1 猫になった
気が付くと私は猫になっていた。
その時、私は何も考えずぼんやり宙をみていた。そこへ体が飛ばされそうな程強い風が吹き、私は自分を守るように手足に力を入れて踏ん張った。風は周囲を駆け、すぐに遠くへいってしまった。
風が通り過ぎて落ち着いてから、ようやく意識が戻ったように風景が目にはいり、『あれ』と私はあたりを見渡した。
低い視点、獣の手足。
私が猫になっている。不思議なくらいすんなりとその答えにたどり着いた。私がそのことに気づくのにそう時間はかからなかったし、苦労もなく受け入れられた。
いつからそこにいたのかわからない。どうしてこうなったのかもわからない。
思い出そうとしても人間の頃の記憶はおぼろげで、自分が猫になったという自覚だけがある。
どうしたのだろうと首を傾げてみても答えは出ず、しばらく考えてみたが別段たいしたことないように思えてきたので、気にしないことにした。
そうして私は猫になった。
これからどうしようか。少しだけ思案するが、答えは出ない。人間に戻れるように努力するという選択肢もあったが、別に猫でいい気もした。なるようになるだろう。
考えた結果、流れに身をまかせることにした。
いやしかしそんなことよりも正直、自分がどんな猫になっているのか、それがとても気になっていた。
かわいいだろうか、勇ましいだろうか、がりがりだろうか、ぽっちゃりだろうか。
想像しながらわくわくした。人間の私は大の猫好きだったという記憶がかすかにある。
猫の生活に憧れていたのもなんとなく覚えている。ほとんどの記憶は薄れているのに、どうでもいいことばっかり覚えているのだ。猫になった今の私にとっては、どうでもいいことこそが大事なのかもしれない。
私は草むらから抜け出して自分の姿が写る物を探すことにした。
まずは座り込んだ状態から、起き上がる。
すると、私は猫だから四足でしか立つことができず、慣れないもので妙にバランスがとれずに困る。しばらく体を慣らすためゆっくり歩いていたのだが、考えすぎて足がもつれて転んでしまい困る。
本物の猫を頭に描いて同じように歩こうと試みても思うように動けず、少し面倒くさくなり横になった。今の時点で何より困るのはこの私のやる気のなさかもしれない。こんな特殊な状況で、やる気もなしにやっていけるのだろうか。
私はもう一度起き上がった。もう考えない、ぎこちなくても思い切り自由に動こう。
ええい。開き直って走ってみたら案外スムーズに体が動いた。今どう動いているんだろう、右前足を前に出して左前足は……と考えていたらまたもつれて転んでしまった。
またやる気をなくして少し横になる。それから起き上がって、今度こそ本当に考えないで動くことにした。思い切り走ってみる。
走る、走る。闇雲に隙間を抜けて、どこまでも走って回る。
なかなか楽しい。
でも調子に乗って走り続けたら、疲れてきた。やっぱり猫でも疲れるんだなあ。
走っている間、人間に何度か遭遇した。視点が低いせいか、反射的に人間を恐ろしく感じる。世の中に悪い人間もいるのはわかっている。人間のいたずらも怖いし、なるべく接近しないようにしよう。
人目を避けながら行くと、路地の奥に建物を見つけた。あたりに人は全くいない。疲れが限界まできていた私は、やっとそこで立ち止まり、自分の目の前に可愛い猫がいるのに気付いた。
グレーのしましまに小柄で目のくりっとした、愛らしい猫だ。
かわいい、と見惚れたが何かおかしい。私と同じような動きをする。私が手をあげると相手も手をあげる。
それが私なのだとすぐに気づいた。一階のガラス張りのドアが閉じられており、光が反射して私の姿を映し出していたのだ。
自分が思いのほか可愛くて、つい見惚れてしまう。小さくてすごく可愛いのだ。
惚けていたが、しかし、はっと我に返った。
駄目だ駄目だ、こんな自惚れ屋のようなことをしては。自分で自分をかわいいだなんて、なんだか恥ずかしい。たぶん私はもともとそういうタイプではないのに。
恥ずかしくなりつつもう一度客観的に、猫になった自分の姿をそっと見る。
やはりすごくかわいい。
自惚れたっていいか、本当にかわいいもの。恥ずかしがっても、事実は事実なのだ。
図々しくもそう開き直って、私はまた歩き出した。




