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第一話[王、堕つ]

 魔界の空は、燃え尽きない夕焼けの色をしていた。血を薄めたような赤が地平線に沈まず張り付き、空そのものが巨大な炉の内壁のように鈍く光っている。黒曜石の塔が連なり、溶岩の川は巨大な生物の血管のように静かに脈打つ。その空の一角だけが、わずかに歪んでいた。熱気の揺らぎに紛れるほど微細な、理の綻び。


 遠くで巨獣が吠え、その声は空を擦りながら低く流れていく。城壁の上では魔族の兵が規律正しく並び、まるで世界そのものが王の呼吸に合わせて整列しているかのようだった。


 城外の高台から、ゼル=ヴァルクは自らの版図を見下ろしていた。熱風が外套を撫でる。空気は重く、砂は足元で小さく震えている。ゼルが一歩を踏み出すと、無言の圧に押されるように視界が開けた。巨大な城門が近づけば、門番たちはゼルの姿を認めた瞬間、武器を下ろして深く頭を垂れた。重厚な扉が、まるで王を拒むという選択肢を持たないかのように静かに開く。


 その先へ続く石造りの通路は、壁に灯る青い炎が水面の反射のように揺れ、歩みに合わせて影が伸び縮みする。進むほどに音が沈み、魔族たちは壁際へ寄り、呼吸すら小さくする。視線は床へ落ち、空間そのものが膝をついているようだった。


 通路の先は、空気が広がり、玉座の間が現れる。黒曜石の階段の上に玉座が待ち受けている。ゼルは迷いなく進み、ゆっくりと腰を下ろした。ひざまずいた将が報告を始める。


「西方焦土領域、反乱種族の首級三百。魂炉は再稼働、抵抗勢力は灰燼と化しました」


 声は石壁を反射して響くが、ゼルの意識は遠く、青い星へ向いていた。ゼルは長い時間、その世界を外側から観察してきた。力が支配しないのに文明が崩れない、不思議な世界。


 ――その時、玉座の直上に異変が起きた。


 何もないはずの空間が、因果を無視して突如として爆ぜるように裂けた。光を噛みちぎり、闇ですら輪郭を失うほどの黒い空洞が虚空に出現する。最強の魔王であるゼルですら予見できなかった、あまりに理不尽で一方的な空間崩壊。


「陛下……!」


 跪いていた将たちが一斉に跳ね起き、抜剣の音と共に王の前へと飛び出す。放たれる無言の殺気が広間を支配するが、動揺する配下たちをよそに、ゼルは冷徹な眼差しをその空洞へ向けた。


「……下らぬ術を。何奴の――」


 言葉は、完遂されなかった。


 歪な波動が走った刹那、裂け目が凄まじい力で“引いた”。空間が歪み、床が遠ざかり、天井が沈み込む。世界が裏返り、何かに掴まれたようにゼルの身体が引きずられる。視界が裂け、魔界が薄紙のように剥がれていった。


 ――落下の感覚が消えた瞬間、視界が白く弾けた。


 ゼルは、コンビニの前に立っていた。


「……は?」


 鼻を突く、嗅ぎ慣れぬ化学的な匂い。魔王として数百年生きた男が、初めて間抜けな声を出した。


 玉座はない。魔族もいない。誰も跪かない。


 自動ドアが「ウィーン」と鳴り、学生がゼルを避けもせず横切り、スマホを見ながら笑っている。


「……誰も、余に気づかぬ?」


 威圧の魔力を少しだけ漏らす。だが――誰も反応しない。


「すみませーん、通りますよ」


 店の前で、商品の補充をしていた店員に台車で普通に押し退けられた。ゼルは固まった。


(……命を惜しまぬのか、この種族は)


 店内に入る。並ぶ商品。光るパッケージ。意味不明な文字。王としてすべてを支配していた男が、棚の前で立ち尽くす。その時、腹が鳴った。生まれて初めて感じる、空腹。


(……弱体化している?)


 パンを手に取り、レジに置く。


「330円です」


「……円?」


 通貨の概念は直ぐに理解できた。だがゼルには何もない。無言で立ち尽くす魔王。後ろの客が舌打ちした。


「買わないの? 早くどいて。邪魔」


 ――どいて。


 その言葉に、魔界なら都市が一つ消えていた。ゼルの瞳が、ほんの一瞬だけ細まる。


 空気が軋む。レジ横のペットボトルが微かに震え、蛍光灯が明滅した。


(……やめよ)


 指先をわずかに握り、力を抑え込む。


 ゼルは、ゆっくりと横に避けた。


(……今、余は……弱い?)


 結局、懐のわずかな銭を差し出し、どうにかパンを受け取る。レジ横の台で、ゼルは受け取ったパンを袋に入れようと手を伸ばした。その瞬間、ゼルの無意識な殺気に反応し、ビニール袋がふわりと浮く。


(敵意感知……防壁展開)


 店員が固まる。後ろの高校生が「え、今浮いた?」と囁く。ゼルは即座に袋を掴む。


「静電気だ」


「乾燥してますもんね」


 ゼルは頷きもせず店を出た。外の空気は乾いて軽く、街の音が波のように押し寄せる。ゼルは行き場を失ったまま数歩歩き、街角に置かれたベンチを見つけ、そこに力なく腰を下ろした。


 寒い。腹が減る。誰も敬わない。初めて経験する感覚の濁流に、ただ身を任せるしかなかった。


 通行人がゼルをちらっと見て、小声で言う。


「コスプレ?」

「中二病かな……。ガチすぎ」


 ゼルは背筋を伸ばし、威厳を込めて告げた。


「余は魔王ゼル=ヴァルク――」


 通行人は目を逸らし、聞こえないふりをして歩く速度を上げた。最後まで聞かれなかった。


 ただ歩く。自販機を睨みつける。犬に吠えられる。


「格下が王に牙を……」


「ポチ! やめなさい!」と飼い主が慌てる。犬は急に尻尾を振り始める。ゼルはわずかに距離を取る。そのまま歩き出し、通りを抜けていく。


 横断歩道。人々が白線の前で止まっている。ゼルも立ち止まり、周囲を観察する。


(見えぬ結界……)


 信号が青に変わる。人々が一斉に歩き出す。


(解放の儀式……?)


 ゼルが踏み出した瞬間、クラクションが鳴り響いた。ゼルは静かに下がった。


(儀式中に突撃する戦車とは……理解不能だ)


 渡り終え、歩き続けると住宅街の先に公園が見える。公園の脇で子どもたちが揉めている。近くの大人が軽く声をかけているが、強くは止めない。ゼルは歩調を落とし、近づく。


「序列を決めろ。秩序が乱れている」


 子どもたちは一瞬だけゼルを見る。


「ジャンケンでいいやん」


「……合理的だ」


 すぐに遊び始める子どもたち。ゼルは少しだけ立ち尽くし、それから踵を返した。


 空は、魔界のそれのように世界を焼き尽くすほどの色を持たず、ただ役目を終えた後の残り火のように淡く、頼りない橙色に透けていた。高層ビルの隙間から漏れる陽光は、魔王の肌を焼く熱も、大地を震わせる咆哮も持たない。ただ静かに、街全体を古びた写真のような色に染め上げていく。川沿いの風は昼の熱をさらい、代わりに一日の終わりを告げるような、微かな倦怠の匂いを運んできた。


 ゼルは河川敷へと降り、膝を折って、無造作に生い茂る草の上に腰を下ろした。


 今日を分析する。


 ――自動ドア、攻略不可。

 ――犬、威圧失敗。

 ――白線、強制力あり。

 ――玉座に差した、理を外れた歪み。


 人々は笑い、歩き、何事もなく一日を終えようとしている。力がすべてではない世界。それでも秩序は崩れない。


 遠くの空気が一瞬だけ歪んだ。黒より暗い何かの残滓が、水面に落ちた影のように揺れた気がする。ゼルは目を細めるが、すぐに消えた。


 ゼルは立ち上がる。外套を整え、王としての姿勢のまま夜の街へ歩き出す。その足取りは、わずかに重かった。


 ――魔王はまだ、帰れない。

第一話を読んでくださりありがとうございます。

魔王が“帰れない”物語、ここから少しずつ動いていきます。

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