前編
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「クレア、別れてくれ」
「え……?」
大きなため息とともに紡がれたその言葉を理解するのを、私の耳と頭は拒否した。
仕事終わりにわざわざ彼と食べようと持って来た夜食を入れたバスケットを差し出しながら、私は動きをしばらく止めた。
私の恋人であるはずのロランは、そんな私を「どんくさい奴」と言わんばかりに冷たく見遣る。一年前の付き合い始めのような甘さはもう欠片も見当たらない。
「考えてみたんだけどさ。クレアは商会経営者の妻にはふさわしくないんだよ」
「え、商会経営者っていっても小さい規模から始めるんじゃ? 借りる予定の店舗だってすごく狭いのに……」
ロランの機嫌が余計に悪くなったのが見て取れて、私の語尾は尻すぼみになっていく。
「最初は小さく始めて徐々に大きくしていくんだよ。クレアって書類仕事を頼んでも全然できないだろ。商会を新しくやるんなら、そのくらいはできてもらわないと」
「で、でも、そんなことロランは前まで言ってなかったじゃない。私のご飯があれば頑張れるって……」
「飯だけ毎日持ってこられてもさぁ……やっぱり書類仕事も手伝って、帳簿くらいつけられないと」
朝にある程度作っておいて、ちょっとでも温かいものをすぐに食べて欲しいからと仕事が終わってから仕上げをして彼のところに運んでいた夜食。私のそんな涙ぐましい努力は無駄だったということか。
職場の料理人も苦笑いしてたっけ。「え? これから帰って作るの? クレアちゃんて尽くすタイプだよね」って。
だって、私はロランと結婚するのかなぁって思っていたから。
私ももう適齢期の十八歳だ。
私は結婚したいのだ。というか、家族が欲しい。十歳の時に流行り病で私以外の家族が亡くなって、親戚をたらいまわしにされて居場所がなくて、出稼ぎよろしく集団で王都に出てきたのが十五歳の時。
今働いている食堂には拾ってもらった恩があるけれど、彼らは家族ではない。家族のようなものだけど、彼らには家庭があるから厳密に言えば私の理想とは違うのだ。
家に帰って誰かがいる。あるいは、誰かが帰ってくる家に住んでいる。「ただいま」って言いたいし「お帰り」も言いたい。この後で帰る狭い自宅の真っ暗な部屋じゃなくて。
あとは虫が出たら二人でギャアギャアいいながら退治するとか。そういう、皆が人生の年数分通ってきた普通のことがしたいだけ。
「そ、それはまだ勉強してて……でも、接客はお店でもやってるから開業すれば……」
「それはクレアの勤めてるちんけな店の話だろ? そんなのと俺の新しい店を比べられても困るし、もっとマナーとか化粧とかもさぁ」
大好きな職場をちんけと貶されてカチンとくる。
ここ最近のロランは素っ気ないなとは感じてはいたが、倦怠期か、仕事が忙しいからだろうと誤魔化していたのがいけなかった。
私が仕事帰りに彼の家に寄っても以前ほど歓迎してくれないし、起業準備に忙しい・人脈を広げないとなんて言ってデートだって全くしてくれない。
ロランはこれまで働いていた商会から独立してやっていこうとしている最中だったので、私は応援していた。
できることは私も仕事終わりや休日に手伝ったし、同棲はしていないからこうやって食事を作って持ってきていた。
食堂で給仕として働いており、忙しい時は厨房に入って手伝う私としては薄化粧に決まっている。マナーよりも夜の時間帯は酔っぱらいを捌く方が優先だ。
ロランとは食堂で出会ったのがきっかけで付き合い始めたのに、なぜ化粧だのマナーだの今更言うのだろう。
食堂は昼も夜も営業していて、しかも繁盛している。その上同僚の一人が高いところのものを取ろうと梯子に登って落ちて捻挫をしたので、その分も忙しい。
マナーはある程度必要だとは思うけれど、仕事帰りの遅い時間に薄化粧なのは仕方がないことなのに。
「ただでさえクレアの髪はバカっぽく見えるピンクなんだから、もっと努力してほしかったよ。俺は独立して商会のトップになるんだから、俺と結婚したいならもっとふさわしくなってもらわないと」
亜麻色の髪をかき上げながらそんなことを言うロランに吐き気がした。
彼に勤めていたところを辞めると言われたのは突然で、内心「もっと開業準備とかいろいろしてからの方がいいんじゃない?」と思ったが言えなかった。勤め先の食堂の料理人が独立した時ももっといろいろ準備していたのだ。
「そ、う……」
髪の毛のことまでごちゃごちゃ言われる筋合いはないし、大店を継ぐわけでも経営するわけでもないのに偉そうなことを言うロランにうんざりした。
言い返そうかと口を開こうとして、どうせ無駄だと閉じる。
やり取りは違うがこんな会話は今までにもあったのだ。ロランは田舎の村から出て来た学のない私のことを見下している節があり、自分の意見の方が正しいと押し通そうとする。
私はそれにずっと気づかない振りをしてきた。私に学がないのは本当のことで、ロランが正しいのかなと思っていたから。でも、ロランが勤め先を急に辞めたことで疑念が生まれた。その疑念はここ最近ずるずると膨らんでいた。
なんとなく、彼の机の向こうの本棚を見ると綺麗に畳まれた白いハンカチの上に女性ものの黄色いピアスが片方置かれていた。
それを見てピンとくる。
あ、他に女性ができたんだと。
ロランはピアスをしないし、私だってしていない。
他に書類仕事でもしてくれそうな女性が見つかったから、私は今日振られるのだろうか。
さっきまではなんで今更そんなことを言うのかと吐き気がむかむかしていたが、今は呆れが勝っている。
この人は私と結婚して家族になってはくれないのだ。
「分かった。じゃあね」
足が重い。
今日は最初から面倒な女扱いされているので、これ以上そんな目で見られるのも嫌だなとさっさと踵を返した。
ピアスのことも聞かなかったし、ロランの家を出ても彼は追ってもこなかった。
あーあ、終わっちゃった。一年付き合ってこれか、あっけない。
もうちょっと前向きに別れたかったな。仕事が忙しくて結婚を考えられないとか言われて。
まぁ、ロランが私を貶した瞬間から穏やかなお別れは無理だったんだけど。
書類仕事もできない・馬鹿っぽいピンク髪と言われたのが悲しいのか、ロランと別れたことが悲しいのか分からない。
開けもしなかったバスケットを抱えて歩く。遅くまで営業している店と月明り頼りの暗い道がじわっと滲んだ。
私はきっと拒絶されたことが悔しいのだ、うん、そうだ。誰だって酷い言葉を投げつけられれば傷つく。
そして憧れの結婚も遠のいてしまった。一年付き合ったからもうすぐプロポーズ? なんて思っていたのに。
どうして、ロランみたいな人に執着していたんだろう。酔っぱらいから庇ってもらったのも、告白されたのも初めてだったから? 他の誰も私を好きになってくれなかったから?
涙を拭きながら足早に歩く中で、何かに躓いた。
あっと思った時には遅く、バスケットを持ったままこけた。
一度は踏みとどまれたが、すぐにまた石畳で滑って膝からいった。まず、右膝。そして左膝。こういう時は本当に動作が遅く見えるものだ。それなのに手がすぐに出ない。
ようやく手をついたのは、顔が地面に当たる寸前だった。
ついた手のひらがずずっと石畳の上を滑ってすりむいて熱くなり、顎が地面に当たる。
最悪。一日の終わりがこれでは、今日はついてない。
すぐに起き上がると、バスケットの中身がそこら中に散乱していた。
最悪。もうほんっとに最悪。
恋人に振られて、こけて、バスケットの中身もぶちまけた。たまにはロランと一緒に食べてもいいかなと多めに持って来た食事は、無残に地面に散らばってとても食べられない。
ため息をつきながら、ズキズキ痛む膝を見ないようにして立ち上がる。石畳の上だから打ち身が酷くなるはず。
この痛みならきっと、血が出ているだろう。お気に入りのスカートを履いてきたのにそれも台無し。
またも大きくため息をつきながら、何に躓いたのだろうとゆっくり振り返る。
そこには人が転がっていた。
道の真ん中で寝ている酔っぱらいか。あるあるだ。
いいわよね、夜寝る前にお酒飲める優雅な生活ができて。こっちは残った家事とかあるっていうのに。
イライラして八つ当たりのように酔っぱらいを蹴ろうかと考えた時だった。
雲に一部隠されていた月が現れて、酔っぱらいの姿がよく見えるようになった。
「ひっ……」
酔っぱらいじゃなかった。
腹にナイフの刺さった男性の、多分、死体。
血だまりはないからここで殺されたわけじゃないだろう。そんなどうでもいいことを考えられるのに足は動かなかった。
え、どうしようこれ。
知らんふりして帰ってもいいの? でも、誰に言うの? 騎士の詰所どこだっけ?
今日って何かのイベント? 役者で演技してるだけ?
動くこともできずにいると、走ってくる複数の足音がした。
「あ!」
見るからにガラの悪そうな男二人が近くの路地から急に現れ、私の姿を見て声を上げる。まくった腕にはオオカミの入れ墨が見えた。
まずい! 逃げなきゃ。
でもスカートの中で足は震えたままなかなか動かない。
「えっと、エマージェン商会に配達に来たんですけどぉ、この人寝てるみたいでぇ。躓いちゃいましたぁ。あ、もしかしてお肉を注文された方ですかぁ?」
わざと明るいバカっぽい声を出してみる。
ワタシ、ナニモミテマセン。
「いや」
ガラが悪そうなのに、意外にも律儀に答えてくれる。
「ごめんなさぁい。お肉だめにしちゃって。すぐまた配達しなおしますねぇ」
笑顔を向けるとスカートを摘んでお辞儀をして、喋っている間にやっと動くようになった足ですぐに走り出す。バスケットとゴミは申し訳ないが放置だ。
「あ、待て!」
「くそ! 可愛いからって誤魔化された!」
「大体、お前があれを落とすのがいけないんだろうが!」
「うるせぇ、お前だって馬車から落ちても気付いてなかったじゃねぇか」
ほ、褒められてる? というかあれに騙されるってこの人達、頭悪い?
ロランに貶されたけど、ガラの悪い人には褒められてる? というか、犯罪を臭わすこと大声で言わないで!
頑張って走ってはいるが、男たちの方が速い。
着実に彼らの足音と息が迫ってくる。
こ、殺される!
「お嬢ちゃん、ちょおっと止まれ!」
「そうだ、ちょっと話を聞くだけだから!」
ひぃ、これ絶対に殺される!
死体落としたみたいな話してたじゃない! それにあのオオカミの入れ墨! 絶対にヤバい人たちでしょ!
走って走って、喉が痛い。さっきこけた膝よりも痛い。
どこか、遅くまで営業しているお店に駆けこまないと!
後ろに男たちのはぁはぁという声がどんどん迫って来た時だった。
前方に人影が見えた。
「た、たすけて!」
どんな人か分からなかったが、おそらく男性だ。
後ろの男たちの仲間かもしれないなんて一切考えずに私は声を上げる。
幸運なことに、人影は巡回中の騎士二人組だった。
「ちっ!」
「私が追うから君は彼女に事情を聞いてくれ」
私を追って来た男たちは慌てて逆方向に去って行く。
騎士のうちの一人、メガネをかけた男性は彼らの後をすぐに綺麗な走りのフォームで追った。
「あ、あの、し、死体が!」
「まぁまぁ、落ち着いて落ち着いて。で、どしたの?」
うっ、残ったもう一人の騎士はどうにもチャラチャラしている長い金髪の人だった。
真面目そうな家庭的な人がタイプな私にとって地雷である。
「し、死体に躓いて……そしたらオオカミの入れ墨入れた男二人に追いかけられて……」
つっかえながら事情を一通り説明し終えると、どのあたりかと場所を聞かれたので一緒に死体があった現場に向かう。
「何もないね?」
「そ、そんな……」
「でも、ここで転んだのはほんとみたいだね」
チャラチャラした騎士は、私が置き去りにしたバスケットと散乱した食事を指差す。
「ほ、ほんとにここに死体があったんです!」
「でも、血とかなさそうだけど」
「ほんとなんですってば!」
「まぁ、俺たちも追いかけられてるのは見たからさ」
そんなやり取りをしていると、もう一人のメガネの騎士が息を切らしながらやって来た。
「逃げられた」
「うわ、先輩でも逃げられちゃうんすか! それは逃げ足速い犯人だな~」
チャラい。ここにさっきまで死体があったと言っているのに、真面目に取り合ってくれていないようだ。
「お嬢さんがさ、死体があったって言うからここまで来たんだけどさぁ」
「……何もないな。血痕も見当たらない」
二人の視線が私に刺さる。
「ほんとなんですけど……お腹にナイフが刺さってて……」
「まぁまぁ、お嬢さん。疲れてたんじゃない? 何もないとこで転んじゃった? でも、さっき追いかけられてたのは俺たちも見たからさ、変な男に絡まれてびっくりしちゃったんでしょ?」
チャラチャラした騎士は私の両肩に手を置くと、「俺は分かってるよ」みたいな顔を作る。女遊びできそうな綺麗な顔だった。
ロランは決してこんな綺麗な顔ではなかったけど、浮気していたみたいなのだ。
思い出して悔しくて涙が滲む。
「泣かないでよ~」
「お嬢さん、これに懲りたら夜道はあまり歩かないように。しかし、さっきの奴らがまだいるかもしれないし、送って行こう。巡回も強化した方がいいだろう」
「先輩、さっき走ってお疲れじゃないっすか? 俺がこの子送って行きますよ」
「巡回ルートかもしれないから住所を聞いてからにしよう」
真面目そうなメガネの人がチャラ男の先輩らしい。
住所を告げると巡回のついでだからと、散乱したゴミの掃除を手伝ってくれてから二人は私を集合住宅前まで送ってくれた。
ベッドに腰掛け擦りむいた膝を手当てして、また泣きたくなる。石畳で打ったので膝は赤く膨らんでもいた。
信じてもらえなかったけど、あれは絶対に死体だった。
でも、もしかしたら誰かの悪質な悪戯かもしれない。
死体が歩いて移動したわけはないし……あの男たちが騎士たちを見て逃げてすぐに死体を隠したとも思えない。
考えても分からないのでベッドに潜り込む。
明日からの方がより問題が起きるなんて、眠りに落ちる前私は予想もしていなかった。