薔薇の行方
玲央は用心深く聞いた。
「で、今回の家出は、何かのきっかけがあったんですか」
「……」
李枝子はバラのボトルを自分の横に置くと、夜景に目を移しながら言った。
「積もり積もったところにね、夫の葬儀があったでしょ。
いろいろ考えて、最後の最後さびしく死なせてしまったと涙したのは、私だけ。
夕子はガムをくちゃくちゃやってるし、息子は涙ひとつ見せない。
お骨を拾い終わったら、精進落としの席で、こういうのよ。
あのさ、相続のことだけど、法的に俺の取り分は……って」
「その場でその話ですか……」
「その前に、あなたから清美さん、あ、嫁のことよ。の様子が聞きたいわ。って返したの。どのぐらいお見舞いに行った? 少しは会話しようと努力してる? まわりのことは結構わかり始めてるのよ、って」
「で?」
「どうせそっぽむくんだろうと思ったけど、そしたら食いついてきてね。そうだそのことだけど、って。もう病状に変化がないようなら、自宅に引き取ってリハビリでもした方がいいかなって。第一、夕子が母親に会いたがってもう手におえないんだって。
びっくりして、そんな、自発呼吸はできても痰吸引とか体位交換とか下の世話とか胃ろうケアとか、つまり私がするわけ? って聞いたら、
それはもちろんヘルパーさんも頼むけど一日中ってわけにもいかないし、母さん、もう身軽になったことだし、うちに住み込んで世話してくれないかなあ、っていうのよ。
身近に話ができる肉親がいた方が、荒れてる夕子にとっても一番いいからって」
玲央は眉間にしわを寄せた。
「……身軽になった? て、言いました? あんまりじゃないですか?」
「それがあの子の本音なんだとわかったわ。
父親が自殺したことを悲しむんじゃなくて、母親が使いやすくなったことを喜んでる。そう思ったら、もういきなり何もかもがどうでもよくなってね。
親族の前で怒鳴っちゃったのよ。
ろくに妻の見舞いもせず、いやなことから逃げて女と浮気してる暇があったら、仕事終えたらまっすぐ家に帰ってきたらどうなの!
どんな状態になろうとも清美さんは一生あなたの妻なのよ。そしてこの子の父親は一生あなた一人なのよ。
私には私の人生があります。私は家政婦じゃありません。息子としてのあなたへの愛の貯金もゼロになりました。私は大事な夫を孤独の中で死なせました。もう、私の人生は閉店。あなたは夫として父親として、あなたの愛するべき人を愛して生きなさい!って」
「よく言った! それでいいんですよ。あ、閉店はよくないけど」
「それきり、ありったけの貯金をおろして、家を飛び出して、ホテルを転々としているの」
「そして、僕と会った」
「そう……」
またドリンクを一口飲むと、李枝子は続けた。
「本音を言うとね。
私は誰よりも、家に、夫のそばにいたかったの。たとえボケていても、私には大事な夫だった。
それをさせてくれない嫁が、息子が、孫が、本音では憎かったのよ。結局私は、そんな程度の人間だったのよ。
孫の孤独も、嫁の苦境も、息子の葛藤も、背負いきれなかった……」
「大丈夫」
「えっ?」
「そんな立派な人間にならなくていいですから。今、あなたの背の荷物、ぼくが半分背負いましたから。ほら、このバッグ、見かけより今ずっと重くなってるんですよ」
李枝子は虚を突かれたような顔で玲央を見た。
「あなたはバラだけ持っていればいい。そして、この綺麗な夜景を見ていればいい。去る前のユリカモメを見ていればそれでいいんです。僕はあなたのお名前を聞いたしお話も聞いた。あなたの苦しみを、一生、忘れません」
「私を許してくれる?」目に涙をためて、李枝子は言った。
「あなたは許されています」
「あのね、手を握っても、いいかしら」
玲央は両手で李枝子の手を包んだ。乾いて、苦労の刻まれたしわに覆われて、疲れ切った手。彼女はその上に、首を垂れた。
玲央の手の上に、涙のあたたかいしずくが垂れた。
柵から飛び立ったユリカモメが、二人の頭上高く飛び去って行った。
それから。
お酒買いましょうかと、玲央は言った。
あのホテル、連泊してるわけじゃないですよね?
今朝チェックアウトして、あとは街をふらふらして、夜はカプセルホテルにでも、と思ってたの。ただ、お誕生日をホテルのバーで祝っていただけよ。
じゃあ、コンビニで適当に酒と食い物とスイーツでも買って、僕の家で改めて誕生日祝いしましょうよ。冗談抜きで、きったない部屋ですけどね。
李枝子は笑った。あなた、レンタルあなたのためにほとんど何もしない人、じゃないじゃない。やりすぎるぐらい、何でもしてくれる人じゃない。
玲央は笑って答えた。
相手によりますよ。
玲央の家は、この地区にもこんなところがあるのかという感じの雑然とした雑居ビル群の中の古いアパートだった。
一人暮らしの若い男性のお部屋見るのなんて初めて、と、興味深そうに李枝子は1DKの雑然とした部屋を見回した。
ノートパソコンのほかは、ゲーム類と、漫画と、カップ麺と、ストロングゼロの空き缶がつまったゴミ袋が乱雑に散らばっている部屋。
なんか新鮮だわ、ドラマのセットみたいと言われて、玲央は、そんな感想予想外過ぎると言って笑った。よほど整頓好きの息子さんだったんですね。
すでにワインの酔いが冷めかけているところに、李枝子がお金を出して買ったウィスキーやビールを流し込んで、冷凍のピザやナポリタンやチキンを解凍してせまいテーブルに置いて、レンタル男と人生のがけっぷちにいる七十二歳は、くだらない話をしながら、よく飲み、よく食べた。
そのうち二人は体をぐったりと壁にもたせ、口調も緩やかになっていった。
「こんな生活いつまでも続けらんないってことはわかってるんだよなあ。ホストにでも戻ろうかな」
「その職業だって、独立して店でも開かない限り将来はないわよー」
「そうなんスよね、姫同士の掴み合いの喧嘩見てて女性全体に失望しちゃったところもあってさ。李枝子さんみたいな人と話してると、ほっとするな」
「そうだ、勉強してカウンセラーになりなさいよ、あなたは聞き上手よ。優しい人は優しさだけで生きていける世の中であるべきよ」
「僕優しくなんかないですよ。え、優しいのかな? 本音言うと、優しくされたいのは僕の方なんだよなあ……」
そこで玲央のポケットの中のスマホが鳴った。
「あ、スマホ落としたなんてやっぱり嘘なんだ、嘘つき」
玲央はラインを開くと、「やっぱり」と呟いて、ちょっとバラの写真撮らせて
というと、承諾も聞かずあちこちの角度からテーブルの上のバラの花束を撮影した。
「送信。これでよし」
「あ、もしかしてお父様?」
「一応、保護報告」
「私保護されれなんかいないわよ。お客になってあげたらけじゃない」
「舌が回ってないですよ。そんなんでここから帰れるのかな」
「ろこへ帰れっていうのよ。ね、私のスマホケース見て、蛸さんなのよ。かわいいれしょ」
「なんか、ケースのポケットにメモが差し込んでありますね」
「ああこれ。私もね、いつ夫みたいにボケちゃうかわららないから、スマホを開けるためのパスワードと……
それと、貴文のスマホ番号は書いてあるの。一応、ね」小さく折りたたんだ紙を広げて彼女は言った。
「思い切って連絡して、僕に話したようなことを、息子さんと腹を割って話したらどうですか。結局、心配なんでしょう」
「孫娘と嫁のことはね。でも、帰ってろうなるの。
貴文は喜んで私に嫁と娘の世話を押し付けるれしょうよ。結果ますます、安心して女遊びに精を出すだけ。
私は家事を一手に引き受けて、孫の心のケアをして、嫁の介護をして、それで?
嫁がこれ以上回復せず、私までボケはじめたら? あるいは、過労で倒れたら?
孫が聞いてたこと、覚えてるれしょ。いっそのこと早く片付いてくれたらUちゃんと自由に会えるのにさ、って……。
愛して育てた息子に、使うだけ使われて、使えなくなったら、粗大ごみ。
生きざまは選べなかったけど、私、自分の人生の最後ぐらいは、自分で決めたいの。意地でも」
玲央は押し黙った。
「甘いこと言いましたね。すみません。今はただ、飲みましょう」
「うん、ここで、あなたの顔だけ見てる。何もかも忘れるまで、飲むわ」
そこらへんから、玲央の記憶はかすみ始めている。たしかこう、繰り返した。
生きてください。それでも、あなたはあなたの人生を、生きてください……
李枝子が耳元で囁いたのも、かすかに覚えている。
ありがとう。私、きょう、あなたに会えてよかった……
あたりの明るさで何となく目をさましてスマホを見ると、午前十時を過ぎていた。
部屋の中に、李枝子の姿はなかった。
そのことはそんなに意外ではなかったが、バラのボトルもなくなっているのを見て、不安で胸がずきんと痛んだ。
ふと散らかった床を見ると、李枝子の淡水パールのイヤリングの片方と、一枚の紙きれが落ちている。メモ用紙ぐらいの大きさだ。
書いてあるのは、数字だった。電話番号のようだ。
……なんだっけこれ?
ああ、パスワードと、息子さんの……
何もかも忘れるために飲み続けて、結局、これを落としたまま行ったか。
振り返ってテーブルを見ると、食事の残骸は綺麗にごみ入れに捨てられ、ただ一つ、えらく分厚い茶色の封筒が置いてある。
封筒の表には、幾分乱れた字で、こうあった。
『延長代です。もう私には不要なものです。大事に使って、勉強して、カウンセラーになってね』
中身を見て玲央は驚いた。
二百万ぐらいは入っていそうだ。
これは多分、持ち出した全財産じゃないか?
何だかいてもたってもいられず、水をごくごく飲んでから、玲央は不安と恐怖に追い立てられるように、鍵とスマホと、それからイヤリングとメモを持って部屋を出た。
どの道をどういう風にたどって、あの人は二日酔いの頭で、どこへ向かったんだろう。
自分の予想通りでないことを祈る。どうか、そっちに向かっていませんように……
十五分ほど歩いて、永代橋についた。
朝の光の中で見るイースト21のタワー群は、夜の怪しさとはうって変わり、隅田川に映る朝日を反射してさわやかにきらめいていた。
だが、橋を歩き始めてしばらくして、玲央の足は止まった。
……置いてある。
あの、赤いバラが。
畜生、なんて目立つ色なんだ。あの人が悲しみのあまり顔を突っ込んでいたあの花束。
握った手の上に落としていった涙……
ボトルに活けられた赤いバラの前に立つ。
たとえここにこれがあっても、最悪の予想通りとは限らない。
あの人は、夫の魂にこれをささげて、何もかも捨てて生きなおすことにしたんだ。そうだ、そうに違いない。
もしかしたら昨夜でいろんなものを吹っ切って、家に帰っているかもしれないじゃないか。夫と住んでいた、あの家に。あるいは、孫娘の待つマンションに。
そう思うと、なにかに突き動かされるように、玲央はメモを取り出し、電話番号を確かめずにはいられなかった。
知らない番号からの電話でも、もしあのバカ息子が切羽詰まっていたら、出るかもしれない。藁にもすがる思いで待っているなら。
ふっと息を吸ってから、玲央は番号を押した。
はたして会社にいるのか、会社にいるなら仕事中は出ないだろうか。自宅で帰りを待っているなら…… もし彼女が帰っていたら……
五回ほどコールがなって、男性の声がした。
『はい、どなたですか』
出た! こいつが息子か!
しまった、何て言うか考えていない。ええと、どうはじめよう。
「初めまして。僕、昨日、あなたのお母様と偶然お会いしてお話ししたものです。そのとき、スマホからこの番号を書いたメモを落とされていきました。息子さんの番号だとお聞きしていたので」
『え! 母と、会ったんですか? どこで、どこでですか?』
すがりつくような声。
ああ、帰っていないんだ。失望が、背中から襲ってくる。
「お会いしました。細かいいきさつは言えません。おうちでの事情を一通りお聞きしました。お孫さんのこと、お嫁さんのこと、亡くなったご主人のこと、……そしてあなたのこと、いろいろと悩んでいらっしゃいました」
『……あなた、誰なんですか』
さっきより声が低い。
特殊詐欺のはやっている昨今だ。エリートサラリーマンなら、一瞬で頭を冷やして、まず疑ってかかるのも無理はない。それならそれでいい。
「お母様の今の居場所をお知りになりたいなら、あなたもよくご存じのあの橋を訪れてください」
『橋?』
「永代橋です。そこに、あなたへの別れのプレゼントが置いてあります。じゃ、僕はこれで」
『きみ!』
「いい一夜を過ごさせてもらいました。言葉にできないような一夜をね。
ああそうだ、彼女は過分なお金を置いて行かれました。もう自分には必要ないからと」
『必要ない……』
「そういうことです。僕もこのような札束を手にするのは心苦しいので、処理に困ってるんです。僕はこれ、どうしたらいいと思いますか。あなたからの良案はありますか。彼女の口座番号を教えてくれたら、降り込めるんですが」
しばらく、相手は黙った。
『悪いが切るぞ。警察と相談したいんでね』
「つまり僕の言っていることは信用できないと」
『若い男を一晩カネで買った婆さんが大枚置いて行ったんで、どうしたらいいか息子に相談するために電話をかけたのか? あげくに、婆さんの口座番号教えろ?
だれがそんな頓珍漢な話を信じるっていうんだ。もう少し頭を使ってやり直せ、ばかばかしい』
「そうですか。信じようと信じまいと、僕は彼女と長いお話をしただけです。
貴文さん、李枝子さんから聞いたんですが、奥さんは病床であなたの名前をしきりに呼んでいたそうですよ。清美さんをたまには見舞ってあげてくださいね。父親として夕子さんの心に寄り添って、清美さんをこの世に呼び戻してあげてください。
僕はきっと、李枝子さんが生まれ変わるとしたら、ユリカモメだと思います」
『え……』
そのまま通話を切った。
そして花の上にかがむと、いちばん大きな紅バラの中心に、あのイヤリングを置いた。
さあ、来やがれ、バカ息子。
奴は来る、きっとやってきてこのバラとイヤリングを見るだろう。
悩むがいい、後悔するがいい、苦しむがいい。自分のしてきたことと向き合うがいい。
そっちからかけなおしてきたって、こっちは金輪際、出ないからな。
玲央は、イヤリングのきらめきを見ながら思った。
李枝子さん。やっぱり無理です。
『優しい人は優しさだけで生きていける世の中であるべきよ』
僕には、その資格がありませんでした……
それでも僕は、信じています。
あなたがこの世界のどこかで、今も歩き続けていることを。
僕らの命を作り出した意地の悪い何かが、もうそこまででいい、よく生きたよく頑張った、と許して本物のご褒美の花束を渡してくれるまで。
ねえ、李枝子さん。
僕もその花束を、心の中で、待ち続けているんですよ。