第一章 ―毒の匂いと少女の声―(中編)苦痛の夜と、甘やかな回復
その夜、家に帰ると、しのの寝息が、かすかに聞こえた。
窓の隙間から射し込む月明かりが、畳の縁を淡く照らしている。家の中はしんと静まり返り、風がどこかで障子をかすめた音だけが遠く響いていた。
ゆきはそっと母のそばに膝をついた。
枕元に腰を下ろし、懐から取り出した瓶の栓を、息を殺して外す。
ぷつ、と軽い音がして、空気がわずかに震えた。
甘いような、苦いような――言葉にできない香りが、部屋の中に淡く広がっていく。
それは、草の露にも似て、けれどどこか不穏で、目には見えない何かが揺らいでいる気がした。
台所へ足音を忍ばせて湯を汲み、小さな器であたためる。
指先が震えて、スプーンを持つ手に力が入らない。
ゆっくり、ゆっくり……薬瓶の中身を、ほんのひと匙だけ、湯に落とした。
白濁する液面に、月の光がさざめく。
薬が毒なら?――そんな思いが頭をかすめる。
でも。
でも、何もしなければ、母はこのまま……。
「……お願いします」
言葉というより、息に混じった祈りだった。
震える手で匙を持ち、母の口元へと運ぶ。
「お母さん……少しだけ……飲んで……」
しのの唇は乾いていて、意識はまだ戻らない。
けれど、わずかに、ほんのわずかに――唇が、開いた。
匙を差し入れると、母の喉が、ごくり、と小さく鳴った。
その音が、しんとした部屋に、刃物のように切り裂いて響いた。
ゆきは息を止め、目を見開いたまま固まっていた。
痙攣が来るかもしれない。吐血か、意識の混濁か。何か、異変が――
……起きなかった。
しのの表情が、少しだけ、やわらいだように見えた。
眉間の皺が、ゆるやかにほどけていく。
ゆきは、そっと母の手を握った。まだ熱がこもっていた。でも、その熱は、ゆきの手を確かに温めた。
生きている――その事実が、胸の奥に灯りをともす。
風が軒下を通り抜け、家の中の空気がわずかに揺れた。
その揺れに合わせるように、しのの寝息が、静かに、穏やかに続いている。
それはもう、死に向かう呼吸ではなかった。
ゆきは母のそばに、そっと体をうずめるようにして丸くなった。
肩に掛けた布の感触が温かく、目の奥がじんわりと滲んだ。
気づけば、瞼が重たくなる。
眠りに落ちる直前、耳に届いたのは――
風にそよぐ葦の音と、母の寝息のリズムだった。
*
次の日の朝、風は柔らかかった。
窓をすこしだけ開けると、冷たい空気がするりと入り込み、しのの頬をなでた。
ゆきは、そっと起き上がり、隣で眠る母の様子を見つめる。
「……お母さん……」
しののまぶたが、ゆっくりと開いた。光のない目が、ぼんやりと天井を見ている。
それでも――昨日とは違った。呼吸が、浅くない。汗も、引いている。
「……ゆき……?」
かすかな声。その瞬間、ゆきの胸が跳ねた。
「……お母さん!」
しのの目が、ゆきを見ていた。
焦点の合ったその瞳に、涙がこぼれそうになる。
「……水、飲む?」
うなずくしのに、小さな器で湯冷ましを運ぶ。唇に触れた水を、ゆっくりと喉が受け止め。それだけのことが、奇跡のようだった。
――部屋の外、空が白んでいく。
まだ朝日が昇る前。濡れた地面に、鳥の影がひとつ跳ねていた。
遠くの屋根に、洗濯物が干されている。町は今日も、変わらずに動き始める。
けれど、ゆきの世界だけが、少し変わった。
「……生きてる……」
小さくつぶやいた声が、胸の奥で震える。
ゆきは、そっとしのの手を握った。その手は、まだ熱を帯びていた。ぬくもりが、確かにそこにあった。
目を覚ましたしのは、ほんの少しだけ、ゆきに笑いかけてくれた。
その笑みは淡くて頼りなかったけれど、ゆきにとっては充分すぎる希望だった。
「今日、学校、行ってくるね。すぐ帰ってくるから」
「……うん」
しのは声を絞るようにして頷いた。
扉を開けると、春の光が差し込んだ。
風が木の間をすり抜け、小さな鳥が一声鳴いた。
道端にはつくしが顔を出し、洗濯物の揺れる音があちらこちらで響いている。
――日常の音。けれど、それがいつもより少し遠く感じた。
町の坂道をくだって寺子屋へ向かう途中、アヤの姿が目に入った。
「ゆき、今日ちゃんと来ると思った」
少し照れたように言ったアヤは、ゆきと歩幅を合わせる。
「お母さん、どうなの?」
後ろからケンタの声。
「……少し、良くなった気がする」
「ふーん。じゃあさ、前言ってた“変な薬房”の話、ほんとだったのかもな」
「やめなよケンタ、そういうの。……でも、たしか町外れにあるんでしょ?」
「うん。峠の手前。誰も近づかないって噂」
「……だって、薬じゃなくて“毒”を使ってるって聞いたよ」
アヤは肩をすくめた。
――でも、ゆきの心はもう、そこに揺らぎはなかった。
寺子屋の床板に座りながら、先生の話は右から左へと流れていった。
背筋を伸ばして板に筆を走らせながらも、心はずっと、赤い羽織の女の言葉を反芻していた。
下校の鐘が鳴ると、町の子どもたちはそれぞれの帰路へ散っていった。
麦畑の向こうに夕陽が沈みはじめ、空が薄紅に染まっていく。
風がゆきの頬を撫でた。
かすかに、薬草の匂いが混じっていた。
誰にも告げず、ゆきは道を外れ、峠へと足を向けた。
踏み慣れた石段を登り、やがて町の気配が背後に遠のいていく。
それでも、世界は静かに繋がっていた。
*
子どもたちの笑い声が背後で遠ざかる。
草いきれと湿った土の匂いが濃くなり、足元の石畳が苔を帯び始める。
鳥の声が消え、風の音が強く耳を撫でる。
やがて、竹林の奥――その扉が現れる。
ぎぃ……と、軋む音を立てて扉を押し開けた。
あの匂いが、ふわりと鼻をかすめた。乾いた薬草と、ほんの微かな鉄のにおい。
薬房のなかには、前と同じ空気が流れていた。
……いや、同じではなかった。
ほんのすこしだけ、空気が、待っていた。
リンは、机の前で足を組み、薄暗い部屋の中で静かにそれを揺らしていた。
赤い羽織が、まるで炎のように照り返す。
「来たのね」
声は、扉が閉まる音に重なるように響いた。
「……えらいわ、ゆき」
リンは振り返らない。けれど、その声には確かに微笑があった。
机の上、小瓶が一つ――音もなく、すでに滑らされていた。
それは、準備されていたもの。
それは、予め用意されていた“次の一歩”。
「今日の“お薬”はこちら」
瓶は、透明だった。中には青い液体が入っている。
さらさらと音を立て、冷たそうに揺れている。
「何が入ってるんですか?」
「蛇の心臓と、月夜草の露。それに、君の涙よ。……うそうそ」
リンは笑う。
けれど、笑っていても、目が笑っていない。
「材料はね。蛇の毒なのは確か。飲んだら、身体の芯があったかくなるク・ス・リ。……どうする?」
「……飲みます」
ゆきは躊躇わなかった。
瓶の蓋をそっと外す。薬の匂いが鼻先をくすぐる。甘いような、でも少し金属を混ぜたような――そんな不思議な匂いだった。
ゆきは一息に、喉の奥へ流し込んだ。
味は……わからなかった。舌がぴりついて、感覚が曖昧になる。
冷たいような熱いような液体が、喉を滑って落ちていく。
まるで体内に小さな刃物が刺さったような、そんな感覚。
「いい子ね」
リンはふっと笑った。その声は優しく、けれど、もう興味を失ったように視線を逸らす。
「じゃ、また明日」
その背は、もう何か別のことを考えているかのようだった。
ゆきは、何も言わずに一礼した。
林に吹き込む風が、薬房の戸を揺らす。
背を向けたリンの白衣が、かすかに揺れた。
竹林を抜けると、陽は傾いていた。
影が長く伸び、土の匂いが強くなる。風が木々を通り抜け、ざわり、と葉を鳴らす音が耳に残った。
振り返っても、薬房の姿はもう見えない。まるで、あの場所だけが別の世界だったかのように。
ゆきは、家へと足を向けた。――そして、夜が来た。
「っ、あつ……! あつい……っ!」
布団の上で、ゆきは身をよじっていた。喉が焼ける。胃が跳ねる。血が、逆流するような感覚。
「っ……ぅ、う……ッ、いや……!」
天井が歪んで見える。壁がにじむ。
誰かが名前を呼んでいる気がして、でも、誰もいない。
息が浅くなる。指先が痺れ、冷たくなる。
背中に張りついた汗が、皮膚を焼くように熱い。
このまま終わってしまえばいい。そんな逃げ道を、体が勝手に探していた。
“身体があったかくなるだけだから、大丈夫”
そう言ったのは、あの人だった。
嘘だ。あれは、嘘だった。
でも、どうしてか、その言葉が耳に焼きついて離れなかった。
痛みに耐えながら、心のどこかが、あの声をもう一度聞きたがっていた。
*
やがて、夜が明けた。
ゆきは、目を開けた。
薄い光が障子を透かして差し込んでいる。
布団の中、体が、動いた。息が、できた。
「……生きてる……」
呟いた声が、あまりにも現実味を帯びていて、ゆきは自分の声だと気づくのに少し時間がかかった。
あれほどの熱と痛みを越えて、いま、ここにいる。
身体は――むしろ、軽い。不思議なくらい。
立ち上がり、窓を開ける。
風が頬を撫でた。朝の空気が、胸の奥まで透き通っていく。
「……リン様の薬……」
思わず、そう口にしていた。その声には、抗えない何かが混じっていた。
信頼と、恐れが、まるで、自分でも制御できない呪文のように。
身体の芯に、確かな力がある。血が澄んでいくような感覚。
まるで、自分の中に“異物”が溶け込んで、新しい命にすり替わっていくような――そんな錯覚。
これが、毒?
それとも、薬?
ゆきには、もうわからなかった。でも、一つだけ、確かだった。
あの薬は、リン様から与えられたものだった。
そして、リン様の言葉は――嘘じゃなかった。
その朝、ゆきは、心の中で初めて“リン様”と呼んだ。
敬語でも、恐怖でもなく。それはどこか、祈りに近い響きを持っていた。
そうして、それが、“呪い”の始まりだった。
喉の渇きも、頭の痛みもない。あの苦しみが嘘だったかのように、身体は軽く、息は深く吸えた。
布団から身を起こすと、畳の感触が心地よく足に伝わる。いつぶりだろう――こんなにすっきり目覚めたのは。
「おはよう、お母さん」
布団のそばに寄ると、しのの目が薄く開いた。
「……ゆき。おはよう……」
「今日はどう? 身体、楽そう?」
「ん……うん。昨日より、少しだけ。喉が乾いて、何か飲みたいな……」
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。
しのが“喉が乾いた”と口にすること自体が、奇跡だった。
「待っててね、すぐお茶淹れてくる!」
台所に駆け込み、急須を探す。湯を沸かしながら、鼻歌が出そうになるほど心が弾んでいた。
湯気が立ち上る。その白さの向こうに、今までの自分――疲れ切った顔、泣き腫らした目――が薄れていくのがわかった。
茶碗を両手で持って戻ると、しのが穏やかな笑みでゆきを見ていた。
「ゆき……元気になったね」
「うん。なんだかすっごく元気で……走り回りたくなるぐらい!」
そう言って、つい笑ってしまう。
笑うなんて、本当に、久しぶりだった。
*
町に出ると、空は澄み渡っていた。
柔らかな朝日が屋根瓦に反射して、魚屋の看板がきらりと光っている。
通学途中の子どもたちが、元気に手を振る。
「おーい、ゆきーっ! 今日は遅刻じゃないのかー!」
「うわっ、ケンタ!? 待ってよ!」
「おまえ、走り速っ! なに? なんか食った?」
「いや、なんにも……でも、なんかすごく調子よくて!」
「なんだよー、ズルいー!」と、ケンタが笑いながら小突いてくる。
アヤも後ろから追いついて、言った。
「でもほんと、顔色ぜんぜん違うよ。昨日までのゆきと別人みたい」
「え……そ、そうかな」
「うん。……なんか、目が、力ある」
一瞬、ドキッとした。
力。そう言われて、リン様のことが脳裏をかすめる。
けれど、今日はただ素直に――嬉しかった。
寺子屋の教室には、朝の光が入り込んでいた。
埃が浮かぶその光の帯が、まるで祝福のようだった。
先生が板書する文字が、今日はやけにきれいに読めた。
筆も、滑らかに動く。
隣のケンタが驚いた顔でゆきのノートを覗き込む。
「おまえ、どうした!? 字きれいになってるじゃん!」
「え、うそ!? ほんとだ……!」
ゆき自身も驚いていた。腕に力が入る。目が冴える。なにより、胸の中が――苦しくない。
昼休みには、川べりまで走っていって、冷たい水を手ですくって飲んだ。
風が吹き抜ける。
空の青さに、心まで晴れていくようだった。
その時、ふと、思った。
(……こんな日が、ずっと続けばいいのに)
夕方、町の空気が金色に染まりはじめる頃、ゆきは薬房への道を歩いていた。
竹林の葉が光を透かし、ざわり、と風に揺れている。
いつものように、足を進める。
あの日とは違う。身体に力がある。心に迷いがない。
それは信仰か、感謝か、それとも洗脳か――本人には、わからなかった。
ただ一つ、確かなことは。
リン様の元に向かう足取りが、今まででいちばん軽かったということだった。
*
今日も、薬は用意されていた。
リン様は何も説明せず、ただ淡々と調合を続けていた。
音もなく粉が混ざり合い、器の底で細かな泡が立っている。
「今日は錠剤タイプよ。噛まずに飲み込んでね」
「……はい、リン様」
その声を発するだけで、体の内側がじんわり温かくなる。
不思議と安心する――それが危うい兆しであることにまだ気づいていなかった。
その翌日は飴玉。
次の日は、粉。
また次は、舌の裏に貼る透明なシート。
形を変え、色や香りを変えながら、リン様は毎日、ゆきに“毒”を与え続けた。
そして毎晩、ゆきは苦しんだ。高熱。幻覚。吐き気。手足のしびれ。視界の暗転。鼓膜の奥でリン様の声が反響する夜。
まるで、自分の内側が書き換えられていくようだった。
それでも、朝には――何事もなかったかのように、元に戻る。むしろ、それまで以上に身体が冴えていた。
走っても息が切れなかった。でも、それ以上に、心がざわつかなかった。
「生きてる」というより、「生かされている――そんな感覚が、ゆきの内に芽生えていった。
*
母・しのの病状も、わずかずつ、だが明らかに変わり始めていた。
長く閉じていたまぶたが、ほんの一瞬、わずかに開いた。
「……おかえり、ゆき……」
声はかすれていたが、確かに聞こえた。
枯れた声がゆきの胸を満たし、涙が止まらなかった。
「おかえりって……言った……」
「うん。言ったなぁ」
わずかに笑った母の目尻に、昔の面影が重なった。
それだけで、世界がやさしくなった気がした。
「ねぇ……お母さん、最近……少しだけ、からだが楽なの」
寝床に差し込む午後の光のなかで、しのがぽつりとつぶやいた。
その声はかすれていたけれど、ほんの少しだけ、昨日より明るかった。
「そうなんだ、すごい……! よかった……!」
ゆきの顔がぱっと綻ぶ。こみ上げてくる安堵を隠しきれず、枕元にすがるように身を寄せた。
「あら〜見て…、ドアの隙間…。ゆき…。たんぽぽが咲いてる…」
ふと視線を向けた先、木の扉の下から差し込む春の光に、小さな黄色の花が影を落としていた。
「これ、お母さんがよくお茶にしてるやつ?」
「そうよ。根っこを干して煎るの。苦いけど、体にはいいの…」
「ふーん……苦くても、お母さんが好きなら、僕も好き」
「ふふ、ありがとう。そういうの、一番の薬になるわ」
しのの頬に、小さな涙がにじむ。
それを悟られまいと、そっとまばたきしてから――、穏やかな声で続けた。
「ゆき、なにかしてくれてたの?」
問いかけは、決して責めるような響きではなかった。
ただ、どこかすべてを知っているような、優しい温度だけがそこにあった。
「……ううん、なんにも。……でも、よかった」
ゆきは視線を逸らしながら、ぎこちなく笑った。
喉の奥に何かが引っかかったように、言葉がうまく出てこなかった。
リン様のことは、話せなかった。
あの薬房での約束。リン様の声、目の奥の静かな光、そして――あの手渡された瓶の重み。
それはどこかで、自分だけのものだと思っていた。
言葉にしてしまえば、壊れてしまいそうな、たったひとつの祈り。
たんぽぽの黄色が、静かに陽だまりの中で揺れていた。
誰にも触れられないように――それはまるで、ゆきの心そのものだった。
大切な何かを隠すように、静かに、そっと風に揺れている。
「これは、自分だけの秘密なんだ」
そんな想いが、ゆきの胸の奥に芽生えていた。
――お母さんが元気になるためには、“誰かに知られてはいけない”気がしていた。
その名前が喉まで出かけて、でもゆきは唇をきゅっと噛んだ。
*
数日が経ち、寺子屋でも小さな変化が現れ始めた。
「おーい、ゆきーっ!」
ケンタの声が後ろから響く。いつもの坂道。学校への道。
けれど、ゆきの視界はどこか少し、にじんでいた。
「おまえ最近、走るのめちゃくちゃ速くね? 朝から元気すぎんだろ」
「あ、ごめん。気づかなかった……」
「なんだよ、また寝不足? 目の下くまスゴいぞー」
「うん……でも平気」
苦笑しながら返すと、アヤが眉をひそめて横から口を挟んだ。
「ねえ、ゆき。最近、ちょっと変だよ。無理してない?」
ゆきは言葉に詰まった。
「変……って、どういう意味?」
「……うーん、前より背が伸びたとかじゃなくて……何かがちがう。遠いっていうか」
言葉にできない違和感が、アヤの目の奥に宿っていた。
ゆきは笑った。うまく、いつも通りの顔で。
「気のせい、だよ。僕は、大丈夫だから」
授業中、筆先を動かすふりをしながら、ゆきの視線は宙を泳いでいた。
「今夜の薬は、どんな形だろう」
「またあの感覚に襲われるのか」
「今度こそ、死なないだろうか」
そんな思いが、教室のざわめきとともに浮かんでは消える。
先生の声が遠く響き、黒板の文字が読めなくなる。
隣のケンタがノートを覗いてきて、苦笑した。
「なんだよそのページ、空白だらけじゃん。おまえ、今日どっか行ってたろ~」
「……ちょっと、考え事してて」
「リン様のこと?」
――そんな言葉が、思考の底でよぎる。
もちろん、ケンタは何も知らない。けれど、ゆきには見透かされたように感じた。
*
その日も、薬房へ向かった。
竹林を抜ける風が、葉の表面を撫でるたびに、ゆきの頬も冷える。
薬房の灯りは、まるで闇の中に浮かぶ別世界の標。
戸を開けると、いつも通りの空気。薬草の香りと、鉄のような湿った匂い。奥から、リン様の足音が聞こえる。
「今日はね――ちょっと刺激が強いから、覚悟しておいてね」
「はい、リン様」
“様”をつけることが、もはや呼吸のように自然だった。
リン様の声を聞くだけで、世界がすべて正しい場所に戻るような気がした。
薬を手渡され、目を閉じて口に含む。
それが毒か薬か、もはやどうでもよかった。
重要なのは、それが“リン様の与えたもの”であるということだった。
夜の空気が、竹林を通り抜ける。
星は、遠くで瞬いていた。
この夜が終わればまた朝が来る。
そして、またリン様に会える。
それだけで、ゆきの世界は成立していた。