プロローグ ― 春、香る風の町 ―
「毒か薬か、それは“選んだ者の覚悟”で決まる」――。母を救うため、薬房で謎の薬を飲み続ける少年・ゆき。依存、信頼、孤独、そして“選ぶという行為”の重み。静かに染み入る幻想と痛みの中で、少年は命と向き合い、“生きる”ことを選んでいく。救いと滅びの境界で、“誰かを信じる”という最も優しい毒に触れる物語。
『日本ファンタジーノベル大賞2026』に応募中の作品。体調不良なため週に2回、約千文字程度を編集にて公開いたします。
幽華二十七年、三月。春霞が町を包みこみ、まるで夢の中にいるような静けさが流れていた。
やわらかな春の陽と、あたたかな風。
そのすべてが、静かに沁みわたっていた。
町のあちこちには白い花が咲き、屋根の上では小鳥たちが囀り合い、石畳の道を行き交う人々は、陽気に頬をゆるめていた。
朱色の橋の上では、立ち止まって目を細める人影があった。
春の香りが、風にのって、町のすみずみまで撫でてゆく。
ここは、広い平原のなかにぽつんと開けた、小さな城下町。
四季折々の風情が流れ、和傘を差した娘が笑い、焼きたての団子の香ばしさが空へとほどけていく。
そして今――そんな心地よい春の風が吹き抜ける町の片隅に、一人の少年が、立っていた。
名前は――ゆき。
十歳。髪はぼさぼさで、着ている服は母が繕ったもので、どこかぶかぶか。
走れば転び、猫には逃げられ、物を持てば落とす。
でも、笑えば周囲もつられて笑ってしまい、泣けば誰かがそっと手を差し伸べてくれる。
そんな、放っておけない子だった。
「ゆき、夕飯の前に、いつもの薪を拾ってきてくれる?」
「うん! 夕焼け前には帰るね。闇喰いお化け、怖いから」
そのやりとりが、日常だった。
何気ない言葉。けれど、それはどこまでも優しい、ふたりだけの時間だった。
母の名は――しの。
町でも評判の働き者で、決して目立たないけれど、誰からも静かに慕われている。やさしい人だった。
少し寂しげな笑顔を浮かべながら、それでも他人に心を寄せてしまう、そんな人だった。
ゆきとしのは、町はずれの質素な長屋で、寄り添うように暮らしていた。
「窓の外を見て、ゆき。赤い実がなってる」
「これ、食べられるの?」
「ダメよ。ヒヨドリジョウゴ。鳥は食べても、人間はお腹を壊すの」
「見た目は美味しそうなのに……」
「毒ってね、たいてい、優しそうな顔してるのよ」
季節の野菜を煮込み、小さな布団にくるまって、ぽつぽつと今日の出来事を語り合う夜。昼間に拾った羽根や、変な形の石を机に並べて、「どれがいちばん宝物っぽいかな」なんて話す午後。
そこには、ただただ笑顔があった。
――何も起きない日々。それが、何よりも愛おしく、幸せだった。
その夜は、不思議なくらい風が静かだった。
*
しのは、湯たんぽの上に両手をのせながら、ふいに空を見上げるような目をして言った。
「ねえ、ゆき。人は死ぬ前に、どんな言葉を最後に思い出すのかしらね……」
ひとことでは終わらずに、しのはしばらく黙って、また目を閉じた。
けれど、次に口を開いたとき――その声色は、どこか固い決意をにじませていた。
「ゆき。もう十歳になったから……そろそろ、伝えておかないといけないことがあるの」
ふと、しのが声の調子を変えて言った。
「え、なに?」
ゆきは気にも留めないような調子で、素っ気なく返す。
「ゆきは素直だから、覚えておいてほしいの。“言霊の使師”って、聞いたことある?」
「……なにそれ」
ゆきは、しのの表情にほんの少しだけ緊張を覚え、顔を覗き込んだ。
「“言霊の使師”っていうのはね、言葉を使う人の中でも、高度な“言霊”を扱える者のことを言うのよ」
しのは、ゆきの目を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと続けた。
「ふーん、そうなんだ」
照れ隠しのように、あるいは興味を逸らすように、ゆきはふいに視線をそらす。
「でもね、ゆき。“言霊の使師”って、本当は――心の奥を、見抜いてしまう人なの。だから……それは、言霊で、人の心が壊れることもあるし……救われることもあるのよ」
その声はやさしく、けれどどこか、遠い場所を見つめていた。
「ふーん……」
――こんな他愛のない会話を、幸せだと思っていた。
だが、翌日。
そのささやかな日常は、ふいに――壊れた。
*
「……お母さん?」
しのの身体が、冷たい布団のなかで小さく震えていた。
額は火照り、唇は乾いていた。汗がびっしょりと髪を濡らしている。
「ねぇ、お母さん……寒くない? ねえ、毛布、もう一枚持ってくるね?」
返ってきたのは、かすかな笑みと――「だいじょうぶよ」という、かすれるような小さな声だった。
――そんなわけない。
ゆきは、しのの手を握った。その手は、ゆきを包むように優しく握り返してくれた。
けれど、指先はひどく冷たかった。
数日後、ゆきの靴はすっかり擦り切れていた。
医者の家を訪ねて、祈祷師に頭を下げて、香炉屋の戸を叩いた。
「お願いです、母を……母を助けてください……!」
だけど返ってきたのは、重たい沈黙ばかりだった。
「“流れ病”か……もう年齢的に、ね」
「薬も祈りも効かん。我々の手には負えんよ」
「悪いが……うちじゃ無理だ。気の毒に」
誰も、誰ひとりとして、助けてくれなかった。
それでも、ゆきは泣かなかった。
泣いてしまったら、ほんとうに崩れてしまいそうで。
だから、歯を食いしばって走った。泥だらけになっても、膝を擦りむいても、ただ――走った。
その帰り道、寺子屋の前を通りがかった。
「おい、ゆき! ゆきんちって、お母さん倒れたってホントか?」
ケンタが小声で言う。
「それマジ? やば……」と、後ろで誰かが笑った。
ゆきは何も言わず、うつむいて通り過ぎた。
靴の裏が、濡れた地面をぴちゃ、と鳴らした。
空はすっかり茜色に染まり始めていた。
竹林の向こう。町の屋根瓦が、淡く朱を帯びてゆく。
寺子屋の格子窓から、紙の貼られた障子がほのかに光を反射していた。
夕日が傾くほどに影は長く伸びて、ゆきの姿を追いかけるように地面に這いついてきた。
遠くで、猫が一声鳴いた。
川辺では風がさざめき、小舟の帆がゆるやかに揺れている。
ひとつ、またひとつ、町の灯がともる。でも、あの長屋の灯だけは――まだ、点かない。
家に戻ると、母の手はさらに冷たくなっていた。
でも、まだ生きていた。
その命の灯が、ゆきにとってすべてだった。
お母さんの手から、少しずつ力が抜けていくのを――見つめることしか、できなかった。
そして、空は夜に溶けていった。
どこかで、鳥が巣に帰る羽音がした。
その夜も、ゆきは眠れなかった。
*
次の日も、いつものように、川べりで薪を拾っていた。
足元には湿った落ち葉。鳥の声が遠くで響く。
いつもと同じ、はずだった。
「ねえ、ゆきって、最近ちょっと変だよね」
川の向こうから、アヤの声が届いた。
「前はもっと、しゃべってたのにさ……ちょっとだけ、さみしいかも」
その言葉だけが、ゆきの胸に突き刺さった。
手の中の枝が折れる。
「……」
ゆきは何も言えなかった。
ふと、風が吹いた。
竹の葉がさわりと揺れて、緑の匂いを運んでくる。
その風にまぎれて、どこかで中年のような声で噂話が聞こえてきた。
「町外れの峠に、“帰ってこられない薬房”があるんだって」
「黒ずくめの大男が毒を煎じてるんだろ? ほら、あの――」
「行った奴、誰も戻ってこないって話、ほんとかな……」
町の誰も、あの薬房に近づこうとしない。
たとえ家族が倒れても、踏み込もうとは思わない。
薬をもらったという人もいる。
でも、みんな――言葉を濁した。
「……あそこには、ね。人じゃない“もの”が住んでるんだってさ」
そう呟いた老婆の声が聞こえた。
瞬間、ゆきは駆け出していた。
声の主を追って、町の通りを縫うように走る。
でも、次の角を曲がったとき――
人波に紛れて、誰が話していたのかわからなくなっていた。
立ちすくむ。
老婆も中年も見当たらない。
それらしき人はいるもののどの人かはわからない。
胸がざわざわしている。
怖い。知らない場所、知らない人。
でも――
「……もし、お母さんが助かるなら」
空を見上げた。
夕焼けが、空の端から滲んでいく。
町の屋根が、赤く染まる。
影が、ゆっくりと伸びていく。
まるで誰かに背中を押されるようだった。
ゆきは立ち上がった。
誰にも告げずに。
ただ一人、竹林の奥へと――その薬房へと、足を向けた。
薪を手放さずに抱えたまま、砂利の坂道をのぼる。
背丈ほどの草をかき分けながら。
風が揺れる。音がこわい。心臓が、うるさいほど跳ねる。
――でも、止まらなかった。
「お母さんを、助けてください」――それだけを、伝えるために。
もう少しだけ。
もう少し登れば……
小さな身体にとっては、すべてが重労働だった。
いつの間にか、抱えていた薪は落ちていき、残ったのは数本。
それでも、ゆきは疲れた体を、無理やり前へ進ませた。
やがて、見えてきた――
つる草の絡まる、古びた屋敷。
看板はなく、扉はさびつき、取っ手は壊れたまま。
ただひとつ、屋根の端に、白く細い花がひとつだけ咲いていた。どこかで見たことのない、透明な白。
まるで、何年も誰の手にも触れられていないような……そんな家。
それでも、ゆきは確信する。
――ここだ。
その瞬間、町で聞いた噂話が頭をよぎる。
「“帰ってこられない薬房”がある」
「黒ずくめの大男が毒を煎じてるんだってさ」
「行った奴はみんな、戻ってこない……」
深く息を吸い込んだ。
震える足をごまかすように、一歩、前へ。
もし、大男が出てきたらどうしよう。
毒を飲まされたら? 捕まって、痛いことをされたり――殺されたら?
不安が、波のように胸に押し寄せる。
心が、潰れてしまいそうになる。
「言葉ひとつで救われるって、お母さんは言ってた。だったら、きっと……」
そして。
「――お母さんを、助けてください」
ゆきは、そう言おうと思った。
そして、そっと戸に手をかけた。
ぎぃ……と、重たい音がする。
その瞬間、中から声がした。
――時が止まったようだった。
……
「……なんかよう?」
それは――
思っていたよりもずっとやる気のなさそうな、けれど、どこか美しい声だった。