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第一章 ―毒の匂いと少女の声―(後編)静かなる服従の種

 薬房の朝は、いつもと変わらず、しんと静かに始まる。

 湿った空気に、乾いた薬草の香りが淡く混ざり合い、時間の流れまでもが柔らかく感じられる。

 竹林の隙間から差し込む光が、障子を淡く染めながら、部屋の片隅に吊るされた薬草の影を、まるでゆらゆらと揺れる水墨画のように映していた。

 リンは、まだ誰の気配もない空間の中心で、黙々と手を動かしていた。

 深紅の羽織は足元にややはだけ、組んだ脚先を小さく揺らしながら、机に置いた分厚い書物のページを、薬指で静かにめくっていく。

 頁に描かれた奇妙な植物の挿絵、動物の内臓を用いた毒の配合例、そして“壊死の進行速度と分量の相関図”――。

 リンの眼差しは、そこに書かれた文字をただ読むのではなく、噛み砕き、内側に沈めていくような、静かな熱を帯びていた。

 「……やっぱり、こっちのほうが効くわね。観察対象が壊れやすいのが難点だけど」

 彼女はひとりごとを呟きながら、背後の棚から小さな瓶を選び取った。それを手に取る指先は慎重で、それでいて、どこか楽しげでもある。

 庭へ出ると、朝露を含んだ小道に、猫が一匹ころんと寝転がっていた。

 「あら、また来たの? 毒草には近づかないって、前にも言ったでしょ」

 口ではそう言いながら、リンは指先で猫の背を撫でる。猫は心地よさそうに喉を鳴らした。

 小さな薬草畑の間には、ツユクサ、チョウセンアサガオ、ヨモギ、ミズアオイ……。

 毒と薬の境界線を生きる植物たちが、朝日に透けて、命の輪郭を静かに主張している。

 「どこまでが毒で、どこからが救いかなんて、人間が決めることじゃないわ。ねぇ?」

 猫に話しかけながら、リンは摘み取った葉を手のひらにのせ、香りを確かめる。

 昼には、書物と調合の合間に簡単な食事をとる。

 炊いた米に、干した野草を刻んだものをまぜるだけの素朴なもの。

 けれど、その食卓には、すりきれた陶器の碗と、使い込まれた箸。彼女の生活が、確かに人間の営みである証が息づいていた。

 食後、ふたたび調合室へ戻ると、リンは引き出しの奥から一冊の古びた帳面を取り出す。

 中にはびっしりと観察記録が綴られている。症状の経過、鼓動の速さ、発汗の量、言語の変調。

 そこには“患者”ではなく“素材”として扱われた形跡もあるが、その文字一つひとつには、リンの迷いや、願いのようなものが滲んでいた。

 「昨日の反応は……少し強かったかもね。あと二段階、弱めた方がいいかしら」

 その指先が止まったページには、昨日の“ゆき”の記録があった。

 “幻覚反応・中等度。体温上昇あり。自律神経の乱れ、発汗・鼻血。耐性、一定水準を超えつつある”

 その下に、小さくこう綴られていた。――『でも、まだ戻ってくる。』


 リンはふっと息をつき、頬杖をついたまま障子の外を見やった。

 陽が傾きかけ、竹の葉が風に鳴る音が、どこか遠くで鐘のように響く。

 「そろそろかしらね、ゆき」

 声に出さなくても、リンの中ではもう準備は整っていた。

 日々を重ねることでしか見えない変化を、彼女は確かに見つめ続けている。

 “毒見役”とは、単なる危険な役割ではない――命と命を重ねて観察し、知識を編み出すための、尊い行為だ。

 今日もまた、彼女は命を知ろうとする。

 苦しみも、涙も、狂気も――そのすべてを、無視せず、抱きとめるように。

 薬房の扉が、夕方の風にわずかに軋んだ。

 リンは、ふたたび赤い羽織の裾を整えながら、机に向かう。

 ひとつ、紙包みを机の端へ滑らせた。

 「……今日は、これ」

 そう呟いた声は、どこまでも日常の中の一部で。

 だけど、その先に待つ非日常を、確かに孕んでいた。

 「……どうやって飲むんですか?」

 「舌にのせて、あとは何もしないこと。息を止めてもダメよ。自然に、溶けるのを待って」

 「……はい」

 ゆきは、言われたとおりに舌を差し出し、粉をのせた。

 次の瞬間、舌先に鋭い刺激が走る。

 痺れ――というには、生ぬるい。

 それは、鋭利な針が無数に刺さるような感覚だった。

 鼻から抜ける香りは、ない。味もない。耳鳴りのような無音だけが、世界を覆った。

 じわりじわりと、その違和感は喉へ、そして内臓の奥深くへと染みこんでいく。

 やがて、手の指先、足の爪の先にまで波及するような、奇妙な感覚。

 リンは、黙ってそれを見つめていた。

 頬杖をついたまま、ただ観察者の目で。

 冷たくもなく、優しくもなく――無垢な好奇心だけを湛えていた。

 「どう?」

 その声は、いつもと変わらない柔らかさを帯びていた。

 「……だいじょ……ぶ……」

 「ふふ、嘘下手」

 リンは、指で頬杖を軽く撫でながら笑った。

 その笑みは、少女らしいあどけなさも感じさせるのに、どこか透けるように冷たい。

 「でも、それでいいの。あなたは、壊れかけてるくらいがちょうどいい」

 「……ぼく、まだ……大丈夫でしゅ……」

 「そう。でも、あと数回飲めば、“壊れたこと”にすら気づかなくなるわ」

 その言葉は、まるで毒に甘い香りを混ぜたような響きをしていた。

 それでいて、どこか慈しみさえ感じさせる。

 リンは立ち上がり、棚の隅から小さな水差しを持ってくると、ゆきの前にそっと置いた。

 「少し休めば、帰れるくらいは元気になると、思うわ」

 そして、もう観察は終わったと言わんばかりに、彼女は薬草の干し場の奥へと、静かに姿を消した。

 その足音すら、薬房の木の床に吸い込まれるように、やわらかだった。


          *


 ゆきは、その後、長い時間を苦しみながら過ごした。

 言葉にならない感覚が、身体の内と外を行き来し、熱と寒気が交互に襲う。

 それでも、彼は泣かなかった。泣けなかった。

 時折、窓の外の竹が風で揺れ、影が畳の上をさざ波のように流れていった。

 遠くで鳥が鳴く声が聞こえた。季節を告げる声ではなく、ただの生活音。

 そんな日常の音が、やけに遠く感じた。

 ……薬というのは、どうしてこんなにも冷たいんだろう。

 体の奥に溶けていくたび、自分が自分じゃなくなっていく気がする。

 でも、それが「お母さんを助ける」ということなら。

 気づけば、喉の奥に張り付いていた苦味が消えていた。

 手の震えも収まり、足先まで冷え切っていた身体に、少しずつ温もりが戻ってくる。

 ――帰れる。

 

 人の気配が消えた薬房に、小さく一礼をして、ゆきはふらつく足取りのまま、扉を開けた。

 竹林の隙間から差し込む午後の光が、彼の瞳をやさしく照らした。

 

          *


 その夜、ゆきは夢を見た。

 いや、夢――と呼んでいいのか、わからなかった。

 ひとつの景色が、何度も反転して、塗りつぶされ、別の何かに置き換えられる。

 最初は、母の笑顔だった。

 その顔が、やがて影に覆われ、皮膚が剥がれ、黒い墨のような液体に溶けてゆく。

 家の天井が崩れ、下に落ちていく。

 井戸が現れた。底の見えない真っ黒な井戸。

 母の腕が、そこへ引きずりこまれる。

 助けなきゃ――そう思った瞬間、今度は自分の足が、石の重みで引きずられていた。

 「おかあさん……」

 声が出ない。口は動いているのに、空気が喉を通らなかった。

 耳の奥で何かが鳴っている。カリカリと、小さな虫のような音。

 それが、骨をかじっているのだと気づいた瞬間、視界が赤く染まった。

 はっとして目を開けた。

 天井が見えた。見慣れた家の木の梁が、じっとこちらを見下ろしているように感じた。

 ――夢だった。

 けれど、現実もまた、夢の延長のようだった。

 喉がひりつく。視界が滲んでいた。

 敷布団が濡れている。汗か、涙か……あるいは鼻血か。

 指先を触れると、乾きかけた赤が、じわりと手のひらについた。

 

 それでも、朝だった。

 太陽は、律儀に東の空を照らしていた。

 障子のすき間から差す一筋の光が、白く揺れる埃を照らしている。

 ゆきは、掛け布団をそっと押しのけて、体を起こした。

 関節が痛い。熱はある。でも――立てる。

 脚に力が入る。それだけで、奇跡のように思えた。

 「……生きてる」

 そう呟いた言葉が、自分でも意外なくらい静かだった。

 叫びたいくらいなのに。泣きたいくらいなのに。

 けれど、喉の奥にあったはずの苦味は、もう消えていた。

 心臓はまだ動いている。体はまだ、自分のものだった。

 そして、思った。

 ――これなら、今日も、リン様のところへ行ける。

 そう決めた自分に、少しだけ驚いた。

 怖いはずなのに。もう行きたくないと思うはずなのに。

 それでも、「行かなきゃ」と思った。

 母を助けるため。

 それだけじゃない。あの場所に、何かを置いてきた気がしていた。

 戻らなければいけないような、そんな気がしていた。

 ゆきは、ふらふらと立ち上がると、そっと母の部屋の障子を開けた――


 その瞬間だった。

 「……あら、おはよう」

 布団のなかで、しのが微笑んでいた。

 ――笑っていた。

 ゆきの世界が、ふっと音もなく揺れた。

 「……おかあ、さん……」

 声が出ない。ただ、涙だけが零れる。

 微笑みがそこにあった。

 たしかに、生きていた。

 もう、言葉なんていらなかった。ただ、その姿がすべてだった。

 弱くても、苦しそうでも、確かに、起きていた。

 生きていた。

 しのの手が、ゆきの涙をぬぐった。

 「ゆき、ありがとうね……お薬、効いたのかしら」

 ――バレてる。

 でも、問い詰めるでもなく、しのはただ、微笑んでいた。

 その笑みが、ゆきの胸にぽとんと落ちた。

 「……よかった……ほんとに……」

 その日、ゆきの世界は、明るさを取り戻した。

 眠りの中の悪夢は消え、身体はまるで嘘のように軽かった。

 胸の奥に残っていた、あの苦さも、重さも、どこかへ溶けていった。

 ――ああ、もう、大丈夫かもしれない。

 ふと、胸の内に、静かな問いが芽生えた。

 もう母は元気になってきたのだから、こんなふうに身体が軽くて、普通に朝が来るのなら――

 無理をして、あの苦しい薬を、もう飲まなくてもいいんじゃないか?

 そう思った瞬間、ゆきの胸にすうっと風が吹いた気がした。

 冷たいようで、でも少しだけ、温かかった。

 

          *


 そして、夕方――。

 「ゆき! なんか久しぶり!」

 「え、え? ほんとに? いつもいたでしょ?」

 「うん、いたけどさー、目の焦点合ってなかったじゃん。ゾンビかと思ったもん」

 「ひど……」

 寺子屋の帰り道、ケンタとアヤがじゃれつくように笑っていた。

 石畳の道に夕日が差して、竹の葉が西風に揺れている。

 空は青く高く、どこまでも平和だった。

 日常が、そこにあった。

 「あ、そういえばさ……」

 アヤが急に真顔になる。

 「ほんとに大丈夫? ゆき、なんか前まで、すっごい調子悪そうだったし……あのあとも、また峠のほう行ってたって、聞いたよ?」

 「……うん。でも、だいじょうぶ」

 「薬とか、変なの飲んでないよね? あそこ、噂あるじゃん。“帰ってこられない薬房”って……」

 「…………」

 ゆきは、笑ってごまかすしかなかった。

 「なにそれ、怖いなぁ……。気をつけるよ」

 ケンタがアヤの肩をポンと叩く。

 「ま、でもゆき元気ならいいよ。お母さんも元気そうだしな」

 「うん……」

 ゆきはうなずきながら、ふと振り返った。

 遠くに見える竹林の上空。

 ほんのりと、薬房のある峠が霞んでいる。

 ――リン様。

 胸の奥がきゅうと締めつけられた。

 だけど今は、風が気持ちよかった。


 その夜。

 夕飯の支度をしているしのが、台所から声をかけてくる。

 「ゆき、薪くべといてくれる? 今日は少し冷えるわ」

 「うん!」

 声が弾んだ。

 日常は、まだぎこちなかったけれど、確かに戻ってきていた。

 しのは、たんぽぽの根を乾かしながら、お茶をいれていた。

 「ふふ……ゆき、前よりもちょっと大人っぽくなったかも」

 「え……そう?」

 「うん。なんだか、何かを背負って帰ってきた子の顔。……おかえり」

 言葉の重さに、ゆきの胸がまた少し、痛んだ。

 ――けれど、秘密は守りたかった。

 だから、微笑んで、ただうなずいた。


          *


 その翌日、しのは庭先で草を摘んでいた。腰はまだ弱々しいものの、自分で起きて歩く姿を見て、近所の人たちがひとり、またひとりと立ち寄って声をかけていった。

 「しのさん……ほんま、奇跡やで」

 「何が効いたんか知らんけど、ほんまに良かった……」

 「ゆきも、よう頑張ったな」

 町の人の温かい言葉が、ゆきの胸に染みた。

 なのに――なぜか、ほんの少しだけ、心の奥がざらついた。

 何かを隠している罪悪感だったのか、それとも、別の世界を知ってしまった後ろめたさだったのか。


 夕暮れ。

 ゆきは薪を取りに町の端にある木小屋へ向かう途中、寺子屋の隣にある小さな祠の前で足を止めた。

 そこに、町の長老が佇んでいた。

 白い眉毛に皺の深い顔。だが目は澄んでいた。

 「ゆき坊。……ちょっと、話していかんか」

 「……え?」

 「おまえのことは、よう見てるで。ええ子やな。最近、何か変わったことあったんやろ」

 言葉を濁したゆきに、長老はほこらを見上げながらぽつりと話し出した。

 「昔な、“言霊の使師”っちゅう存在がおった言われとる。言霊を呑ませ、心を操る者。癒し師とも、呪い師ともつかん。どんな病も癒すが、その言霊は試練を呼ぶ言葉やってな」

 「言葉……が?」

 「せや。甘い言葉も毒になる。苦い言葉が救いになる。そういうもんや」

 ゆきは思い出していた。

 ――リン様の言葉。

 冷たいようで、どこかあたたかくて。けれど、確かに苦しかった。

 「その“使師”はな、人の“信じたい心”を試すらしい。信じたら助かるんやない。信じることが“毒”になるかもしれん、っちゅうことや」

 「……でも、助けたんですよね? 人を」

 長老はゆっくりとうなずいた。

 「せや。人は救われることより、“救われたと思いたい”生き物や。それがほんまの“薬”かもしれん」


 帰り道、夕空が広がっていた。

 西の空には、橙と群青が溶け合い、風が高く吹いていた。

 薬房のある峠が、遠くに霞んで見えた。

 リン様は、いまもあそこにいる。

 赤い羽織を揺らして、机の前で、ゆきの苦しみを待っている。

 その世界は、たしかに“異質”だった。

 けれど、いまこの手のなかには、母のぬくもりがあった。

 薪の香りと、夕ご飯のにおい。人の笑い声と、たんぽぽの黄色。

 ――日常だった。

 けれど、決して元には戻らない。

 ゆきは、もう知ってしまったから。

 甘いだけの世界では、母を救えなかったということを。

 彼の瞳の奥に、ゆっくりと夜が沈んでいった。


          *


 その夜。

 薬房に入ったゆきを、リンは見もせず、机に向かったまま言った。

 「ねえ、ゆき。あなた、毒って何だと思う?」

 「え……毒は……」

 「“毒=悪”って思ってる人、多いのよね。でも私は、毒は“問い”だと思ってる」

 リンは立ち上がり、棚から瓶をひとつ取り出した。

 中には、金色の粉が入っていた。

 陽の光で煌めいている。まるで砂金のように。

 「これなんか、面白いわよ。吸い込むと、人の感情がひとつだけ消えるの」

 「え……?」

 「怒りが消える人もいれば、笑いが消える人もいる。悲しみが消えた人は……ね、ある意味、幸せそうだったわ」

 「それって……毒なんですか?」

 「さあ。薬かもしれない。毒かもしれない。人によるわ」

 リンは、笑った。

 「選ぶのは、常に“相手”。私じゃない」

 「……でも、リン様が用意してるのに……」

 「私は、選ばせるのが好きなの。ただそれだけ。与えるんじゃなくて、“選ぶ”ってことを、感じてほしいの」

 机に指を滑らせながら、リンはつぶやくように続けた。

 「選んだ結果がどうなろうと、それはその人の責任でしょ。違う?」

 「…………」

 言い返せなかった。

 リン様の言葉はいつも冷たくて、でも不思議と逆らえなかった。

 それは理屈じゃなくて――感情だった。

 彼女に否定されることが、怖かった。

 だから、信じるしかなかった。


          *


 リン様は無言のまま立ち上がると、奥の棚のほうへと歩いていった。

 足音も気配も、まるで水面を滑るように静かで、それが余計に重かった。

 棚の中段。そこに並ぶいくつかの瓶のうち、ひとつ――深い藍色のガラスに包まれた、小さな薬瓶を、彼女は指先でそっとつまんだ。

 けれど、取り出しかけたその手が、ふと止まった。

 リン様は、棚に視線を落としたまま、静かに言った。

 「……今日も、いるの?」

 その声は、いつもより少しだけ――本当に、わずかにだけど――柔らかかった。

 それが逆に、ゆきの心臓を強く締めつけた。

 要らない、と言えばいい。

 だって本当は、もう飲みたくなんかなかった。

 飲まなくても、体は平気だったし、目も覚めてるし、息もできる。

 けれど。

 ここで「要りません」と言ったら――

 この関係が、終わってしまう気がした。

 リン様に“選ばれる子”じゃなくなってしまう気がした。

 ゆきは俯きかけた顔を、必死に持ち上げて、小さく頷いた。

 唇がかすかに震えながらも、声が漏れた。

 「ください。欲しいです」

 その言葉に、自分でも驚くほどの静けさが滲んでいた。

 リン様は一拍、沈黙を置いてから、小さく息を吐いた。

 そして、瓶を棚から取り出し、無造作に差し出した。

 「昨日と、成分は同じ。でも……少しだけ、調整したわ」

 その言葉が何を意味するのか、ゆきには分からなかった。

 ただ、その“少しだけ”が、ひどく怖かった。

 白く細い指が添えられたままの瓶――それを、ゆきは一瞬、見つめたまま動けなかった。

 ――今、受け取るってことは。

 今、選ぶってことだ。

 けれど、拒めなかった。

 ただ、手を伸ばし、両手でその瓶を受け取った。

 その瞬間、瓶の冷たさが指先からじわりと広がって、胸の奥を冷やした。

 「……これ、今すぐ飲まないとダメですか?」

 「それはゆき、あなたが決めなさい。私は“飲むか飲まないかは自由”って言ったの。

 それをどうしようと、どこで飲もうと――あなた次第よ」

 「……分かりました。家で飲ませてください」

 「好きにしたら」

 リンは、もう興味を失ったように視線を逸らした。

 ゆきは一礼して、竹林を抜け、家へと戻った。



賞に応募中の長編小説(約10万文字小説)なため少しづつ公開中、この続きは、最終選考結果 「小説新潮」2025年12月号(11月発売)誌上で、受賞作と選考経過を発表のあと、載せるか決まります。

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