家族の壊れる音
人生最後……
やはりこの人は、そういうつもり、なのか。
青年は考え込んだ。
自分は金をもらい仕事を引き受けた。多分この人は自分の人生について誰かに語り遺したいのだろう。
だがこれは仕事だから、そのあとこの人がどうなろうが、自分は係わるべきでも、気にするべきでもないのだ。割り切ろう。
橋を渡りきると、聖路加病院のある側へ階段を降り、ゆるくうねる川岸の道をならんで歩いた。
「ここから見る永代橋もきれいね。青く光って」
振り向いて、李枝子は言った。
「夜景もとても幻想的。都会は夜がやはり一番美しいわ」
「あと、大雪が降ったりしても綺麗ですよね」
「そうそう、都会の雪景色も好き。汚いものを全部、白で隠してくれるから」
「ちょっとそこのベンチに座りましょうか」
玲央は緑の植え込みを背にしたベンチを指さした。
「変な感じ。今夜、この時間、こんな風に誰かと話をしていることが」
まだ染まっている頬に手を当てて、李枝子は言った。そして
「なんだか暑くなってきちゃった」と言って、スプリングコートを脱ぐと石のベンチの脇に置いた。
コートの下は清楚な白いブラウスで、淡水パールのネックレスが首元に揺れている。耳にも似たような小さなパールのイヤリングをして、薄く口紅を引いたほかはこれと言って化粧をしていないけれど、しわも少なく、きりっとした目元と通った鼻筋は、若いころの多分端正であっただろう容貌を思わせた。
「さて、と。お代はもらっているから、何でも聞きますよ。お望みならアドヴァイスとかも」
「じゃあ、ね。そのバラ、私に持たせて」
「あ、はい」
玲央が持っていたバラを李枝子に渡すと、彼女は嬉しそうにそれを両手で受け取った。
「いい香り。綺麗ね。夜景よりも、やっぱりお花のほうが綺麗」
「バラに込められた優しさごともらったんですからね」
「うまいこと返すわね、あなた」
それからしばらくきらめく隅田川の水面を見ていたが、李枝子の方から口を開いた。
「重くて長い話するけど、いい?」
「どうぞ、そのためのお代ですから」
それから、「ちょっと待って」と言い、玲央はバッグの奥からスポーツドリンクを取り出した。
「これは常備してる奴です。お酒の後だと喉が渇くでしょう」
「まあ、気が利くのね。ありがとう」
李枝子は喉を鳴らしてドリンクを飲んだ。そして、ふーっとため息をつくと、決心したように言った。
「私ね。今、家出中なの。家を出て、一週間目かな」
「おうちにはどなたがいらっしゃるんですか」
「ひとりぼっちって言っちゃったけどね。現在の一応の家族構成は、私と息子夫婦、中学二年の孫娘。嫁は入院中。でもね」
もう一度ボトルに唇を当てると、川面を睨むようにして、彼女は続けた。
「私には、私の家があったのよ。いえ、あるのよ。私と、夫の家。一人息子を大事に育てた古い家。息子が結婚して家を出てから、あとはもう、二人静かに暮らすつもりだった。
でもね、五か月前息子から連絡が入って、母さん、女房が倒れたって。脳出血だって」
「お嫁さん、おいくつですか」
「今、四十歳。もうちょっと歳食ってからかかる病気だと思っていたわ。
学校でね、PTAの集会の最中に倒れて救急車で運ばれたの。だから孫娘は、その時の様子を見てるのよ」
「それは、ショックだったでしょうね……」
「お母さん子だからね。私はその時まだ夫と二人暮らしで、軽度認知の入っている夫の世話をしていたのよ。夫は普通に話せてお散歩もできて、ただ、会話が頓珍漢になったり家への道が分からなくなる程度だったの。そのときはね。だから、急な知らせを受けて、病院に行くけどすぐ帰ってくるからって言って、とりあえず救急搬送された病院に駆けつけたの。
そうしたら、思ったより症状が酷くてね。
お医者様が言うには、出血が広範囲に及んでいるので、脳全体が圧迫を受けているって。さらに脳に浮腫が生じることで頭蓋骨の中で圧迫が進んで、脳の一部が正しい位置から押し出される、いわゆる脳ヘルニアの状態だというの。人間の意識などを司る脳幹の障害が不可逆的となり、意識障害が長く続くだろうって……」
「それは…… で、息子さんは?」
「泡食って駆けつけて、どのぐらい意識が戻らないのか、後遺症は、と懸命にたずねてたわ。そしたら、おそらく高次脳障害が残るだろう、たとえ意識が戻っても四肢にまひが残り、会話も元通りにできるかはわからないって。最悪の場合、寝たきりもあると……」
「……朝行ってらっしゃいを言ってもらった奥さんがいきなりそれって、悪夢ですね」
「もう、唖然としてたわ。私もよ。まさに悪夢だった。その時私、何を考えたと思う?」
「そりゃ、現実的に考えて、この先のことですよね……」
「そうよ。それと、夫とのこれからのこと。嫁がどうなるかという心配や孫の気持ちなんて、思いやる余裕がなかった」
「そんなもんですよ、無理ないですよ」
目の前をカモメのシルエットが横切って、羽根を傾けて川沿いの手すりにとまった。
「ユリカモメ、かしら」
「今四月の末ですから、もうすぐ渡る時期ですね」
「お仲間と、長い旅に出るのね」なんとなく、うらやましそうに李枝子は言った。
「いいわね、そうやって季節を追って、自分のいのちを生きていくのね」
それから李枝子はバラの香りを吸い込むように花の中に顔を埋めて、言った。
「正直、今、頭が混乱してるの。あなたという話し相手が急に現れて、考えまいとしていたこと、考えなきゃと思っていたことがばらばらに浮かんでくるんで、時系列ごとに話はできないと思うけど、とにかく思いつくままにしゃべるわね」
「どうぞ、お話ししたいことから自由にしゃべってください」
青年の丁寧な口調は李枝子の心を落ち着かせてくれた。
「私たち、……私と五つ上の夫、お見合い結婚だけど、夫婦仲はよかったのよ。
子どもは一人しかできなかったけど、自慢の息子だった。頭が良くて、運動も得意で。
夫は穏やかで優しい人で、子どものおむつもかえてくれたし、私が体調悪いときは料理も作ってくれるような人だったの。市役所勤めで、定年まで働いたわ。
息子は…… 貴文っていうんだけどね、国立大学を出て、一流企業に入って結婚して孫ができて…… ただ、女癖は悪かったけどね。常に複数、恋人がいたと思う。
とにかく、普通の人生の、なんてことない幸せを、これ以上望むものはないと感じて欲もなく生きてきたつもりだったのよ」
「そこまでは、円満な人生だったんですね。お姑さんとかとは、うまくやってきたんですか」
「あっさりさっぱりした人でね。結婚当時から、私嫁姑なんてべたついた関係嫌いだから、あなたのことはお友達の一人ぐらいに思っておくわ。お互い気ままに生活しましょ、あまり干渉し合わずにね、なんて言ってくれて、こちらとしてはありがたかったの。
でも、舅が亡くなってからは愚痴や嫌味ばかり電話で言うようになったの。一人しか子供を産まないで暇な主婦やってて、いいご身分よねって。私、パートはしてたんだけどね。
そして、自分の世話をしに来いとか、旅行に連れて行けとか。そのたびに夫が助け舟を出してくれて、僕が様子見に行ってくるよと言ってくれるんだけど、嫁の役割を果たしなさいよって、人が変わったように私ばかり責めるのよ。
で、ある日階段から落ちて足を骨折して、何にもできなくなったので、私泊まり込みで介護したのよ。私が六十過ぎた頃かな。
なかなか良くならなくて、本人も気が短くなって私やそこらのものに当たり散らしたり、散々だった。チワワを飼っていたんだけど世話もできない様子なので、わんこは家に引き取って世話することにしたわ。
知らない家と人が不安なのか、チワワのロリ―はキャンキャン鳴き通してたけど、やがて姑が施設に入ると同時に、急に弱って死んじゃったの。
そのことを話したらひどく泣いて、あなたのせいあなたのせいってひとしきり責めた後、誤嚥性肺炎であっけなく愛犬の後を追ったわ。
それでも、私は自分の役目を全うしたと感じていたから、ロリ―も姑も天国で仲良くしていると思うと、そう嘆く気持にもなれなかった」
「大変なことを、よくやられたと思いますよ」
「ありがとう。でね、あとは夫と静かに暮らすだけと思っていたら、だんだん夫のボケが目立つようになっていったのよ。その挙句に、嫁が倒れたでしょ。で、息子に頼み込まれたのよ。
会社が忙しくて、妻の見舞いにも頻繁にいけないし、娘の世話もしきれない。通いでいいからうちに来て、色々助けてくれないかって。
嫁が倒れた時、孫娘の夕子は十三歳の終わりごろで、ちょうど気難しくなる年頃だったし、母親のことが心配で情緒不安定になっているだろうし、できるだけのことはしたわ。
孫の帰宅時間は必ずマンションにいるようにして、宿題を見て、行くたびにお惣菜の作り置きをして、嫁のお見舞いに行って、体が固まらないようにマッサージをして……」
「休む間もないですね。息子さんは、お見舞いには?」
「それがね、最初のうちは時間作って行っていたんだけど、次第に病院に顔を出さなくなったの。そして、仕事が忙しいとかでどんどん帰宅時間が遅くなっていってね。
本当は早く帰って、情緒不安定な孫娘の相手をしてほしかったんだけど。そのうちどうも帰ってくると香水の匂いがするようになってね。孫娘に言わせると、お父さん絶対浮気してるって。こんなときに、許せないって」
「……事実だとしたら、最低ですね」
「夜中にトイレに起きたら、トイレの中でお父さんがスマホで誰かと話してたっていうの。あのままの状態が続くんじゃたまんないよ、いっそのこと早く片付いてくれたらUちゃんと自由に会えるのにさ、って言ってたっていうのよ」
「……」
「そして入院して二か月を過ぎたころ、主治医に病院に呼び出されて言われたのよ。とりあえず自発呼吸はできるようになったし、ここでできることはもうないから転院してくれないかって。療養型の施設にでも」
「転院……」
「入院が長くなると診療報酬が大きく下がるし、人の命を助けるのが病院なら、救急患者は一人でも多く受け入れたいでしょうからね」
「意識は戻らないままですか」
「時々目を開けて、かすかに声を出すのよ。あたりのことが分かってるのかわからないけど、……貴文さん、夕子…… どこ? って。そしてまた、眠ってしまう……」
「切ないな……」
「息子は仕方なく転院先を探して嫁の移動は手伝ってくれたけど、仕事を言い訳にして帰宅は遅くなるばかり。
私だって、家を空けてる間ヘルパーさんは頼んであったけど、寂しがり屋の夫のことがいつも気がかりだったわ。
ある時出張に行くからっていうんで、夫のこともあるし私の自宅の方で孫娘を預かったのよ。でね、療養型の施設で、高熱が続いてるんで一時総合病院に移したいという相談の電話があったの。息子さんの連絡先にはつながりませんって。私も息子のスマホにかけたんだけど、出なかったわ。で私、息子の会社に電話したの。出張先の息子に伝えたいことがあるので止まり先を教えてほしいって。
そしたら、有給休暇を取られているはずですがって……」
「うわ、もう決まりですね」
「私がいるからって、面倒は放り出して現実逃避し始めたのよ。
嫁の熱は入院先で一応下がったんだけどね。
私の方は、昼は夫のためにヘルパーさんを頼んで、あとは孫の世話や家事、嫁の見舞いに忙しくて、帰りはいつも夜だった。 何でいつもいてくれない、なんで毎日いなくなるって、夫は不安そうにしてなかなか寝てくれないの。手を握って一緒に寝たわ。でも疲れすぎて私も寝られなくて、毎日いらいらしてた。
寂しさのせいか夫の認知症もどんどん進んでしまってね。
それでつい、言ってしまったことがあるの。
事情は話したでしょう、私の体は一つなのよ。今あなたにそういわれても、できないことはできないのよ。家で大人しくしててよ、私の苦労もわかってちょうだい! って。
……夫は黙り込んでしまった。今でもあの時の言葉、後悔してるわ」
「いやそりゃ無理ないでしょ、まさに女三界に家無し、って状態じゃないですか。そんなに何もかも背負いきれないですよ、そりゃ」
「夕子はぐれ始めて帰宅がどんどん遅くなるし、私とも口きかないし、そのことを息子に相談しても、母さんだけが頼りだよ頼むよって、それだけ」
「あまり物分かりのいい母親してないで、たまには李枝子さんも一回切れてみたらどうですか、その甘えん坊の息子に」
「私より先に、孫の夕子の不満が爆発したの。
お父さんはお母さんが壊れたから捨てて浮気してるの、知ってるからねって。私のことも同じ、いなくなればいいと思ってるでしょ。おばあちゃんだっておじいちゃんのところに帰りたいの、わかってる。だったら私がいなくなればいいんだ、こんな家なくなればいいって滅茶苦茶に窓ガラスを割り始めてね。
息子が切れて孫をひっぱたいたらそのまま外に飛び出して、二晩帰ってこなかったの」
「娘さんも、色々抱えてたんだろうな。父親の裏の姿を知ってるだけに、可哀相ですよね……」
「そうよね。どれだけあの子も辛い気持ちに耐えてきたか。
とにかくすぐ警察に届けを出して、息子と探したわよ。ヘルパーさんには大枚はたいてずっと夫のお世話をお願いしてね。もう、へとへと。
孫娘は新宿の盛り場をウロウロしているところを三日目に発見されて、頭を金髪にして帰ってきたのよ」
「金髪でも、とにかく見つかってよかったですね。このご時世、どこでどんな目に遭うかわからないし」
「私も兎に角、ほっとしたのよ。でもできの悪い息子は、こんな時に何をしてるんだ、家族全員が大変な思いをしてる時にって怒鳴りつけるだけ。
お母さんほったらかして女に逃げてるバカ父になんて言われたくないって、孫娘も激怒してね。それはその通りよ、だけど父親に向かって消火器とか振りかざし始めたんで止めに入ったら、巻き添えで糞婆あ呼ばわりされて、家の中もうもうメチャクチャ」
「……さんざんですね。しかし息子さんが一番駄目だなあ」
「つまり私の育て方が悪かったって事かしらね……」
「いやその年齢で、もう育て方も何もないですよ。正直僕だって、人のことは言えないかも。両親の離婚の原因は母の浮気だったんですけど、それでいっぱし世をすねたショーネンを気取っちゃってね。女性にはなんにも期待しない、ただの遊び相手。このまま何も考えず結婚なんてしたら、あなたの息子さんと同じ、妻がめんどくさい事態に陥ったらポイして次行こう、って人間になってたかもしれない。
でもね、あなたはできること、全部やってるじゃないですか。父としての自覚が持てないのは本人の責任ですよ」
「でね、疲れ切って家に帰ったら、ヘルパーさんが、夜中に夫が姿を消したと……」
「うひゃあ。李枝子さん、話盛ってませんか」
「あなた相手にこんな場で盛ってどうするのよ。不幸ってね、しょい込み始めると団子になってやってくるのよ」
「いや、でも行方不明ってもうそれ、許容量超えてますよ。体が一つじゃ足りないじゃないですか」
「でね。夫は三日後に見つかったの。いえ、遺留品が見つかったの」
「遺留品て……」
「靴と、リュック。場所は、橋の上。あの永代橋の、最初カーネーションをさしてあったところよ」
「え……」
まさか、あの話につながるとは。いや、カーネーションは、夫婦二人で一緒に見たのではなかったか?
では、どうしてそこを選んだのだろう。花の記憶が、誘った?
「遺留品が見つかった二日後、夫の遺体は川から上がったわ。
なんだかもう、涙も出なかった。
何を考えて、どうしてあそこに、と思うわよね」
「ええ……」
「夫はね、ボケ始めてから、母の日に毎年赤いカーネーションを私にくれるようになったのよ。私のことは、妻であり母親であり、という風にごちゃごちゃになっていたのかもしれない。そして、二人であの橋の赤いカーネーションを見たことが、何かのスイッチになったのかもしれない……」
「母親を亡くしたことと一緒になって?」
「なんだかそのことはもう、忘れた様子になっていたけど。あそこを選んだのが、偶然とは思えないのよ。
息子家族の世話で私が家を空けるようになってから、繰り返し言うようになったの。
わしを置いていかんでくれ、ずっとそばにいてくれ、わしにはおまえだけだと。その手を、できないことはできないのよって怒鳴って、私は結局、離してしまった。
……誰かの大事な人がいなくなったんだね、って。そうつぶやいた場所で、何を思って、夫は一人ぼっちで……」
玲央は声に力を込めて言った。
「どう感じようと李枝子さんの自由ですけど、少なくとも旦那さんの死に、責任を感じることはないですよ。あなたはよくやりましたよ。それ以上、何ができたっていうんですか。体は一つしかないのに。あなたは悪くありません」
李枝子はうつむくと、バラの花の中に涙を落とした。