。これまでと同じように、これからも同じような展開になるんだろう
と思うとため息は自然にこぼれていく。
ただ、今回にかぎってはそうとはいかなかった。デスクで案を考えるのに煮詰まり、
外の空気でも吸いに行こうとビルの中庭に出ると天崎の姿があった。気分転換のために
来たのに彼女と鉢合わせたくなかったので身を隠すと、興味本位でその会話の内容に耳
を傾けていく。
驚いたのは彼女の様子だった。簡単に言うと女の子らしかった。いつも面と向かって
言葉をぶつけあってる様は男も顔負けの迫力があり、強気で自信に満ちた普段の様子か
らは想像がつきにくい。恋人とでも話してそうに思えたけれど、会話から相手は契約の
交渉を進めてる先方のようだ。どうして先方とそんなフランクな話し方なんだと疑問は
あったが内容を聞きもらさないように注意する。どうやら、今夜食事をする約束をして
いる。
電話のやりとりが終わると、天崎に見つからないうちにと静かに急いでその場を離れ
る。そして、どこということもなく歩きながら天崎の言葉を頭の中に繰り返していく。
ああやって契約をとりつけるために動いていたんだなと確認できた密かな喜びとともに
先日の飲みの席での伝谷さんの言葉が思い返された。勝手すぎる単独行動、早すぎる契
約の成立。想像をリンクさせるのは難しかったけれど正論で説明するのも難しく、どう
にも煮えきらなかった。
その日の夜、心のモヤモヤを解消できなかった結果、僕は天崎と先方との食事の席の
店を訪れていた。密会と称していいかは分からないが、少なくとも僕には秘められたも
のではある。隠されると知りたくなるのは人間の性といえるけど、ここまで扉を開きか
けてるんだからどうにかしたいと思った。
天崎が交渉の席として用意したのは個室ダイニングの店だった。照明も適度に薄暗く、
耳に心地いいジャズのBGMが流れ、ゆったりと落ち着ける空間でカップルにはもって
こいの雰囲気だ。一人で行くような店ではなかったがここにきて引き下がれはしない。
天崎が入店すると、その後を追って店に入って隣の部屋を指定させてもらう。適当に
注文をすると個室の中を見渡していく。こんな店を用意するなんてどういう意図なんだ
ろうか。仕事の交渉を真剣にする場にはそぐわない。考えるほど歪んだ形が浮かび、そ
れを消していく。
20分弱で先方は来た。部屋の前を行き交う様子を暖簾の下から確認し、隣の部屋か
らも会話は聞こえてくる。個室の上の方は筒抜けになっているので会話は耳にすること
が出来たが何を話しているかまでは分からなかった。それでも聞き耳を立てて最大限の
努力を試みる。
最初は仕事っぽい調子だった。会話の内容は分からずとも天崎も相手もいつもの様子
がうかがえる。おそらく、自分とは別の天崎が用意した案についての説明がされている
んだろう。
変化があったのは話が始まってから30分が過ぎた頃だった。だんだん小声になって
いき、隣の部屋から聞こえてくるのは微かな物音ぐらいになった。言葉もそれがそこに
存在しているのが確かめられる程度のものでしかなくどんな会話がなされてるのかを想
像することさえ不可能になる。それはこの店の持ち合わせている雰囲気に重ねることも
出来るほどだ。明らかにおかしい。契約の交渉をする度合いではない。一体、向こうの
部屋では何が行われてるんだ。
結局、その展開は最後まで続き、ただ耳をすませてやきもきするしかなかった。
隣の部屋からごそごそと帰り支度の音がしてきたのでこちらも急いで支度を進める。
2人が部屋を後にする様子を暖簾の下から確認し、店を出た頃合を見計らって部屋を出
る。警戒しながら店を出ると2人はすでに遠目を歩いていたため、焦ってその後を追っ
ていく。
前を歩く歩調と同じ速度で気を張り詰めて歩を進ませていく。もちろん、良心は痛ん
でいる。僕は何をやっているんだ、こんなところがバレたらタダじゃすまない、と何度
も考えた。それでもその足は止まらない。好奇心もあったかもしれない。緊張感の中で
起こる錯覚もあったかもしれない。ただ、心の中で何か根拠のない自信があった。良い
ものじゃなく悪い方だ。それをこの目で見ないと、きっとこの先どうにもならない思い
に駆られていくに違いない。何であの時に、と絶対に後悔するはずだ。そう勝手に近く
自分に思い込ませていく
そして、その自信は確証となって眼前に映し出される。夜の街を歩いていた2人は立
ち並ぶホテルの中の一つへと入っていった。ホテル街に踏み入った時にはまさかと思っ
たが悪い胸騒ぎは的中してしまった。当たらなくていい予感が現実になり、ただ愕然と
なる。頭の中は混乱を極めて正常に動いていない。何が起こったのか、と目の前の事実
を拒否しようとさえしている。
しばらくそんな思考の繰り返しが続いた。実際の時間はそんなではなかったと思う。
ホテル街で立ち尽くす男なんておかしい。目的が見えない。珍しいものという目で見ら
れるに決まってる。その視線に耐える気力はない。だから、長くはなかっただろう。た
だ、それはとてつもなく膨大なものに感じられた。先の見えない、掴みようのないもの
だった。
やがて、その場を離れていく。力のない意思の欠けた歩き方で。気力を奪われた分だ
け傾いた猫背で前方へ進み、重力でのみ地を足につけているような感覚だった。頭に幾
度も巡る思考に全てを向けようとして、そんなポンコツなロボットみたいになってしま
っていた。
帰り道も、家に帰ってからもずっとそのことだけを考えていく。終わりのない道を走
っているような感じだった。ああいうところに入ったということはその先を予想するの
はあまりに簡単なことだ。どうして。本当に伝谷さんの言うような理由なんだろうか。
天崎の仕事の早さの裏の真実ということなんだろうか。いや、単にあの2人が普通な流
れでそういう関係に発展したのかもしれない。でも、それにしてはおかしい。あの2人
が知り合ってからじゃ時間が短すぎる。そんなに急速に近づいていった形跡も全くない。
なにより仕事の話をした後に、というのも変だ。それに、先方の担当者には妻子がいる。
なら、不倫か。いや、どっちにしろ不倫だろう。待て、本気でないのならそうは言わな
いのか。あぁ、もう頭がどうにかなりそうだ。
結果、正解に行き着くことは出来なかった。当然だろう。この解消できない思いに心
を疼かせたままでいないといけない。いっそ、見ない方がよかった。見なければ後悔す
ると思ってたのは見ても見なくても後悔する現実だった。この先を考えるのは止めにし
て無理に寝に入っていく。確実な現実逃避でしかないと悟りながら。
その翌日と翌々日、仕事にうまく集中できなかった。理由は向かいの席にいる天崎に
他ならない。あの後に一体何があったのか。それに思考回路は捉われていた。
目の前に彼女がいるとそれを思い浮かべてしまうし、彼女が外出すると自分に内緒の
先方との打ち合わせなんだろうと思ってしまう。一度だけ僕の案でのミーティングもし
たが、こんなことは全て無視されて裏では勝手に契約を進めてるんだろうと心では思っ
ていた。
そして、そのときは訪れる。外出から戻ってきた天崎は成枝のデスクへ書類を差し出
す。来たか、と思った。
「進めていた政広様との契約、結んできました」
これまでなら急すぎる終結として突きつけられてきたその言葉に驚きはなかった。理
解は可能だった。ただ、分かっていたはずのその結果に心を苦しめられる。一昨日の夜
のあの出来事はそういうことなのかという予想が事実により近づいた。
「分かりました。よくやったわね」
書類を確認すると、係長は天崎をねぎらった。向かいのデスクへと座ると、土場から
も声を掛けられる。何も知らない人たちの反応だ。前までは自分もそっち側だったのか
と思うとなにか騙されていたような感覚にさえなる。
それからも仕事には打ち込めなかった。いいや、気がおさまらないのは増していた。
視線を何度と天崎の方へ向けたが何の変化もない。その様に感情は沸々と込み上げてく
る。あんなことをしておいて、どうしてそんなひょうひょうとしていられるんだ。おか
しいだろ。あんなの反則に決まってる。そういくらでも溢れてくる思いを胸の内に留め
るのに必死だった。
「おいっ」
その日の就業後、そわそわしながら天崎の終わりを待って、帰るところを狙って声を
掛けた。正直、どうするべきかは迷った。仕事そっちのけでそのことを考えていたと言
っても過言じゃない。いいんだ、どうせ俺の努力なんて天崎の裏接待に消されるだけな
んだから。そう、僕はそれを解決しなければならない。このままじゃ、いつまで経って
も同じ事の繰り返しにしかならない。こっちがどれだけ知恵を振り絞っても全てが泡と
なるだけだ。そんなんじゃいけない。きちんと企画で勝負をしないといけないし、何よ
り彼女に間違いを気づかせないとならない。
「何よ」
「これから時間空けられるか」
「これから」
「あぁ」
「どうして」
天崎の言葉の返答に怯む。
「どうしてもだ」
付け焼き刃のように返すと天崎は息をつく。
「何。ここで言って」
こんなところで言えるわけないだろ。
「ここじゃダメなんだ。どこか別のところがいい」
「会社は」
「会社もダメだ」
誰かに聞かれでもしたらどうすんだ。
こっちの執着に折れたように天崎は嫌々な表情を見せる。
「分かったわよ。どこ行くの」
全く乗り気でない天崎を連れ、歩き出す。実のところ、まだ心の中は決まっていない。
どこまで踏み込んでいいのかに悩んでいた。きっとこのまま僕がスルーすれば何事にも
ならずに終わるのだろう。ただ、このままでいいわけはない。仕事を受けるたびに天崎
との意見は食い違い、自分が案を考えているうちに天崎が契約を裏でとってくる。それ
だけじゃ、天崎の評価は上がって僕の評価は下がるだけだ。仕事はもっと正当でないと
いけない。コンビを組んでる者同士ならなおさらだ。それに、あんなことで契約を成立
させるなんて政治家に賄賂を贈ってるようなものだ。誰かがちゃんと言ってやらないと
彼女のためにもならない。それは充分に分かっているが、事が事だけにどう進めていい
のかに迷いが解けない。
そんな状態のままで目的地へと到着した。連れてきたのは一昨日の夜に来た個室ダイ
ニングの店だった。当然、天崎には疑問符がともる。自分の使っている店をこの男がど
うして知ってるんだ、と疑う。今、彼女の頭の中では様々な憶測が飛んでいることだろ
う。もしかしたら、と真相に感づいているかもしれない。その方がこちらとしてはあり
がたい。急な告白よりも伏線が張られてる方が衝撃は和らぐだろうから。
店に入り、部屋へ通されると一昨日と同じように適度に薄暗い照明や心地いいジャズ
のBGMに迎えられる。メニューはビールだけを頼み、天崎も「同じでいい」と続けた。
店員がいなくなると、部屋にはピンと張った空気が流れていく。カップルなら穏やかに
ゆったりとなれる空間だがここの間にはない。2人ともこれから起こるであろう展開を
探り合っている。天崎は僕の出方をうかがうように視線だけを向けている。怯みそうな
心にグッと力を入れ、「行け」と自分自身の背中を押した。
「一昨日の夜、ここで君を見た」
どうすべきなのか、結論は固まらないまま口を開いていた。どうせ、このまま悩んで
いても迷い続けるに違いない。一昨日のようにどちらに転んでも後悔が伴うのかもしれ
ない。それなら、身を守るよりも当たって砕けよう。
「君は政広さんとここに来ていた」
言葉の間に間を置かせていく。天崎の反応を見るために。彼女はこちらへ向けている
視線をそらさなかった。心の中は揺れていると思う。ただそれを表には出さない。充分
に間を取ると、「そういうことか」と小声で呟いた。
「付けてきたわけね、私を」
天崎の言葉に何も返答はしない。それについては何の弁解の余地もない。
「人のこと付けて秘密探ろうなんて最低ね」
強く投げられたその言葉は僕の心に傷をつけた。確かに僕は最低なことをした。他人
の隠しているものを無理やり見ようなんて馬鹿なことだと思う。半分はそんな卑しい思
いがあった。でも、もう半分は天崎が間違いを犯してしまってるんじゃないかっていう
思いだった。もしも予想が当たっていたとしたら正しい道に戻してやらないといけない
んじゃないか、って。それは簡単なことじゃないけどもそのままにしておくよりは絶対
にいいはずだ。その点については間違ってない、と刻みつける。
「君の言う通り、僕のやったことは最低だ。それに関してはいくらでも謝る」
「ただ悪い予感があったんだ。君が契約をとってくるのはいくらなんでも早すぎる。
何かあるんじゃないか、そこに何か良からぬことがあるんじゃないか、そう思った。そ
して・・・・・・それは現実だった」
自分が一昨日目にしたのはこの店で見たものだけでなくその先も、という意味を込め
て発した。踏み込んでいいラインを超えているのは分かってる。けど、それでも超えな
いとならないラインでもあるはずだ。
「どうしてだ。何で君がそこまでする必要がある」
問い掛けると天崎は返答に窮する。視線は外し、今どこまでを口にすればいいのかに
頭を働かせている。全てを投げるのか、程々に包ませながらなのか、ダンマリを決める
のか。
「それが仕事をとってくる最も効率のいい方法だから」
覚悟を決めたように表情を澄まして天崎は言った。
「効率」
「えぇ」
悪びれた様子が一切見えない。僕に対してそれをする必要はないんだろうけど、自分
のやっていることが分かってないのか。
「たったそれだけで」
「悪いの。自分の武器を使っただけじゃない」
「武器」
「そうよ。私は女だし若い。それを有効に使っただけ。あんただってあるでしょ。そ
の暑苦しいぐらいの感情で相手の懐に入るとか。それと同じ。他の人より自分の長けて
るものを利用するなんて当然のこと」
「言っとくけど、相手も合意の上だから何しようとムダよ。2人の間で成立してるん
だからあなたに入り込む場所はないの」
あたかも自分は何も悪くないと言いたげだった。腹が立った。自分のしている事の重
大さを理解していない。
「政広さんには家族があるだろ」
「知ってるわよ。バレなきゃいいんでしょ」
「君だって、万が一こんなことが会社に知れたら」
「そうね、100%クビでしょうね。でも、大丈夫。そうならないように手は打って
あるから。相手がもし漏らすようなことをしたら痛い痛いペナルティを科す約束をして
るの。少なくとも、今ある家庭や役職は崩落すること間違いなしね。そんなことまでし
て言うはずないわ」
天崎が裏の裏で何をしたのかは分からないが、この余裕からすれば相当な自信がある
んだろう。
「まぁ、あなたが言わなければなんてことないわけよ」
「違う、そんなの。君は間違ってる。こんなことしちゃいけない」
そうだ。人としてこんなのいけない。
「お説教なら勘弁だけど。あんた、いちいち暑苦しいのよね。そういうの私苦手なん
だけど」
「苦手とか、そういう問題じゃない。そもそも、それの何が悪い」
「別に、熱血なのは勝手だから否定しないけど。でも、熱いだけで人の心なんか動か
せないの。100の力で失敗する人もいれば、50の力で成功する人もいるの。だった
ら、どっちを選ぶのが効率がいいと思う。明らかに後者でしょ。あなたは前者でもいい
とか言いそうだけど、だったら残りの50の力を別のところに注いだ方がより良くなる
じゃない。そう思わない」
それはそれで合っていることだろうが、天崎のやっていることはそこに嵌めてはいけ
ない。もっと根本的な問題だ。なのに、彼女はそれを普通のことのようにしている。
「あんたも私のこと付けたわけでしょ。それだって充分やっちゃいけないことじゃな
い。それを開き直ったようにしちゃってさ、自分に都合のいいようにしないでよ」
捨て台詞のように言い、天崎はその場を去っていった。誰もいなくなった部屋で深い
ため息をつく。自分の無力さが嫌になった。
それから先も天崎は自分の仕事のやり方を変えなかった。本当にそうなのかを確認し
たわけじゃなかったけど、契約を結んでくる早さに変わりがないのでそういうことなん
だろう。
同じように自分も仕事のやり方を変えなかった。彼女に何と言われようと、こちらが
どれだけ頑張ろうとも彼女が先を越してくるのが分かっていようと変えなかった。変な
意地もあっただろうけど、これで諦めてしまうのは違うと思った。
天崎もそんな僕のやり方に付き合っていた。多分、嫌々だろう。通りはしない僕の案
についてのミーティングも行い、意見も交わし合った。お互いにお互いの芯を知ってる
くせに表の部分でのみ接していた。
そんな繰り返しを続けていくうちにだんだん心は詰まっていった。こんな事実を知っ
ていながら何もしてやれない自分に苛立ちが募っていった。天崎には隠していたが、本
音はどうにかしてやりたいと思っていた。自分自身もこのままではいけない。意地を張
るのはいいが、このままを続けていても契約をとってこれない。ほぼ全てを彼女に持っ
てかれることになる。しかも、それは裏側で交渉が行われている。こんなことが続いて
ちゃいけない。
そう自分を鼓舞するようにし、再びラインを超える覚悟を決めた。どうせもう一度は
超えたんだからなんて自棄じゃなかったけど、多少の無理があろうと現状を打破する必
要がある。
天崎の裏側を突きとめる作戦を練るのは難しいものじゃなかった。前回の傾向から対
策を立てればいいだけだ。僕と天崎の案の食い違いが生じる頃合になると、彼女の帰社
のタイミングを見て後を追っていく。そうすれば、近いうちに交渉の場所に出くわすは
ずだ。
そして、それは行動を始めた2日目に訪れた。帰社後に天崎を追っていくと、前回と
は違う個室ダイニングの店へと入っていった。ここだと思い、店には入らずに外で張る
ことにする。前回からすると店内にいても会話を聞き取ることは出来ないだろうし、そ
こでの展開は想像がつく。大事なのはその後、それを分かっている。
15分後に交渉中の先方が姿を現し、店内へ入っていく。その1時間後に2人は店か
ら出てきた。後ろを付けていくと、長くせずに2人はシティホテルへと消えていった。
チェックインを遠目から確認し、ホテルへと入る。エレベーターの降車階数で階を見き
わめると、ホテルの外に出て明かりの点灯した部屋を2人がとった部屋と定めた。まる
でストーカー並の執拗さに感じたが、これが僕と天崎にとって正しいんだと今一度刻み
つける。
深呼吸をする。決意をブレないものとする。再びシティホテルへと入ると、さっき確
認した部屋へと向かう。
部屋の前へと着く。今この中でどんなことが行われてるのかと思うと高揚していく。
興奮というよりこれから自分のすべき行動へ気を高めていく感覚だった。
息をつき、部屋の扉をノックした。鼓動は早くなり、もうどうにでもなれという思い
なのが正直なところだった。しばらくして、扉がゆっくりと開いてくる。その隙間から
顔をのぞかせたのは天崎だった。当然、驚きの表情になる。
「何してんのよ」
すでに薄着になっていたせいか困惑に近い状態になっている。そんなことはお構いな
しに扉を開け、「ちょっと」という制止も気にとめずに中へ入っていく。奥まで踏み込
むとそこは異質な雰囲気が漂っていた。ベッドの上には天崎の上着が無造作に置かれて
あり、先方はその側に座ったままこちらを見ている。当然、反応は天崎と同じだ。
「申し訳ありません、ウチの天崎がこのようなマネをいたしまして」
深く頭を下げ、謝罪の言葉を掛ける。誠意を込めて謝る。辿り着いたのはあまりにも
古典的なものだった。もちろん、これでどうにかなるわけがないだろう。一応2人が同
意の上でここに来ているのなら、僕のしていることは邪魔でしかない。契約はこじれ、
天崎からは罵声を浴びせられるだろう。ただ、今の僕にはこれしかないんだ。進まなけ
ればならないんだ。
「ちょっと、この女は何なの」
先方から返ってきたのは天崎に対しての攻撃的な言葉だった。天崎の誘いに怒りがあ
るのか開き直りなのかは分からない。言葉遣いの異変には気づかなかった。それだけの
ゆとりはなかった。
「本当に申し訳ありません。謝ってどうにかなることじゃないのは分かってますが、
なにとぞお許しください」
謝罪を続ける。許す許さないの次元じゃないかもしれないが、とにかく今はこれしか
出来ない。込められるだけのものを込め、頭を下げることしか。
「じゃあ、代わりに君だ」
先方からの言葉の異変に気づいたときにはもう遅かった。顔を上げて目が合うと、急
に体ごとベッドに押し倒される。訳が分からないままでいると、体の上に乗っかられて
事態の深さに思考が届いた。これってものすごくまずいんじゃないか、そう悟った時に
はすでに体が反射的に動いていた。迫ってきた先方の体を掴み、ベッドの下にまで投げ
飛ばしていた。
一瞬静まった部屋の中で何が起こったのかを理解しようと頭を働かせていると、手を
掴まれてグイと引っ張られた。振り向くとそれは天崎だった。
「行くわよ」
そう言い、強引に僕を連れて行こうとする。まだ理解がしきれていないせいで、ここ
を離れていいのかどうかを判断できていない。この場を去るということは逃げるという
ことで、先方との契約も無くなるということにもなる。それでいいんだろうか。ただ、
今は冷静な判断が出来ない自分の曖昧な考えよりも彼女の判断に委ねた方がとりあえず
はいいのかもしれない。
天崎に手を引かれながらシティホテルを脱出し、しばらく走り続けた。ある程度のと
ころまで来ると止まり、息の乱れを整える。その間に自分がしたことのあれこれを思い
返していく。
「しまったぁ」
思わず声が出てしまった。目をつむり、後方へのけぞる。本当は天崎の馬鹿な行為を
止めさせて、あらためて契約の交渉を申し込むつもりだった。なのに、自分が投げ飛ば
してしまうなんて。完璧に契約は破棄だ。それどころか、あんな目にあわせてしまった
のだからタダじゃすまないかもしれない。クリーンオフィスへ苦情が来たりしたらどう
しよう。
「ねぇ、あんた何か勘違いしてない」
天崎の言葉に現実に戻される。勘違い。僕の考えに勘違いがあるのか。それは良い方
のものか、悪い方のものか。
「勘違いって何が」
「あの人、ゲイよ」
「はっ」
一体、何を言ってるんだ。言葉が衝撃的すぎて理解に戸惑った。現時点での自分の許
容できる程度を超えていた。
「どういうことだ」
「だから、そういうことよ。私が迫っても何も興味を示さなかったわ。そんなのおか
しいと思って探りを入れたら案の定」
「そんな・・・・・・話が飛び抜けてて分からない」
「簡単じゃない。あんた、あの人に迫られたでしょ。私じゃなくてあんたが。それで
充分じゃない」
その説明でようやく事態を把握できた。崩れるようにその場に座り込む。まさか、そ
んなとんでもない展開になるなんて。
「っていうか、笑えるわよね。あんた、あんなオヤジにヤラれそうになったのよ」
小さく笑う天崎に怒りを覚える。君のためにわざわざあんな危険な賭けをしたってい
うのに。
「もう最悪だ。これで契約の不成立は間違いないし、ヘタしたら先方から抗議も来る
かもしんない」
「いいのよ、どうせ交渉成立しなかったんだし。それに抗議もないわよ。内容が内容
だし。こっちも向こうがゲイだってこと分かってんだから大したことは出来やしないっ
てば」
慰めてくれてるんだろうがありがたみは薄かった。それよりも精神的なショックが大
きい。
「しっかし、まさかゲイだとはねぇ。こういう展開もあるのね。計算外だったわ」
天崎の態度は実にあっけらかんとしたものだった。反省の色はまるでない。
「君はいつもこんなことしてるのか」
「えぇ、そうよ。それが。悪いの」
開き直りもここまでくれば褒めてやりたい。実際に褒めるほど余裕はないけれど。
「悪いとかじゃなく、もっと自分を大事にしろよ」
「気にしないで。エッチは結構好きだから」
「そういうことじゃないだろぉ」
深い息をつく。彼女には何を言おうと無駄骨なのか。良くも悪くも自分のスタイルを
貫いている。こっちがやったこともおそらく彼女にとっては何ということもない小さな
ものなんだろう。
「でも、ありがとうね」
「えっ」
強気な言葉の中での突然な感謝の言葉に驚いた。
「一応、助けようとしてくれたわけでしょ」
「まぁ・・・・・・それは」
言い方自体はぶっきらぼうだったけれど、それは彼女らしいともいえた。感謝を求め
てやったわけじゃなかったから変な感覚も伴う。
天崎は座り込む僕に手を差し伸べてきた。その手を取り、グッと引っ張られて起き上
がる。接近した間に妙な空気が流れていく。
「まっ、こっちからしたら単なる空回りにしか見えなかったけどね」
「君はなぁ」
「何でそこまでやろうとするのかは分かんないけど真っすぐもそこまで行ったら病気
ね」
せっかくの和んだ空気を打ち消される。この減らず口はなんとかならないとかと息を
ついていると唇に合わさる感触があった。キスされていた。直りかけていた頭の中身が
またこんがらがる。
「一応のお礼」
「はっ」
何だ、それ。お礼がキスってどんだけだよ。
「さっ、次はちゃんと仕留めて今日のミスを帳消しにしないと」
キスのことは流れ去ったように天崎はもう次の話をしていた。
「おいっ、言っとくけどあんなやり方は二度とするなよ」
「さぁ、どうでしょうねぇ」
「どうでしょうじゃない。あんなことはやめろ」
「別にいいでしょ。私がどうしようが。私は私のやり方でやるからあんたはあんたの
やり方でせいぜい頑張りなさいよ。まぁ、報われない努力でしょうけど」
笑みをこぼしながら言う様に怒りが込み上げてくる。あれだけしてもまだ分からない
のか。
「つくづく分かったよ。君とは本当に合わない」
感情を出し、強く言い捨てる。
「こっちのセリフよ、バーカ」
同じように天崎も言い捨て、さっさと歩いていってしまう。その後ろ姿を見ながら、
かつてないほどの気に満ちていく。ここまで言って通用しないなら勝手にすればいい。
僕は僕のやり方で必ず勝ってみせる。
もう、成るように成れ。
本に換算すると、43ページになる短篇です。
反対な性格の男女がぶつかり合う話をストーリーにしようと思いました。