09 : ケモノとケモノのフリクション
雨音が煩いほどの静寂の中、銀のキツネはゆらりと佇んだ。
ようやく闇に目が慣れて、ソイツの姿を視認する。
梨鈴や京都で会った珪素生命体と同じ、キツネの珪素生命体。しかし、少年のキツネは初めてだ。
特徴を挙げることが難しいほどに、恐ろしく整った容姿をしたその少年は、闇雨の中ゆらりと佇んだ。梨鈴を始めとするこれまで出会ってきた珪素生命体より少し大人びて、どちらかというと印象はオレたちの年齢に近い。
「可笑しいな。ここにも有機生命体がいるよ」
大人びた印象とは裏腹に、まるで幼児のように無邪気な言葉で。
銀狐はにこりと微笑んだ。
夜闇の中でも淡く発行するかのように滑らかな銀毛が雨に叩かれ、水滴を弾く。
明らかに異質。
これまで出会ってきた珪素生命体とは、何かが違う。
「こんばんは」
それでもオレのマイペースな同級生はいつも通りだった。
コイツの発言を信じるなら、この銀狐が珂澄さんを傷つけたにも関わらず、だ。
「こんばんは」
オウム返しで銀狐は応えた。
目に嵌め込まれた紅玉のように美しい瞳を、オレと夙夜に向けながら。
「俺は君に会いに来たんだ。君が叔母さんを傷つけたから」
にこりと笑った夙夜にどこかヒヤリとしたものを感じた。
「君はシリウスとは違うよね……どうして叔母さんに爪をかけたの?」
ああ、これでもコイツ、怒ってるのか。
こういう言い方が正しいかは分からないが――夙夜が珂澄さんに非常に興味を持っているのは事実だ。それが故意なのか意図せずの事なのかは不明だなのだが。
夙夜の問いに、銀狐は澄んだ声でくすくすと笑った。
声変わり前の少年の声。
「可笑しいな。どうしてボクらを見るのか、気になっただけだよ。あの有機生命体がずっとボクらを見てるから」
気になった。
そんな当たり前の言葉に、オレは驚愕した。
珪素生命体が有機生命体に興味を持った。
「だから、近づいたんだよ。可笑しいな。それだけであの有機生命体は壊れたよ。可笑しいな」
夙夜が何を聞いているのか完璧に理解して。
叔母さんと言ったのが何を指しているのかも完全に理解して。
どうして夙夜がここへ来たのかも完膚なきまで理解して。
その上で、銀狐は笑った。
笑って、知らないフリをした。
まるで自分よりずっと脆い種である有機生命体をバカにするかのように、銀狐は続けた。
「可笑しいね」
無垢に見せかけた残酷な笑みが、オレの全身を冷水に叩き込んだ。
ぞっとするほど整った笑みに慄然とする。
狂っている。
この珪素生命体は、狂っている。
狂っている。
狂っている――?
いや、狂ってなどいない。
かすかに残されたオレの理性が告げる。
オレには最初から分かっていたはずだ。
有機生命体に興味のない珪素生命体は、だからヒトを傷つけない。その根底が崩され、この銀狐が能動的に珂澄さんを傷つけた時点で何かが変化した事は感じ取っていたはずだ。
「……珪素生命体が、有機生命体に興味を持った」
オレの口からはそんな言葉が漏れた。
いつだったか、ある珪素生命体は言った。
『珪素生命体は有機生命体に干渉しないって言われてるけど、それは、興味ないだけだよ』
今も、あの言葉が耳の奥にこびりついている。
興味がないから干渉しない。干渉しないことで均衡が保たれていた関係は、目の前のこのケモノによってどう変わる?
自分と全く違う創りをした生命体に興味を持ったケモノは、いったいどうなる?
ぞわ、と背筋を悪寒が駆け昇る。
無関心であるからこそギリギリで人間性を保つ夙夜。
無干渉であるからこそギリギリで共存する有機生命体と珪素生命体。
それが破壊された時、其処に残るのはケモノでもヒトでも何でもない。
ただ一己の生命体。
有機生命体より強靭な肉体と永い年月を手にしただけの、危険な種族の一つと化す。
一己でしかないケモノとケモノは、噎せ返るような雨の匂いの中で見つめ合った。
シリウスが萩原を裂いてしまった時、オレは珪素生命体の扱いが変わってしまうことを怖れた。本来なら彼らは興味のない人間を傷つけぬが故、人間社会から隔絶され、野山で暮らすことを許された存在なのだ。
意図的に人間を破壊したとなれば、珪素生命体全体がタダでは済まない。
「アンタはどうかな? 壊れちゃうかな?」
くすくす笑った珪素生命体が水晶の爪を閃かす。
夙夜は肩を竦めた。
「俺も壊れるよ。だって有機生命体だもん」
喉の奥が張り付いて声が出ない。
あからさまに臨戦態勢の珪素生命体を前に、足が竦んで動かない。
しっかりしろよ、口先道化師。
自身の叱咤も届かずに。
そのまま地を蹴る夙夜の背を見送った。
水音が反響する。
ただ一己のケモノが敵ではないモノに興味を持ち、ただ一己のケモノは敵に興味を持った。
何の脈絡もなく始まった戦闘に、オレは完全に置き去りだ。
目の前で爪を振りかざすケモノの攻撃を縫うようにして何かを狙う夙夜は、ひどく冷静だった。
なあ夙夜、それは所謂敵討ちなのか?
――止めなくては。
理性が告げた。
――何故?
本能は問いかけた。
――傷つくから
オレの友人が、水晶の爪にかかって、傷ついてしまうから。病院のベッドに横たわった珂澄さんのように。
――何故傷ついてはいけないの?
本能は再び問いかけた。
――それは
答えに詰まった理性は沈黙した。
ただ、止めねばならないという妙な強迫観念だけがオレを焦燥に駆り立てた。
ケモノ同士の喧嘩に手を出して、一般人代表ド真ん中のオレが無事で済むはずがないというのに。
もし無事に済んだとしたら……
「下がって、マモルさん!」
らしくない夙夜の鋭い声が宵闇を裂いた。
もし無事に済んだとしたら、代わりに誰かが無事じゃすまない。