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妹をおぶって

作者: 月白

──あの坂道を通る時には、絶対に振り返ってはいけないよ。

──……だって、あの子が背中に……──


日本で一番長い坂道は弥生坂というけれど、ここの坂道も負けてない。と密かに奥田武は思っている。


奥田武は、とある坂道を歩いていた。

そこは、通称縄文坂と呼ばれている。 なぜそんな名前で呼ばれているか理由は定かではない。が、 もう少し長い坂道であったならば、弥生坂を越えて日本一になったであろうという地元民の負け惜しみの気持ちが滲んだ結果なのではないだろうか、と武は勝手に解釈している。


もちろん実際にそんなことを言っている人は見たことがないので、あくまで本当に武の勝手な解釈に過ぎないのだが。


縄文坂は日本一という名誉がない以上、 住民にとっては単に長くて鬱陶しいだけの坂道だ。


坂道は急というわけではなかったが、ゆっくりと歩くと登りきるまで10分はかかる。 だから住民たちが坂道のてっぺんにある大型スーパーマーケットに向かうためには、主に車を使う。 この街で歩いて坂道を登ろうなんていう物好きは、 子供か、健康志向の老人ぐらいじゃないかと武は思っている。


そしてその坂道にある噂が囁かれるようになってからは、ますます 車を使う人が増え 、人気は遠のいていったようだ。



けれど武は1年ぶりにその坂道を歩いていた。ゆっくり、ゆっくりと。 妹──梓を背中におぶさりながら。


「お兄ちゃんにおんぶされるの、久しぶりだな」


そう言って梓は両手を武の首に絡ませた。 体の力も抜いたのか、 ずしりと体重がかかる。 夕方とはいえ まだまだ残暑の残るこの時期、武の額から玉のような汗が噴き出してくる。


梓は久しぶりの兄のぬくもりにキャッキャと喜んで、前髪がジュリジュリと音がするぐらい兄のうなじに顔をうずめ、 首を左右に振る。梓の鼻先がくすぐってこそばゆい。たまらず武は「おいおい、やめろよ」と言って笑った。


「だけどお兄ちゃん。絶対に後ろを振り向いたらダメなんだよ。だって──」

「分かってるよ」


武はピシャリと言い放った。


坂道を半分ほど登って、ちょうど真ん中に差し掛かったが、もう縄文坂を歩く人影は見当たらない 。

実は途中、近所に住む池田さんと高橋さんに出会った。

池田さん。 池田の旦那さんは近所といっても、実際はそこまで近くではない。

ギリギリ同じ町内会に住んでいる人というぐらいだ。 武の住んでいる町内はお年寄りがとても多い。 池田さんもそのたくさんいるお年寄りの一人で、 はっきりと年齢を聞いたことはないがおそらく80は超えていると思う。


池田の旦那さんの方は、ランニングが日課だ。 運動をしなれた池田の旦那さんは、どれだけ走っても大粒の汗をかくということはない。毎日真っ黒のテカテカした肌で、頭に産毛のような白髪をなびかせながら、 誇らしげに街を走っている。 ランニングウェアも、おそらくちゃんとしたスポーツセンターで販売しているものを着ているからだろう。


後ろ姿だけ見るとまるで30代半ばのように見えなくもないなと、むかし武と梓は感心しあったことがある。 もし2人で本人にその感想を伝えていたら、池田の旦那さんはどんなに得意顔をしただろう。 武は想像すると、少し面白いような気がした。

あーあ。 去年の時にでも言えばよかった。


けれどもそんな、いつも元気な池田さんは、武を見た途端に逃げ出した。

武を見た途端「 ひー」と言いながら、慌てて背を背けて逃げ出したのだ。


梓は「今だったら池田のおじいちゃんが大汗かいたところを見られたかもしれないのに……いっちゃった」 と残念がっていた。


その後、すぐに高橋さんはやってきた。

高橋さんは斜め迎えに住んでいる「トキさん」という名前の 、一人暮らしのおばあさんだ。 池田と旦那さんと違って名前まで知っているのは、関係が深いからだ。


高橋さんの娘は果物農家に嫁いでいる。 だから時々「果物が送られてきた」と言ってこちらによこしてくれた。

時には「切ってあげるから家で食べてくるといい」と言って招いてくれることもあった。


梓は高橋さんによくなついていた。

「 同じ果物でもおばあちゃんが切ると、なんだか美味しいような気がする」なんて言って 高橋さんを喜ばせていた。


その高橋さんが息を切らしながらやってきた。 高橋さんは池田の旦那さんと、そう年齢が変わらない。 そして池田さんと違って、運動する習慣は高橋さんにはなかった。なのに無理して走ってきた。 高橋さんは膝を痛そうにさする。 腰を折り曲げて苦しそうにハァハァと唸った。

梓は心配だったのか、ぐぅと武の右頬に頭をよせ、 高橋さんを見つめる。 高橋さんはゆっくりと顔を上げてただ一言「 後で沢山の果物、お家に持って いくからね」と言った。


そして高橋さんは涙を流しながら武に手を合わせて、 立ち去った。



「なんだか、さっきからみんな変だよね」


梓も同じことを考えていたようだ。 別に今 池田さんと高橋さんの話題を出したわけではないのに。 タイミングが合いすぎて武は笑ってしまう。やはり兄妹というものは気があうもので、時には一種テレパシーの様なものも起こり得るのだろうか。


「そうだね」


2人して破笑する。


「──だけどお兄ちゃん。絶対に振り向いてはダメなんだよ」

「分かってるってば」


武は面倒くさそうに言った。


坂道は終盤に差し掛かかる。

ふと武は、 何か目印があるわけでもないとある位置に、立ち止まった。

梓がぐぐぐと両足を、武の胴にからめる。不安そうだった。


──心配いらないよ。

武は静かに語り始めた。

あの日の思い出に、ついて。



それは梓が、今よりもっともっと小さい時の話だ。

梓は武が10歳の時に生まれた。 年の離れた妹だ。 正直なところを言うとあの頃の武は、 梓の存在が面白くなかったのだ。 両親は 久しぶりの赤ん坊である梓を、それはそれは可愛がった。


きっと両親は武が赤ん坊の頃も梓に負けないぐらい 可愛がってくれていたのだろう。 けれども武にはもうその記憶がない。 知識としては自分も可愛がってもらっていたのだろうとは分かっていたが実感としては「両親は梓ばかりを可愛がっている」という思いが常に拭えなかった。

だが厄介なことに、もう10歳ともなろう武には、しっかりプライドというものも育っていたのだ。 武は、両親に妹じゃなくて自分も見てくれなんて、とても言えなかった。 自分が内心でそう思ってるいることすらちょっとでも悟られたくなかった。


当然ストレスはたまるから、その分妹への愛情が目減りしていって、 今にして思うと なかなか 厄介な悪循環に陥っていたのだ。


そんなおり、ある事件が起きた。

武が片付け忘れた玩具を、梓がうっかり飲み込んでしまったのだ。


玩具はプラモデルの部品だった。梓が飲み込めるぐらいの小さなサイズだけれども 所々角張っている。

両親は大慌てで救急車を呼んだ。


救急車のサイレンの音は、 道を歩いてる時や夜中に、時折遠くから聞こえることはあったけれども 家の前まで来るとこんなにも大きなものなのか。

両親に連れられ、武も一緒に救急車に乗せてもらったけれども、 大きなサイレンの音が怖くて、ずっとうつむいて下だけを見ていた。


やがて救急車は止まった 。救急車に連れられた先はとても大きな病院で、 気が早い両親は、それを見ただけでもう少しほっとしていた。


ギリギリまで張り詰めた緊張が少しだけ 弛緩した状態で、武と、梓を抱えた両親は病院に入っていった。

大柄でいかにも威厳がありそうな医者を見た時にはもっと ほっとしたけれども、そこからが大変だった。


病院のお医者さんは、梓がもっともっと苦しむような薬を飲ませたのだ 。

それは今にして思うと、お腹の中のものを吐き出すためには必要なものだった。

けれどもそんなことは当時の武にはわからない。勿論梓にも。


梓はわけもわからず悲鳴を上げ、 両親に押さえつけられた。

梓はずっと苦しそうに吐いている。涙もポロポロ流していた。


病院から家に戻っても、梓の涙は止まらなかった。 泣きすぎたからなのか、無理やり 嘔吐させられたからなのか。 梓の声はかすれていた。それでも鼻水を流しながら、梓は泣き続ける。


ついに両親は困りはててしまった。 きっと 限界まで疲れてもいたのだろう。

両親はこの惨状を解決することを諦めた。 解決ではなく、原因を責めることで少しでも不安から逃れようとしたのだ。


両親は武を責めた。武は両親から、散々に叱られてしまったのだ。


「 お前が片付けなかったからだ 」

「 前々から片付けはちゃんとしろと言っていただろう。だらしがない」

武はただただ正座をしてうつむいた。

今の自分に言い訳できることなど、何もない。


けれども「 そもそもお前は、妹を可愛いと思っていなかったんじゃないのか」 と父から言われた時は顔がカーと赤くなって、 何か一言言ってやりたいような気持ちになった。 人聞きの悪さに、文句を言ってやりたくなったわけではない。 図星だったから、反論したかった。


武は少し目頭が熱くなるのを感じながら「何と言ってやろうか」とぐるぐる思考する。

──その時だった。

「キヒヒ……」

その奇妙な笑い声に、武と両親はピタリと止まった。

3人で声のする方向──梓の方に、視線を向ける。

梓は顔をヒクヒクとひきつらせながらも、笑っていた。

相変わらず目に涙は流れていて、 目も眉も 全身も、ピクピク震えているのに「キヒヒ」 と笑っていたのだ。


──きっと梓は自分が泣いているから僕が怒られているって思ったんだ。

だから梓は、こうして一生懸命泣き止もうとしている。

両親は不思議そうに首を傾げるなか、武だけはそれを察した。


涙が溢れた。 両親にどれだけ言われても涙を飲み込んでいた武だったが、梓を見ていると胸も喉も全部熱くなって、どうしても 込み上げてくる。

とうとう武はしゃくり上げ、先までの梓に負けないくらい、わんわんと泣き声をあげた。

そんな、昔の思い出。


「どうしてそんなこと、急に思い出したの?」

梓は不思議そうに聞いた。

6月の生暖かい風が吹く。空を見上げると、 僅かにオレンジがかっていた。 時刻は、黄昏時に近づいているようだ。


「些細なことだったけど、あの日から俺はお兄ちゃんとして、お前を守らなきゃなっていう自覚が出たからさ」


武は首を曲げる 。

梓は「ダメ」と叫んだ。


「お兄ちゃん、あの坂道で振り返るとね、そこには──」

「関係ないよ」


そう言って武は振り返った。 完全に振り返ると、背中の重さが消える。背中の梓が消える。 梓は武の正面に、抱きかかえられるようにして、そこにいた。


梓は人間ではなかった。


それはボロボロで血まみれで体が、頭が所々欠けていた。

目玉はとうに腐り落ち、ただの空洞になっている。

そしてこれはこの世のものではない──と主張するように 、梓の身体は微かに透けていた。

武は梓を抱き締める。


──夏休みに入る前、武は友人からこんな話を聞いた 。


「あの坂道を登っている時に振り返ると、女の子の恐ろしい幽霊が現れるって!」


それで武は「もしかしたらその幽霊は自分の妹ではないか」と考えたのだ 。

去年に交通事故で亡くなった、最愛の妹では、と。


「お前が望むのだったら、俺はいつまでもお前をおぶさりつづけるよ。──さぁ帰ろう」

「……」

梓は溶ける 。ズルズル、ドロドロ。 背中が、 全身が熱い。 視界がぼやけて、白く濁っていく。梓が溶ける!


「オニ……オニイチャ──ン……」


梓が、あの日みたいにひきつった笑顔でこちらをみていた。


                   了



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