吐露
同期から飲みに誘われた。突然の誘いだった。飲みの誘いは何も珍しいことではなかっ た。しかし今回は初めての宅飲みというものだった。場所は相手、志倉の家である。 志倉の家は会社から徒歩で20分、自転車で10分、駅から徒歩5分の場所にあるアパート であることは知っているが、詳しくは知らない。 入社時から実に7年の付き合いであるがお互いのことはほぼ何も知らない。暇なときに少し 雑談をし、半年に一度ほど仕事終わりに飲みに行く程度の仲である。 今までは他の同期も誘って大勢で日付が変わる直前まで飲み暴れていたのだが、今回か らはサシになる。なぜならみんな退社してしまったから。今回はつまり残された俺たち二人 が傷を舐めあうために夜が明けるまで飲み明かす目的での宅飲みなのだ。ちなみにこん な寂しいことを発案したのは俺ではなく志倉である。 などとぼんやりあれこれ考えている場合ではなく、今日の仕事終わりに支度をしてから駅 に向かうという話だったにもかかわらず、俺はちょっとしたトラブルに巻き込まれたせいで残 業を余儀なくされていた。現在は定時から20分を過ぎたところだ。幸い急ぎの仕事は今 やっているこれだけなので、順調に行けば1時間以内に帰れるはずなのでボーっとしてい る場合ではないのだ。
結局あの後もイマイチやる気が起きず、2時間も残業してしまった。誰が見ても一目瞭然な やっつけ仕事なので休み明けにリテイクを食らうことを覚悟しなければならない。 志倉には遅くなることを事前に知らせており、「いつまでも待ち続ける」と返事をもらってい る。とは言え、さすがに遅くなりすぎたか、と思いながら気持ち急ぎ目に家に帰った。 玄関の扉を閉めるや否やスーツを脱ぎ散らかしながら風呂場に直行しサッとシャワーを浴 びる。体を拭きながら部屋に入り、こうなることを予想して今朝準備していたTシャツとス ウェットに素早く着替え、仕事鞄からスマホと財布を取り出しポケットに詰め込む。すると財 布の重みでスウェットがずり下がってきた。慌ててゴムをきつく結んだが、どれほどきつく結 んでもかなりキワドイ位置まで下がってしまい、このままでは外に出られない。と諦めて床 に転がっているはずのショルダーバッグの捜索を開始した。探し物は欲しいときに見つから ないもので、予想外のタイムロスとなってしまった。人生とはこういうものだよな。と変に落 ち着き払ったところで目当ての物を机の下に発見し、すかさず埃を払ってスマホと財布をし まい肩にかけた。帰宅してジャスト15分。なんだかんだいい調子じゃないか。俺はできる男 なのだ。とひとりニヤつきながら履き潰したスニーカーを履いて外に出る。ここで気がつい た。鍵、持ってなかった。慌ててスニーカーを脱ぎ捨て仕事鞄をひっくり返し鍵を探す。違 う、ここじゃない。そう、鍵は帰ってきた時またすぐ使うからと下駄箱の上に置いたのだ。何 をしている、靴の脱ぎ損じゃないか。やっぱり俺はダメな男なのかもしれない。弱気になっ ていてはダメだ。俺には待たせている男がいるのだから。気を取り直してスニーカーを履き 直し靴紐を固く結ぶと、力を入れていた手がふっと軽くなり壁にぶち当たった。鈍い痛みを 訴えている手には紐の切れ端が握られており、つまるところ靴紐が切れていた。完全に気 分が沈んだ。
安物のサンダルをペタペタ鳴らしながら薄闇を進む。辺りからはうっすらとテレビの音が聞 こえている。最近はようやく涼しくなってきたことで窓を開けている家が多いようだ。子ども のはしゃいだ声や天気予報、ジジイの盛大なくしゃみ、何かのアニメ、ドラッグストアのコ マーシャル。混沌としている。先ほどから何か美味しそうな匂いもしていて何度も腹が鳴っている。何だろうこの匂い、温かい、汁物じゃないな。煮物?あ、肉じゃがが食べたい。この 匂いの正体が肉じゃがである確信はないけれど、今俺の口は完全に肉じゃがを欲してい る。志倉の家に行く前にスーパーに行ってもいいだろうか。いや、さすがに待たせすぎか。 合流してから寄ってもらおう。うん、それがいい。そうと決まれば駅に急ごう。 俺はキュッキュッと軽快な音をたてながら小走りで住宅街を抜けた。 住宅街を抜けると、もうすぐ駅だが街灯の少ない高架下に出る。俺はこの道が大嫌いで、 今日みたいによほど急いでいるときにしか通行しないようにしている。何故か。それは高確 率で生ゴミの妖怪のような浮浪者のジジイが出没するからだ。ほら、今日もそこの電信柱 の下になにやらデカい物体が落ちている。風もないのに少し揺れている。いや、蠢いている というべきか。アレはヤツで間違いない。俺は詳しいんだ、悲しいことに。人が近づけば起 き上がって話しかけてくるのがヤツの習性で、最悪の場合は腕をつかまれる。なのでヤツ が出没しているときの最善策は一気に駆け抜けることになる。運動不足気味の現代社会 人には厳しいがやらねばならぬ。先数メートルに人影がないことを確認し、呼吸を整える。 冷たい夜風が頬を撫でる。風が吹き抜けて一瞬止んだ。今だ!つま先に力を入れ、勢いよ く地面を蹴って走り出した。はずだった。なんと少々力みすぎたようでサンダルの片方が後 方へと蹴り出されてしまった。しまった!そう思った。急ブレーキをかけたように止まり、す かさずUターン。落ちたサンダルに足を滑り入れて後ろを振り返る。落ち着け、まだ大丈夫 だ。このまま少し大回りで走りきれば何とかなる。迷っている暇はない。走れ、走らねば! 今ならまだ間に合うはずなのだから!自分を鼓舞して足を動かす。敵との距離は1mほ ど。このまま抜ける。そのときだった。背筋が凍り付いた。暗闇の中でかすかに光った二つ の点が俺の両目にピッタリはまるように映った。ヤツと、目が合った。その瞬間、一瞬失 速。マズい。足がすくみそうなのも腰が抜けそうなのも全部気のせいだと何度も自分に言 い聞かせ、必死に両足を動かせる。少しするとあたりが明るくなり、前方には何人もの人が 歩いているのが見えた。ギリギリのところで助かったのだ。全身が脱力し立っているのが やっとになって、ふらつきながら壁に近付き寄り掛かる。数メートルの暗闇が何十、何百 メートルにも感じられた。もう二度とこの道は通らないと深く心に刻んだ。
呼吸も落ち着き、ふらつきも収まったので志倉を探さなければならない。弊社の社員は報 連相がまともに出来ないので、駅で待ち合わせとは決めたが細かい待ち合わせ場所を決 めていなかったのである。仕方がないので駅前広場のドでかい樹の下に腰かけてスマホを 取り出し、メッセージアプリで連絡を入れる。 『駅ついた』『遅くなった。ごめん』『どこ?俺はでかい樹の下だよ』『北口の』 これだけ言えばわかるだろう。 相手がいつこのメッセージに気づくかわからないので気長に待つしかない。返信があるま でゆっくりさせてもらおう。ということで俺イチ押し暇つぶしゲームであるソリティアを起動。 ソリティアは孤独な者の最大の味方だ。全社会人が嗜むべきだと常々思っている。俺のマ イブームはいかに移動回数を減らすかで、100回未満を目指しているのだがなかなか難し い。ほとんど運なのでいい配列であることを毎回毎回祈っている。今回は割と順調そうで嬉 しい。ひょっとすると記録更新なるのでは?無駄な手を出さねば100回未満でクリアできる かもしれない。ちょっとした興奮と緊張で手汗がにじんできた。俺はそれほどまでにこの ゲームに真摯なのだ。
「わっ!」
突如耳元でなる爆音、右から加わる強い衝撃、傾く俺の体、小刻みに震える指先、連続で カードをめくる音、動く画面。
目の前が真っ白になった。 はっと我に返り右を見るとへらへらと薄ら笑いを浮かべている男がいた。待ち合わせ相手、 俺の同期、志倉である。
「お疲れ様です。んふふ、あれ?なんか怒ってる?」 志倉は社内で要領と間の悪い男として有名である。本人は知らないようだが。 ちなみに俺は愛想と運の悪い男として有名だ。 「いや、別に怒ってないよ。ただ俺が生まれつきこんな顔なだけだ。」 本当はちょっと怒っている。なんだよ「わっ!」って。一般成人男性にそれされてうれしい奴 いるのかよ。力強いし。手元狂ったし。手元狂ったし! しかしこんなことで腹を立てるなどという軟弱な精神は持ち合わせておりません。当方立派 な成人男子なので。そもそも俺は遅刻してきた身で、元々責められるべきは俺なので。とに かく俺は少し怒っているが怒る資格がないので怒っていないというのが正しい現状だ。頭 がこんがらがってきた。
「そっか。じゃあ~行こっか!」 間延びした声が疲れた脳に障る。今日はもう駄目かもしれないな。
駅ナカのスーパーで酒やら総菜やらつまみやらを袋いっぱいに買い込み、徐々に街灯が 減る人気のない道を歩く。
「この辺ちょっと暗すぎるよねぇ。僕は慣れてるから余裕で歩けるけどね。」
「俺は目悪いからほとんど何も見えてなくて怖い。」
「マジかぁ、この辺よくゴミ落ちてるから踏まないように気を付けてね~。」
それを聞いた俺はすかさず志倉の後ろにぴったりとつき、できるだけ同じルートをたどるよ うに努力した。
「なんで縦一列なのさ。ドラクエでしか見たことないよ?」
「FFとかもあるじゃん。」
「ほとんど一緒じゃん。ま、いいけどね。」
少し歩いたところで志倉が右折し、俺もそれに続いた。 数軒先にドラマで見るような絵に描いたようなボロアパートが見えた。まさか。
「もうすぐだよ。」
どうやら目的地はアレらしい。
今にも腐り落ちそうな錆だらけの手すりと踏板。このアパート、本当に大丈夫なんだろう か?この後崩れ落ちてドリフのオチみたいになるんじゃないだろうか?
「僕の部屋は角部屋で~す。」
階段を上りきり廊下を進む。角部屋って奥の角部屋かよ。いよいよいざという時に逃げられ なくなってきたぞ。ここらで覚悟を決めなければ。
酒は飲んでも飲まれるな。俺たちは2時間でベロベロに潰れていた。むしろ溶けていると いっても過言ではないほど全身がヘロヘロのグダグダであった。 飲み始めてしまえば細かいことから大事なことまで何も気にならなくなってしまうもので、た まに聞こえる家鳴りにもすっかり慣れてしまった。もはやこの六畳間を終の棲家にしてしま いたいとも思えてきた。酒が抜けてしまえば二度と訪れないだろうが。多分。 一生終わらないと思われていた会社の悪口も、元同期たちへの恨み節もついにネタが尽 きた。ここからは話すつもりも聞くつもりもなかったプライベートな話題になる。普段なら語らないことも、今はとことん気分がいいのでついついポロリしてしまうことだろう。しかしそれは お互い様だ。そもそもあと何年の付き合いになるかわからないけれど、たった一人の同期 だ。運命共同体として生きる第一歩を歩み出すべきか。よし、そうと決まれば何から話そう か。無難に彼女がいるかどうかとかか?さすがにセクハラだろうか?コミュニケーションと は難しいものだ。頭が回らないからか興味が出ないからか他の話題を思いつかない。面倒 だし聞いてみるか?無礼講だしな。逆にこのまま寝てもいい気がしてきた。いや、それはヤ バイか。
「ねぇ?変な話してもいいですかぁ?」
「えっ?」
志倉のいつも以上に間延びした声と俺の間抜けな声が聞こえてから、一瞬部屋が静かに なる。
「いや、やっぱりやめとこうかな~。あー、うーん。忘れてください。」
「なんだよ。言えよ。」
「え〜?いいじゃないですかぁ〜。気にしないでくださぁい。」
引き下がれるか。俺は負けん。
「俺とお前の仲だろ?な、言っちまえよ。楽になるぞ~?」
「やめて、近い、近いです。キミそんな人じゃないでしょう。酒臭いなぁ。」
「お前だって酒臭いわ!俺の倍臭いね。それで?何話そうとしてたんだ?何でも聞くぞ。」
「僕はキミのことを勘違いしていたのかもしれないですね。キミは他人に何の興味もないロ ボットだと思ってましたよ。」
「なんだとっ?!ぐうの音も出ない!!しかしもう俺たちは他人ではない。運命共同体!違うか?!」
違うだろ。頭ではわかっているが口が止まらない。完全に酔っ払いだ。じきにこのなけなし の理性も消え去るだろう。
「あ〜、一理ありますねぇ。運命共同体。なるほど僕たちそんな関係になったんですね~。」
なってない。こいつも限界が近いんだろうな。
「じゃあ、話しちゃいますか!長くなるんで途中で寝ちゃっても大丈夫ですよ~。どうしても 誰かに話したいだけなんで。」
「いや、せっかくだから聞くよ。聞く聞く。」
「絶対寝るやつだ。あ~、どうやって話始めるべきか。...藤岡君ってセンシティブな話題大丈夫ですか?」
「あーん?人並みには?」
「どういう返しだ。いや、まあいいですよぉ。どっちでも。大学時代の話なんですけどねぇ? 僕には一回生の時から付き合ってる彼女と二回生の途中で出会った友人がいたんです。」
「何?自慢話?寝ていいか?」
「違うから。どっちかっていうと不幸話だから。」 ダウト。大学の時に彼女と友達がいたやつが不幸なわけないだろうが。話が終わったらぶ ん殴ってやる。
「結論から言うとこの友人のせいで僕は大学生活のすべてを失います。」
一瞬見えた無機質な顔。初めて見る表情だった。 「友人、仲元というんですがぁ、仲元は僕とは違って少女漫画の登場人物みたいな明るい 爽やか好青年でしたぁ。顔もスタイルもモデルみたいなんですよぉ。だから一回生の時は 全然関わりがなかったんです。僕は一方的に知ってましたけどねぇ。有名人ってそんなもん ですよねぇ。それで、詳しく覚えてないんですけどぉ、仲元と何かの授業で一緒になったとき 話す機会があったんです。あれ?授業じゃなくて休み時間に急に話しかけられたんでし たっけ〜?まあなんでもいいです。とにかく話したんです。そういえば、いつもなら彼の周り には誰かいるのにあの時は一人でいたなぁ。ん?僕と一緒の時はお互い一人の時なん だっけ。いや、これもどうでもいいことです。」
いつも思うけどコイツ喋るの下手くそだよな。要領の悪さがにじみ出てる。よく寝れそうだ。
「続けますねぇ?仲元は初めから僕とは昔からの友人だったみたいにフランクに話しかけ てきてました。最初こそ戸惑ったり身構えたりした僕ですが、すぐに打ち解けてあっという間 に仲良くなったんです。僕、人見知りするほうなんですけどぉ。話していると彼とはすごく趣 味が似ていることがわかったんです。最初は好きなバンドの話から。そのあとは好きな映 画の話、好きな小説の話、あと好きな食べ物の話でも盛り上がりました。大学の学食メ ニューに海藻サラダがあったんですけどねぇ?本当に人気がなかったんですよぉ。僕以外 に食べてる人見たことなかった、あっ、統計学のおじさん教授が食べてるとこ見たことある なぁ。一回だけだけど。で、その誰も頼まない海藻サラダを仲元も好きでよく食べてるって 言ってて、すっごく盛り上がったんです。」
心底どうでもいい。なんだよ海藻サラダで盛り上がる大学生って。
「それから何度か会うことが増えて、会うたびに共感することがあって、僕らはどんどん仲 良くなっていきました。運命の人ってこういう場合もあるのかなって、そんな風に思ってまし たぁ。なんて。」 俺は何の話を聞かされているんだ?早く不幸になれ。いつまでリア充アピールするつもり だ?ひっぱたくぞ。
「あはは、つまらなそうな顔してますねぇ。じゃあちょっと端折りますけど、春休みのある日 のことです。突然彼女に振られたんです。一週間前に遊んだばかりで、その時には全然そ んなそぶりもなくてぇ、でも振られたんです。LINEもブロックされましたし電話も着信拒否さ れましたぁ。本当になぜ振られたのかわからなくて悔しくて悲しくて比喩表現じゃなくて本当 に一日中部屋に引きこもって泣きましたぁ。ダサいですよねぇ。で、次の日気分転換に散歩 してたら、僕のお気に入りの喫茶店に彼女の姿があったんです。店に入る前に見つけたの ですぐ帰ろうとしたんですけどぉ、やっぱりちょっと未練もあって物陰から軽く様子をうか がってみたんですよぉ。そしたらね、彼女、あの、うぅん。えっと、仲元と楽しそうにお茶して たんです。それを見た瞬間、僕、頭が真っ白になって、今もかなり頭が痛いです。たはは... 。どのくらいそこにいたかわからないんですけどぉ、フッと意識が戻って涙が頬を伝いまし た。前日に枯れたと思った涙がそれはもうボロボロあふれ出てきましたぁ。そんな僕を仲元 は笑っていました。笑っていたというより微笑んでたって感じでしたねぇ。悪趣味ですよ ねぇ。」
「おおう、それはつらかったな。でもお前を見て笑ってたってのは考えすぎじゃないか?普 通に考えてただ談笑してただけだろ。」
「いえ、間違いなく僕に向かって微笑んでましたよぉ。だってずっと目が合ってましたもん。」
ぞっとした。思ってたより不幸な話で酔いがさめてきた。もう一本開けよう。
「僕的にはここからの方がキツイんで僕にも一本くださぁい。一番強いのくださいねぇ。」
そういうと志倉は度数の強い缶チューハイを開けるや否や一気に飲み干した。 目が座っている。
「ハァ...。ひひっ、いい感じに酒が回ってきましたよぉ。今ならなんでも話せるぞぉ。」
「大丈夫かよ。あんまり無茶するな。」
「大丈夫ですってぇ〜。でぇ、その後なんですけどねぇ?僕ァもう泣きながら、それはそれは 大泣きしながらぁ、家に走って帰ったんです。帰ってからは更に泣いてぇ、隣の人に2回ぐら い壁ドンされましたぁ。酷い話ですよぉ。まあ、それどころじゃないんで無視して泣き続けたんですがねぇ?ちょっと落ち着いた頃にチャイムが鳴ったんです。ついに直談判に来たかと 思って応じることにしました。もう精神的には無敵に近かったのでぇ、勝てると思ってぇ勢い よく玄関を開けたんです。そしたらそこにいたの、隣の人がじゃなくて仲元だったんです よぉ!」
怖すぎる。怖すぎて笑いが漏れた。
「なぁに笑ってんですかぁ?!」
「怖すぎて笑っちまった。」
「なんですかそれ。意味わかんないですよぉ。キミって本当に変な人。えっと、それでぇ、驚 いてちょっとフリーズしちゃったんですけどぉ、負けるか!と思って彼の胸ぐらを掴んで、ど ういうことか説明しろ!って怒鳴り上げたんです。そしたら、その、ありえないんですけど、 彼が...。いや、やっぱ言えませぇん!酒の勢いでも話せないとなると今後も絶対話せない んだろうなぁ。悔しいけど墓場まで持って行かないといけない話だったみたいです。あ〜! 悔しい!とにかく酷い目にあったって話でしたぁ!彼のことは今でもたまに夢で見るほど憎 んでいます。ずっと恨んでいます。最後まで話し切れなかったですけどぉ、聞いてもらって 気持ち的にちょっと楽になりました。ご清聴ありがとうございましたぁ〜。」
言い終わるか終わらないかくらいで、志倉はバタリと倒れた。 オチが曖昧な話をしやがって。許せない。何か罰を与えてやらねばならぬ。
「お〜い、志倉ァ?そんな終わり方で納得いくわけねーだろーが。ちゃんと話せよ。話さな いなら一発殴らせろ。」
反応がない。
「志倉ァ!無視か?寂しいじゃねーかよォ?おい、聞いてんのかよ。なあ、ちゃんと話せっ て。その方が楽になるぜ?楽になりたいよなァ、志倉ァ!」
強めに肩を揺さぶるが全く反応がない。なんだ?様子がおかしいぞ?
「志倉?」
志倉はピクリとも動かずうつ伏せになっていた。揺らすと全身が脱力しているようで、手足 がブラブラと動いた。転がすようにひっくり返すと目が合った。いや、志倉の目は焦点が あっておらず、どこを見ているのか、そもそも何かを見ているのかわからないほどだったの で目が合ったという感じではなかった。その異様さから背中に冷や汗が伝う。まさか、死ん でいるのか?いや、呼吸はしているようだ。死んでいない。しかし非常にまずい状況だろ う。こういう時どうすればいいんだ。完全にパニックだ。 突然、志倉の頭を支えていた左手に生暖かいものが触れた。見ると、志倉の左耳からジェ ル状の液体が流れ出ている。
「ぎゃっ!」
異常だ!身体の異常だ!すなわち病院、救急車を呼ばなければならない。やっと自分の すべきことがわかった。救急車は何番だったか。ベタすぎるがパニックなので本当に頭が 回らなくて番号がわからない。 その時、窓から強い風が吹き込んだ。冷たい夜風が頬を撫で、酔いを覚まし、俺を少し冷 静にさせた。待て。風?窓は閉めてあるはずなのに?冷静になりすぎた俺の頭が要らぬ気 づきを得る。反射的に窓の方を見ると、見知らぬ男が立っていた。部屋の中に。 「うわあああああああああ?!」
絶叫。誰だ?何故ここに?いつからそこに?どうやって入った?状況を理解できずに俺の 不出来な頭はショートした。 男は不敵な笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。顔立ちが整っていて脚が長い、いかに もなモテ男だ。全体的に整いすぎて若干作り物感がある。呑気に男の観察をしている場合ではない。こいつの目的はなんだ。強盗か?どうすればい い。殴ればいいのか?正当防衛だよな。ええい、ままよ。 俺は男に人生で一番いい右ストレートを放った。しかし俺の渾身の右ストレートは簡単に受 け止められてしまった。そして俺はよろめき、バランスを崩して志倉の隣に倒れ込んだ。もう 終わりだ。打つ手なし。辞世の句でも読むとしよう。句って五七五?
「うっ...。」
隣でうめき声がする。志倉の意識が戻ったようだ。 「志倉!目が覚めたんだな。大丈夫か?俺たちは大丈夫じゃないぞ。多分これから強盗に 殺される。覚悟しろ。」
「はぁ?強盗ってぇ...?頭が痛い。フラフラするし、気分も悪い。仲元の幻覚まで見える。最 悪の気分。吐きそうぅ。」
「おい、しっかりしろ!」
志倉は再び白目を剥いて気を失ってしまった。 そんなことより、コイツは今なんて言った?仲元の幻覚が見える?それって幻覚じゃなく て、この強盗を見て言ったんじゃないか? 確か仲元とかいうやつはモデルみたいな好青年なんだろ?なら強盗はその通りだ。じゃあ この男は強盗じゃないのか?だとしたら何だ? 何だ?ではない。不審者である。警察を呼ぼう。 警察と救急車、どちらを先に呼ぶべきか。
「ねぇ、俺が用あるのはコレだけだから、あんまり変なこと考えなくていいよ。用が済んだら すぐ帰るし。キミも全部忘れて帰ることをオススメするよ。」
男が志倉を指差してそう言った。
「どういう意味だよ?」
「だから、キミは何もしなくていいし何も考えなくていいの。面倒だから。とりあえずそこで ジッとしといてね。」
そう言うと男はおもむろに志倉の胸ぐらを掴んでキスをした。
「ハァ?!お前何してんだよ!えっ?!」
ただでさえパニックを解消できていない俺は再びパニックに陥った。何が起こったのか全く わからない。
3秒ほど経って志倉は解放された。
「え...?どういうこと?お前一体なんなんだよ。なんのつもりでそんなことしたんだよ。って かそもそもどうやって入ってきた?!全部説明しろ。しないなら、通報する。」
回らない頭から疑問を捻り出してぶつける。危険なことは承知の上だが、このままヤツの 言いなりになるのは癪だ。
「うるさいな、ギャーギャー騒ぐんじゃない。今いい気分なんだから。」
「質問に答えろ。」
男は俺のことを興味なさそうな顔で一瞥し、倒れた志倉の頭元にしゃがみこんだ。
「今度は何をするつもりだ!」
男は俺の質問に答えることなく志倉の頭に何かをした。そしてすぐ立ち上がり、俺の方に近 寄り右手を差し伸べてきた。男の右手には志倉の耳から出ていたあの液体が握られてい た。
「俺の目的はコレ。」
そう言って男はそれを飲み込んだ。
「うげっ、それ何だよ。」
「コレはエネルギー源だ。俺は宇宙人だから、コレを主食にしてるんだ。今回は出来が良い のが採れて嬉しいよ。」
「は?宇宙人?」
「そう。キミでもわかるように言うとそうなる。」
「え?で、それ何?」
「主食」
「違くて、それの詳細が知りたい。」
「なるほど。コレは志倉くんに寄生させていた俺の一部だよ。俺は俺に向けられた感情を食 う生物だからね。コレに寄生されると俺のことを忘れられなくなるし、コレは感情を溜め込む ことができるから、脳にガッツリ入れさせてもらってたってワケ。ただ、コレは脳に強いショッ クが与えられると勝手に出てきちゃうんだけど、出てくるとすぐに腐っちゃうから急いで回収 に来ないといけないんだ。だから今日も走ってきたんだよ?せっかくの憎悪を無駄にはでき ないからね。負の感情の方が美味しいんだよ。味に深みがあるからね。その中でも憎悪は 格別なんだ。俺だけに向けられた感情だから。」
なにがなんだかわからないが、もう一度聞いたところでわかる気がしないのでわかったこと にした。 「ところで、なんで勝手に出てきちゃったのか知りたいんだけど、コレが出てくる直前の様子 を聞かせてもらってもいいかな?」
「あー、なんか、お前に彼女寝取られて裏切られたって話してて、終わったら倒れて気づい たらそれが出てきてた感じかな。あっ、話のオチ聞きそびれたんだけど、お前、当時コイツ に何したんだ。」
「俺を寄生させたんだよ。口づけて。」
「あー、さっきみたいに。」
「そう、あの時は暴れて大変だった。上手く入らないから時間もかかったし多少荒っぽくなっ てしまったよ。」
それはそれはご愁傷様だ。
「よっぽどその時のことが嫌だったんだろうよ。思い出しショックだな。」
「そんなことで?脆すぎるよ。」
「地球人は繊細なんだよ。」
「ふーん。覚えとくよ。じゃあ、用が済んだから帰るね。」
「もう帰るの?俺みたいな目撃者は消さなくていいのか?」
「キミは他の人のお手つきだからいいの。」
こうして仲元は窓から軽やかに飛び降りて去っていった。
静かになった部屋には俺と未だ目を覚まさない志倉が残された。 仲元、そんなに悪いやつじゃなかったな。 悪いやつじゃなかった?そんなことはないだろう。充分危険人物だった。なのに俺はその危 険人物と何故あんなに親しげに話していたのだろうか。今になって恐怖が湧いてきた。鳥 肌が立ち、汗が吹き出し、悪寒がする。ヤツにはコチラの警戒心を解く術があるのかもしれ ないな。奇跡的に俺は無事だったが、場合によってはサクッとやられていたかもしれない。 珍しく運が良かった。 いや待て、ヤツは帰り際に何と言った?俺がお手つき?どういう意味だ。普通に考えれば 俺もすでに寄生されているということだが、そんな覚えはない。基本的に友だちもいなけ りゃ、彼女なんか勿論いたことがない俺にどうやって寄生するというのか。寄生というとやはりキスなのか。他に何か方法があるのか。どちらにしても人とほとんど関わりがなかった 俺にはあり得ない話だ。
「あっ。」
突如思い出したのは大昔の記憶だ。あった。思い当たる節が。 俺がガキンチョだった時のことだ。田舎のじいちゃんの家の近所に住んでいた美人のねー ちゃん、俺の初恋の人だが、このねーちゃんが夏休み最後の日に俺に別れのキスをくれた のだ。俺はことあるごとにこの時のことを思い出して苦難を乗り越えてきたのだが、まさか アレは一夏の思い出なんて甘酸っぱいものじゃなかったのか?
「うぇっ。」
口からジェル状の液体が出てきた。いや、唾かなんかだろう。落ち着け。そんなわけない。 嘘だ。 俺は突然ガクッと膝をついて、そのままバタリと倒れた。力が入らない。意識が朦朧として きた。目がチカチカする。 その時、部屋にチャイムの音が響いた。しかしこの場には応じられる人間がいない。 もう一度チャイムが鳴った。 その後すぐに鍵の開く音がして、扉の開く音がした。コツコツと足音が聞こえて、薄く開いた 目に女物のサンダルが映った。
「久しぶりだね。」
忘れもしない、初恋の人の声だった。
ここで俺の意識は完全に途絶えた。