第一章 ―毒の匂いと少女の声―(前編)薬房への第一歩
扉は、ゆっくりと音を立てて開いた。
軋んだその響きは、まるで見えない誰かに「ようこそ」と囁かれたようで、ゆきは無意識に肩をすぼめた。
中は思っていたよりもずっと、静かだった。
埃の舞う薄暗がりに、人の気配はない。けれど、確かに何かが“生きている”と感じた。
草を煮詰めたような、でも鼻の奥をつんと刺す――それは、はっきりと「毒の匂い」だった。
「……だれ〜?」
奥から、やる気のない声がした。
だが、それは重く響く男の声ではなかった。むしろ、若い女の人の、やわらかな音色だった。
その緩さに少しだけ安心して、ゆきは踏み出す。逃げられなかった。もう、ここまで来てしまったのだから。
軋む床を踏みしめ、そっと進む足元を、乾かされた薬草の束が見守っていた。
薄い木の窓から、帯のように光が差している。その光に、宙を舞う埃が金の粉のようにきらめいていた。
ゆきの頬を撫でる風が、竹林から吹き込んでくる。それだけが、この場所が町の一部であることをかすかに思い出させてくれる。
やがて、薬房の奥――座敷のような空間が見えてきた。
そこで、彼女は待っていた。
少女ような見た目だった――けれど、ただの“少女”ではなかった。
その仕草、その目、その静けさ。そのすべてが、年齢という概念を超えていた。
長い黒髪を高く結い、深紅の羽織をまとって、畳に座布団を敷いた上に膝を立てていた。
机の上には、瓶や粉末、すり鉢に銀の匙。
まるで、祈りのために整えられた祭壇のように、どれもが整然と置かれていた。
少女は、手元の作業に気を取られている様子で、ゆきの存在に目を向けることすらしなかった。
だがその無関心さが、なぜか余計に威圧感を漂わせていた。
「あなた、子どもね。……なにしに来たの?」
少女は、匙を指先で転がすように弄びながら、ぼんやりとした声でそう言った。
こちらを見ずに、まるで風景の一部でも見るように。
その声は、不思議な響きを持っていた。
澄んでいて、冷たくて――それでいて、どこか耳に残る心地よさがあった。
水面に触れた時のような、ひんやりとした清らかさ。けれど、それは同時に、深さの知れない底冷えでもあった。
「……お母さんが、病気で……」
ゆきは喉の奥が詰まったように、言葉を絞り出す。
それでも、懸命に、止まりそうになる声をつなぎとめた。
「もう、町のお医者さんにも、祈祷師にも見てもらって……でも、助からないって言われて……」
少女は、匙を瓶の口に落とした。
カラン、と。乾いた音が、室内に澄んで響く。
ようやく彼女は、顔を上げた。
目が合った瞬間、空気が変わった。その目は、漆黒。ただの黒ではない。光を沈めるような――深く、深く、夜の色。
「ふうん。なるほど。噂、聞いてきたんでしょ? ここ、帰ってこられない薬房だって」
「……はい。でも、どうしても……助けたいんです」
その言葉に、少女はふっと笑みを浮かべた。
けれどその微笑みは、まるで上質な仮面のようだった。
形は美しく、整っているのに、どこか中身が透けて見えない。
それでも、魅入られるような美しさがあった。
「なるほど。そういうところね、あなたの“甘さ”。あははっ、面白いわ」
少女は立ち上がった。その動作は静かで無駄がなく、まるで風が形を変えるようだった。
すらりとした腕を棚へ伸ばすと、ひとつの小瓶を取り出す。
深緑のガラス瓶。
ラベルは貼られておらず、瓶の表面に、光の角度でかすかに見える“蛇の彫刻”だけが刻まれていた。
「これ、“蛇の息”って呼ばれてる薬。お母さんの命をつなぐには……まぁ、悪くないわ。量さえ間違わなければね」
ゆきの目がぱっと輝いた。
けれど、次の言葉がすぐにそれを凍らせる。
「でも。タダじゃない。条件があるの」
「……条件?」
少女は微笑んだ。
それは“提案”というより、“支配”のようだった。軽やかでいて、逃げ場のない遊戯。
「これから、時間があればここに来ること。そして、私が用意した薬を飲むこと。いい?」
ぞっとするような響き。
だけど、奇妙なことに、その言葉の裏には“優しさ”が確かにあった。
「そうすれば、お母さんは助かる――かも、ね〜」
少し気の抜けた提案にゆきは驚いてしまった。
「……」
沈黙。
空気が重く、光さえ静まっていくような、静寂が落ちた。
ゆきは、唇をきゅっと結んだ。
薬、嫌いだ。苦くて毒かもしれない。痛いかもしれない。苦しいかもしれない。
それでも、逃げる理由が、もうどこにもなかった。
「……やります。飲みます。なんでもします!」
その目は、揺れていなかった。
少女――リンは、肩をすくめて言った。
「ほんと、素直。つまらないくらい……。飲まないって選択肢もあるのに……」
小瓶を差し出しながら、ようやくその名を明かす。
「私は、リン。毒も薬も、同じように調合する者よ。あなたが飲むか飲まないかは、自由。……でも、選んだのはあなた。わかってる?」
ゆきは、小さな手で瓶をしっかりと握った。
「……ぼく、ゆきです。お母さんを助けたいんです!」
リンは、その目の奥で一瞬だけ、何かを揺らした。
それは、哀しみだったのかもしれない。それとも、過去の記憶だったのか。
「……じゃあ、ようこそ、ゆき。あなたはこれから、“毒見役”という名の実験台」
リンの声には、どこか嬉しさが滲んでいた。
「私専用のモルモットになるのよ。苦しんで、泣いて、それでも――私のために、生き延びるの」
そう言って、深紅の羽織を揺らしながら、ふいに笑った。
「……ふふ、楽しみにしてるわ」
*
薬房の扉が、ゆっくりと閉じる音が背後でした。
夕暮れの光が、竹林を横切って差し込んでくる。
草の匂い。土の湿り気。小鳥の囀り。それらはどこまでも、日常の音だった。
なのに、ゆきの手には――“非日常”が握られていた。
「蛇の息」と名付けられた小瓶。
光にかざすと、瓶の底でわずかに揺れる液体が、静かに毒々しく光った。
薬房を出てから、町に戻るまでの道のりが、どこか遠くに感じられた。
竹林を抜けると、薄紅色の空の下に、町の屋根がぽつぽつと並んでいる。
煙の上がる家々。薪を割る音。土間から聞こえる湯の沸く音。
すべてが変わらずそこにあった。
だけど、ゆきの足取りはどこか速くなっていた。
薬の瓶を、胸に押し当てるように抱きしめながら。
その日――
「黒ずくめの大男がいる薬房」という噂は、静かに崩れた。
だが、代わりに。
もっと得体の知れない、なにかが――ゆきの心に、そっと入り込んだのだった。
*
帰り道、誰もいないはずの峠道に、ふと人の気配がした。
草の擦れる音に導かれるように顔を上げると、細い道の向こうから、ひとりの少女が歩いてくるのが見えた。
見覚えのない、黒髪の少女。
肩までの髪が風に揺れて、どこか夢の中から抜け出してきたような、静かな佇まいだった。
この道は、町の人すら滅多に通らない。ゆきが峠を越えるときも、誰にもすれ違わなかった。
その少女は、小さな袋を胸に抱きしめるようにして、薬房のほうへと歩いていく。
――こんな時間に?
その疑問が喉の奥に引っかかったが、立ち止まることはできなかった。
ゆきの手には、しのに届ける薬がある。
家で待つ母の姿が胸に浮かび、気になる気配を振り切るように、ゆきは足を速めた。
けれど、すれ違いざまに感じた淡い香りと、ちらりと見えた少女の横顔は――どこか、胸の奥に残ったままだった。